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78 マイ、リヨに伝文魔法を送る

 今日は四月の二十日。彗星がこの惑星に一番近づく日だ。

 私とヘンリーさんは『隠れ家』の裏庭で一枚の毛布にくるまり、明るく輝く彗星を眺めている。彗星は長い尾を引いて、悠然と夜空に浮かんでいる。


 ヘンリーさんによると、あの彗星には周期を発見した学者の妻の名前がつけられているのだそうな。

 学者とその妻が人生を終えても、学者が妻を愛したことが星の名前になって残っている。素敵な話だなと思いながらヘンリーさんの声を聞いた。

 

「ヘンリーさん、今から伝文魔法を試しますね。おばあちゃんが消えた日に一番近づいていたほうき星が、私に力を貸してくれるような気がします」

「どうぞ。俺は隣で見守っています」


 最大限の魔力で伝文魔法を放つ準備を始めた。

 体内の魔力を練り、一か所に集める。感知魔法で人間が一番明るく光るのは、おへその指三本分くらい下だから、そこを意識して魔力を集める。


 白く大きな彗星を見つめながらおばあちゃんを思う。下町の路地を掃き掃除するおばあちゃん。軒下の鉢植えに水やりするおばあちゃん。厨房で料理を作るおばあちゃん。テレビを見ながらレシピをメモするおばあちゃん。おばあちゃんの背後には、ちょびっとだけ見えるスカイツリー。ただただ懐かしい。


 ぶわっと涙があふれ出たけれど、気にしている余裕はない。

 おばあちゃんが玄関先で「いってらっしゃい」と笑って見送ってくれている姿を思い浮かべながら、全力で魔力を放出する。


 全身の皮膚がピリピリする。私の髪がふわっと持ち上がり、水中のようにたゆたう。声量は抑えたが感情は全力で込めた。おばあちゃんの前に現れているであろう白いイガイガを想像して語り掛ける。

 

『おばあちゃん、私は元気にしています。私、笑って暮らしているよ。素敵な恋人もできたよ。こちらに送ってくれて、本当にありがとう!』


 ありったけの魔力を注ぎ込んだ。たった十数秒のことなのに、全力疾走したみたいな疲労感。ハァッハァッと乱れた呼吸を整えようとしても治まらない。身体から魔力がごっそり減ったのを感じる。こんなに魔力が抜けた感じがするのは初めてだ。

 座った姿勢から倒れないよう、ベンチに手をついた。

 

「マイさん! 大丈夫ですか?」

「大丈夫。全力を出し切ったわ。これでダメなら諦めます。はあ、疲れた。お店に戻って何か温かいものを飲みたいです」

「そうしましょう」


 手をつないで歩き出して気がついた。ヘンリーさんの手がやたら冷たい。汗をかくような気温ではないのに、ヘンリーさんの額と首に汗が浮かんでいる。


「体調が悪いんですね? それ、冷や汗ですよね?」

「さっきマイさんが放った魔力ですけど、とんでもなく多かったんじゃないかな。普段は全く魔力を感じない俺ですが、内臓を握られたような感じがして……ちょっと吐き気がしました」

「わ! そうだったの? ごめんなさい! 吐きそう? 今ここで吐いたら楽になる?」

「いえ、今はもう大丈夫です」


 申し訳なくていたたまれない。ヘンリーさんは「おそらく俺が思っていた以上に、マイさんは途方もない量の魔力を持っているんだと思いますよ。大丈夫。もう治りました」と言ってから私の頬にそっと唇を置いた。唇まで冷たくなっていた。


 ◇ ◇ ◇


 佐々木リヨが二階の部屋でテレビを見ていたら、突然画面が乱れた。「あら、どうしたかしら」と見ていると、次に音声にもザザザッと雑音が入る。他の局に変えても同じだ。「これはテレビが壊れたね」と思っていたら、乱れた画面から懐かしいマイの声が聞こえてきた。


『おばあちゃん、私は元気にしています。私、笑って暮らしているよ。素敵な恋人もできたよ。こちらに送ってくれて、本当にありがとう!』


 リヨは(ついに私も耄碌もうろくして幻聴が聞こえるようになったか)と茫然としたが、それは幻聴ではなかった。マイの声が終わると画面の乱れが直った。ドラマは中断されていて、『放送信号の不法割り込み』について臨時ニュースを流し始めた。キャスターが興奮している。


「幻聴じゃなかった。本当にマイの声だった」


 リヨは脱力して動けなくなった。太郎たろう白雪しらゆきがやってきて顔を見上げて心配している。


「夜太郎、私の魔法は成功していたよ。マイは生きていた。私のあのつらい日々は、ひたすら魔法の研究に没頭した日々は、無駄じゃなかったよ。マイがね、生きていたの。よかった……」


 両手で顔を覆って、長い時間嬉し泣きをした。マイを助けることができた。それがただただ嬉しい。ポーションを作り続けた子供時代がなかったら、あんなに魔法にのめり込むことはなかっただろう。

 あの地獄のような十数年がマイの現在に繋がっている不思議と皮肉。


 苦痛から意識を逸らすためにのめり込んだ魔法の研究、わずかに息ができたグリドさんとの面会、優しく話しかけてくれたサラさん。雨の夜、車に怯えながら立ち尽くす自分に声をかけてくれた亡き夫。

 母となる喜びを教えてくれた娘の絵里。自分に笑顔を向け続けてくれたマイ。


「どれかひとつが欠けても、この瞬間にたどり着かなかった」


 こんなに泣いたのは十五年ぶりだ。今夜の涙は、流すほどに心が軽くなっていく。


 翌朝、リヨはテレビを流しっぱなしにしながら、白米、アジの開き、つくだ煮、キュウリの浅漬け、ワカメのお味噌汁を食べながらマイの声を聞いている。そしてときおり涙をハンカチで押さえる。テレビから流れるマイの声は元気そのもので、幸せそうだ。


 急遽呼ばれたと思われる学者や政治学者は「悪質ないたずら」という意見が主流だ。法的な処罰について説明している番組もあれば、「これはなにかの暗号ですよ」と深読みしている番組もある。「これだけの割り込みをするのにはかなりの準備が必要で」と興奮しているのはテロに詳しい政治学者だ。

 テレビからは繰り返しマイの明るい声が流れている。


「あれほど『何事もほどほどがいいんだよ』と言い聞かせていたのに。まだ初心者だから仕方ないか。あれはきっと伝文魔法ね。あの子に伝文魔法の知識は渡していないから、あちらで学んだのね。グリドさんに習ったのだとしたら、こんなに嬉しいことはないけれど」


 焼き立ての香ばしいアジを口に入れ、アツアツのごはんも口に運ぶ。白雪しらゆきが膝に乗って丸くなった。


「元気だった。ちゃんと生きていた。よかった。恋人ができたのね」


 そこまでつぶやいてまた涙ぐむ。マイならきっと生き延びてくれると思っていたが、心のどこかでは「もしかしたらあちらの世界で不慮の死を遂げているのではないか」「全く別の世界に送った可能性もなくはない」という思いが拭えないでいた。


「そうか。元気だったか。よかった。本当によかったよ、マイ」


 夜太郎がテレビの前から動かない。テレビから繰り返し流れてくるマイの声に耳を傾けているのだ。


「夜太郎、この番組は録画したから。いつでも何度でもマイの声を聞けるよ」

「ナアアン」


 朝の七時だというのに、スマホが鳴った。亮君からだ。


「リヨさん、亮です。テレビで流れている声、マイにそっくりだと思って。まさかと思うけど、あれ、マイなのかな」

「ふふふ。そっくりよね」

「リヨさん、誰にも言わないから教えて。マイは生きているんですよね? リヨさんは何か知っているんじゃないですか?」

「亮君、私、ずっと言い続けて来たでしょう? あの子、どこかで元気にやっているって」


 少し無言だった亮君が、朗らかな声に変わった。


「わかりました。マイが元気なら俺、それでいいや。また『喫茶リヨ』に飯を食べに行きますね」

「ありがとう。来てくれるのを楽しみにしているわ」

 

 電話を切り、独り言をつぶやく。


「迷惑をかけると思って、ずっと手紙を送らなかったけれど、五十何年かぶりに手紙を送ってみようかしら」


 店を開け、客たちの『昨夜の電波ジャック』の話題に当たり障りのない相槌を打った。一日の仕事を終え、食事を終え、食洗機に食器を入れた。二匹の猫は夜ごはんを食べ終えて眠っている。

 リヨは便せん一枚びっしりと文字を詰めて手紙を書き始めた。マイの明るい笑顔を思い浮かべながら、あちらの文字で手紙を書く。


『グリドさんへ

 以前送った三通の手紙は届いていますか。グリドさんとサラさんには言葉では言い尽くせないほどお世話になりました。私は元気にしています。結婚し、娘を産み、マイという孫も得ました。

 昨夜、マイの声がこちらに届きました。あの魔法を教えてくれたのがグリドさんなら、感謝のしようもありません。あなたはあの頃の私にとって兄であり救済の神でした。グリドさんとサラさんがいたから私は心を死なせることなく生きていられたのです。


 マイへ 

 声を聞いて安心したよ。危険だからマイは絶対にこちらに戻ろうとしないで。マイがそちらで幸せに生きることが私の幸せです。恋人と仲良く人生を歩んでね。

 夜太郎は自ら進んで真っ白な子猫を家族に迎え入れました。白雪と名付けた子猫と楽しそうに過ごしています。夜太郎と白雪を看取るまで私は死なないから、安心しなさい。ただ私も歳だから、手紙はそうそう送れないと思ってほしい』


「そうだわ、これを忘れてはならないわね」


 最後に注意を書き加えた。


『スカイツリーは電波塔だから。今、テレビはどの局もマイの声のことで大騒ぎになっています。今後私に向かって伝文魔法を放つときは、絶対にスカイツリーを思い浮かべてはいけないよ リヨ』


「これでよし。魔力の戻りはまだ完全ではないけれど、便箋一枚なら、運が良ければ送れるかもしれないね」


 白いマーカーで魔法陣をテーブルに描く。小一時間かけて描き終え、椅子に腰を下ろした。


「よし。これでマイからも何かしらの方法で返事が届くようになったら……私の人生は言うことなし」


 あちらの世界に戻りたいと思ったことは一度もない。リヨにとってはここが自分の世界だ。

 手紙を折り畳み、魔法陣の中心に置いた。魔法陣を見つめながら魔力を注ぐ。魔法陣が青白く輝きだすまで魔力を注ぎ込み、光がもうこれ以上は光れないと思うところまで輝いた瞬間に変換魔法を放った。

 懐かしいグリドの屋敷を思い描き、念には念を入れてグリドの書斎を思い浮かべる。四回目の今回はグリドの机ではなく書斎の床に送ることにした。


 テーブルの上の魔法陣が目を焼くかと思うほど眩しい。眩しさに耐えかねてリヨが目を閉じ、再び目を開けると、便箋と魔法陣が消えていた。

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