80 ep.9 【ケヴィンとマリアン】◆
『迷いの森』で久しぶりに走り回って遊んでいたら、女性の悲鳴が聞こえた。
転んだとか枝に引っかかれたとかの悲鳴じゃなくて命の危険を知らせる悲鳴だったから、僕は全速力で声のする方に走った。
金色の髪の少女が三頭の野犬に囲まれていた。野犬はみんな痩せていて殺気立っている。少女は白いショルダーバッグを下げていて、野犬はそのショルダーバッグを欲しがっているように見える。
あのショルダーバッグさえ放り投げれば野犬は離れるんだろうけれど。
僕は十七歳で体重五十二キロの犬型獣人だ。犬化している姿で話しかけるわけにいかないし、野犬よりはるかに大きい僕が姿を現したら少女を怯えさせるだけだろう。
僕が迷っているうちに、野犬の一頭がそのショルダーバッグに噛みついた。続いて他の二頭も。
少女は引っ張られて倒れ、声も出せずにいる。三頭の犬はショルダーバッグに噛みつき、少女は野犬に踏まれたり引きずられたりしている。あまりにされるがままなので、意識を失っているのかも。
やっぱり行こう。興奮した勢いで少女に噛みつくかもしれない。
僕が近寄ると三匹の野犬は怯えた様子でバッグから離れた。やっと手に入れた食べ物をあっさり諦めるほど僕を怖がっている。
三頭の野犬は尻尾を股の間に挟んで逃げ出した。
僕はいったん服を隠していた場所に大急ぎで戻り、服を着てから少女のところに戻って声をかけた。少女は目を開けたまま、ガタガタ震えている。
僕が近づいたら視線を僕の顔に向けたけれど、一瞬だけ怯えた表情をした。もしかして、僕がさっきの超大型犬だと気づいたのだろうか。気づくか。入れ違いに登場したんだものな。
「大丈夫?」
「だい……じょうぶ」
「怪我は? ああ、腕と脚がすり傷だらけだね。噛まれてはいないよね?」
「はい」
「立てる?」
「立て、ます」
手を貸して立たせたけれど、彼女の足はガクガクしている。年齢は十五歳くらいかな。
「一人でこの森に来たの?」
「はい。薬草が生えているって聞いて来たんですけど、全然見つけられなくて。気がついたら犬に囲まれていて……」
「僕はここで野犬を初めて見た。今日は運が悪かったね。でも、一人ではここに来ないほうがいいと思う。ここ『迷いの森』って言われるぐらいだから。迷子になって飢えて命を落とす人もいるんだ」
少女がなにか言いたそうな目で僕を見上げた。少女はずいぶん小柄だ。僕は百八十センチあるけど、この少女はせいぜい百五十センチくらいか。
「あなたは? 迷子にならないの?」
「ああ、うん。迷子にならない。子供のころからよく遊びに来ているんだ」
「そう」
犬型獣人は『迷いの森』で迷わない。
少女に付き添って歩き、街道に出た。「もう大丈夫」と少女が言うから手を振って別れた。最後まで彼女は「あの大きな犬はあなたなの?」とは聞かなかった。でも、そう思っていることはわかった。だって、ずっと緊張している匂いがしていたもの。
小さくてふっくらしていて可愛い子だったけど、もう二度と会うことはない。会うことがあったとしても、僕とあの子が仲良くすることはない。
家に帰ったら、近所の子が駆け寄ってきた。
「ケヴィン、あそぼ」
「ああ、いいよ。何して遊びたいんだい?」
「フィーちゃん、穴掘り」
「穴掘りねえ。いいよ。待ってろ、いまスコップを持ってくるから」
「手で掘る」
「手? 怪我するだろう。やめとけよ」
ソフィアはまだ三歳だから、あまり言葉が達者じゃない。
「フィーちゃん、穴掘りできる」
「ソフィアも大きくなって犬に変身できるようになったら、手で穴を掘れるぞ」
「フィーちゃん、フィーちゃんね」
「なんだい?」
ソフィアはなぜかそこで口を閉ざした。しばらく待ったけれど、その先をしゃべらない。何をしゃべるのか忘れたのかも。三歳だから。案の定、いきなり話題が変わった。
「ケヴィン、シュークリーム、好き?」
「シュークリーム? なんだそれ。知らないな」
「美味しいよ。『隠れ家』にある」
「ふうん」
シュークリームと『隠れ家』がよくわからないまま、ソフィアはいきなり帰った。
それから何日かすぎて、ソフィアのおばあちゃんがそのシュークリームをおすそ分けだと言って持ってきてくれた。『隠れ家』が店の名前だと言うことと、店主がソフィアを犬型獣人と知った上で預かってくれていることも教えてくれた。
「とてもいい人だから、一度行ってみるといいわ。料理も安くて美味しいし」
「わかりました」
獣人と知っても怖がらない一般人はたまにいる。僕たちはそういう一般人の情報を共有する。そして大切な存在として覚えておく。その人になにかあったら助けてやりなさい、という意味もある。若い女性の一般人の情報を貰ったのは初めてだ。
僕は王都の書店で働いている。昼食は毎日お弁当だけど、ある日『隠れ家』に行ってみた。店主さんはキビキビしていて笑顔が明るい。いい匂いが店の中に満ちていて、清潔で、居心地がいい店だった。
本日の日替わりは羊肉とリンゴの炒め物だ。すごく美味しい。思っていたより安いし、またここに来たいと思った。満足して帰ろうとしたところで、店にあの少女が入ってきた。父親らしい男性と一緒で、すごく仲が良さそうだ。
僕は気づかない振りをしてすれ違おうとしたのだけど、彼女が僕に気づいてしまった。すると一緒にいた男性がすぐ彼女の様子に気づいた。
「知り合いかい?」
「あ、えっと、ううん。知らない人」
なんだろう。別に感謝してほしいわけじゃないけど、少し傷ついた。せっかく美味しい料理を食べたのに、さっきまでの幸せな気分は消し飛んだ。
それからまた何日かして、犬型獣人の友達と『隠れ家』に行くことになった。店主さんの情報を教えたら「安くて旨い店なら俺も行く」と言い出したのだ。
「いらっしゃいませ」
店主さんは僕に声をかけたあとで「あ」という顔をした。そして水と小さなサラダを持ってきたときに、「これをお預かりしておりました」と言って封筒を渡してくれた。
「僕にですか?」
「はい。同じ日にご来店くださったお客様が、『もしあの人がまた来たら渡してほしい』っておっしゃって、翌日にお預かりしたんです」
「ありがとうございます」
友人がニヤニヤしているのは、封筒の色が見るからに女性が使うような淡いピンク色だからだろう。
「なになに、ひと目惚れされたのか? ケヴィンは顔がいいもんなあ。どんな女の子なんだ?」
「お前が期待しているようなことは何もないよ。その子、一般人だから」
「なんだ、一般人か。そりゃ残念」
『迷いの森』でのことは、話が長くなるから誰にも言っていない。もしかしたら獣人と気づかれたかも、なんて口にした日には大騒ぎになる。
家に帰ってから手紙を読んだ。そこには意外なことが書かれていた。
『助けてくれた方へ
助けていただいたのに、「知らない人」なんて言ってしまってごめんなさい。父には迷いの森に行ったことを内緒にしているんです。私は少しだけ魔力があって、ポーション作りの仕事をしたいのだけど、魔力が少ないからやめておけと反対されているの。結婚してお嫁さんになればそれでいいって。
だからあなたと知り合いだって言ったら、あなたのことをどう説明したらいいのかわからなくて、とっさにあんな言い方をしました。本当にごめんなさい。
実はあの日、あなたの秘密に気づいてしまいました。野犬に襲われたことと、あなたの秘密を知ってしまったことで動揺してしまって。ちゃんとお礼を言っていないことも、ずっと気になっています。今度、あらためてお礼をさせてください。
『隠れ家』でまた会えますか? この日の昼ならあのお店に行けます。あなたがいつお休みなのかわからないから、都合が悪ければ遠慮なくこの手紙は無視してください。 マリアン』
「やっぱり気づいていたのか」
これはどうしたもんだろう。日付が三つ書いてある。三回までは待つという意味だろうか。
僕が獣人だと気づいている一般人からの誘いなんて、普通なら絶対に乗ってはいけない話だ。最悪彼女の知り合いが一緒に何人も来ていて「へえ、こいつ、犬型獣人なんだ?」と見世物扱いされるかもしれない。そうなったら、仕事先を辞めることになる。
だけど、あの少女はそんなことをしそうにない……気がする。
なによりも、あの店主さんはソフィアやカリーンさんやヴィクトルさんが犬型獣人だと知っても態度を変えない一般人だ。もし僕が攻撃されることがあっても、そんな連中に加勢はしないだろう。
僕は最初の日付の昼に『隠れ家』に行った。仕事を抜けて行くからのんびりはできないけれど、会って口止めだけでもしておかなくては。いや、「秘密ってなんのこと?」ととぼけたほうがいいだろうか。
店に入ると、あの少女がいた。森で会ったときよりもずっといい服を着ている。少女は僕に気がつくと立ち上がった。
「来てくださってありがとうございます」
「こんにちは。ひさしぶり。僕は日替わりで」
「では私も」
「日替わり二つですね。少々お待ちください」
店主さんが離れてから、少女が僕に包みを差し出した。
「あの時は助けて下さって本当にありがとうございました。これは私が作ったショルダーバッグです。もし気に入らなかったら捨ててください」
「開けていい?」
少女がうなずくので、その場で紙包みを開けた。彼女があの日使っていたのと同じ形の、濃紺のショルダーバッグだ。中が二つに仕切られていて使いやすそう。
「ありがとうマリアン。大切に使うよ。あ、名前を言ってなかったね。僕はケヴィンだ」
「ケヴィン、助けてくれて、今日も来てくれてありがとう」
「それで、手紙に書いてあった秘密のことなんだけど」
そこで料理が運ばれてきた。店主さんが「海鮮ととろけたチーズのパンです」と言いながら日替わりを置いた。すごくいい匂いだ。
「うわあ、美味しそうだ」
「ええ、とても美味しそう」
アッツアツのパンは、本当に美味しかった。僕は口の中を火傷したけれど、熱いうちの方が絶対に美味しいと思った。マリアンも「アツッ」と言いながらニコニコして食べている。
僕たちは「美味しい」と繰り返しながら食べ終わり、それから話を始めた。
「手紙に書いた秘密のことですけど、私は誰にも言いません。あなたが忘れてほしいと言うなら忘れます」
「うん、僕は忘れてほしいかな」
秘密ってなんのこと? ととぼけるのはやめにした。マリアンがすごく緊張していて、勇気を振り絞っているのが伝わってくるからだ。むしろ(僕を見世物にするんじゃないか)なんて勘ぐったことが恥ずかしくなるくらい、マリアンは真剣だ。
「そう、ですよね。命の恩人のお願いなら忘れます。でも、またいつか、ここで一緒にランチを食べることはできますか? 私は十七歳で、もう成人していますし、雑貨屋さんで働いているからここでランチを食べるお金ならあります」
なんで? と聞き返すことはしなかった。僕もまた会いたいと思ったから。だけどマリアンはわかっているのかな。獣人と一般人の交際は、ただの友人であってもまず悲惨な結末に終わる。どちらの側からも大反対されるからだ。だから正直にそう伝えた。周囲の人間に僕のことを知られたら大反対されるよ、と。
「私は気にしません。でもあなたが嫌なら諦めます」
そう言っているマリアンの目が潤んでいて、(可愛いなあ)と思う。可愛いけれど、悲惨な結果になることを知っていて、マリアンと交際するのはどうなんだろう。
何を言えばいいのか迷って考え込んでいたら、店主さんが「これ、よかったら味見してください。シュークリームです」と言って小皿を二つ置いていった。
「これ、すごく美味しいよ。僕は近所の人に貰って食べたことがあるんだ」
「私は初めて食べます。んんっ! 美味しい!」
中にはとろりとしたクリームがぎっしり詰まっている。二人で同時に店主さんを見ると、笑っている。「美味しいです」と声をかけたら「よかった。日持ちしないお菓子なんで、残しておけないんですよ」と言う。
「あのさ。たまにここで会って、こうして食事をしておしゃべりしようか。友人として」
「いいんですか? でもたまにって? どのくらいのたまにですか?」
「月に一回とか」
「え。少ない」
マリアンが希望に目を輝かせたり、しょんぼりして目を伏せたりするのを、優しい気持ちで眺める。
「じゃあ、二週間に一回はどう?」
「嬉しいです! あ、大変。私はもう仕事に戻らなきゃ」
「そうだ、僕も仕事だ」
シュークリームを食べ終え、マリアンがご馳走すると言ったけれど断った。それぞれにお金を払い、通りに出て右と左に分かれた。
それから二度、マリアンとランチをした。二週間に一回の約束は一週間に一回になった。行くたびに日替わりを頼んでいるけれど、毎回どの日替わりも美味しい。
マリアンは今、僕に上着を縫っていると言う。上着なんて大作を作るのは、もう友人というより恋人みたいだ。
この先、マリアンと僕がどうなるかは全くわからないけど、「なんとかなるか」とも思う。
夜、家の玄関先で切り株に腰かけていたら、ソフィアがやってきた。
「なんだ、まだ起きていたのか」
「ケヴィン いた」
「そりゃいるさ。僕の家だからな。ああ、そうだ、『隠れ家』にもう四回も行ったよ。あの店は何を頼んでも美味しいな」
「マイたん、ごはん、ぜえんぶ美味しいよ」
「そうだな」
あの店のおかげで、僕はマリアンと再び出会えた。しかも獣人を嫌わない、っていうより獣人に優しい店。いつまでもマリアンと一緒に通いたいと思っている。