76 コンスタンス・ハウラー
パトリシア嬢が来店した翌日、ヘンリーさんがランチに来るなりミンチ機の話を始めた。
「昨夜養父母と話し合ったら、養母がマイさんと会って話をしたいと言っているんですが、マイさんはどうしたいですか? 気が重ければ俺が間に入りますが」
「喜んでお会いします」
「貴族の面倒くささに巻き込んで申し訳ない」
「前の世界でも、商売は商品とお金の交換だけじゃありませんでした。いろんなお付き合いは必ずあるものですから。大丈夫ですよ」
「マイさんは大人ですね。自分の機嫌を自分でとれる。でも、もう少し俺を頼ってもいいんですよ」
「どうしても困ったら頼りますね」
という経緯があって今。
ヘンリーさんの養母、コンスタンス・ハウラー様の前に座っている。ヘンリーさんはコンスタンス様の指示で席を外しているから二人きりだ。
明るい茶色の髪にヘーゼルの瞳。華奢な骨格。見るからに貴族の奥方様という見た目のコンスタンス様は笑顔だ。私は少し緊張している。そんな私に、コンスタンス様は優しく声をかけてくれる。
「どうぞ楽になさって。わたくし、ヘンリーがこうしてお付き合いしている方を連れてきてくれて、とても嬉しいの」
「私のような平民で身寄りのない人間にそうおっしゃって下さること、ありがたいと思っております」
「ヘンリーは、理想を絵に描いたようないい子でしたのよ」
しばし沈黙があって、コンスタンス様がハンカチを目に当てた。わ、なんだなんだ。
「わたくしも夫も、ヘンリーのことは本当に愛して可愛がってきました。でも、あの子の心の最後の扉を開けることはできなかったように思います。ヘンリーは一度も私たちに反抗しませんでした。わがままも願い事さえも言いませんでした。お城の文官になると決めてからは、身体を壊すんじゃないかと心配になるほど勉強して……」
想像がつきます。
「あの子はいつでも見えないものと戦っているようでした。獣人として差別されたことなどないのに、そうされたときに備えているような。それがとても不憫でした……。でもマイさん、あなたがあの子の最後の扉を開けてくれたの。見ていればわかります。ここ数ヶ月でヘンリーはとても変わったわ。ありがとう」
「そんな。私はヘンリーさんのそういう負けず嫌いなところも含めて大好きです」
「まあ。ふふっ」
そこでまた鼻の頭を赤くして、ハンカチを目に当てたコンスタンス様。
「どうか末永くヘンリーと仲良くしてあげてね」
「はい」
「さて、それでは」
何がどう変わったかわからないけど、コンスタンス様の雰囲気が一変した。
「ここからはハウラー家当主の妻としてお話をします。スコールズ伯爵家があなたのレシピを教えてほしいと当家に言ってきました。決定権はマイさんにありますが、それは断ってほしいのです。料理のレシピはあなたの財産です。それはあちらの方も承知の上。断っても全く問題ありません」
「私はレシピが広まることを気にしませんが」
「レシピだけの話ではないのです。スコールズ伯爵家はハルフォード侯爵家と縁組をするほど親しい。ハルフォード侯爵家は王家と距離を置く派閥の長なの。そのハルフォード侯爵家の婚約者の家にレシピを提供したとなると、ハウラー家またはヘンリー個人に下心があるのではと思う人もいるのです」
勢力争いの話でしたか。
「どうしてもあなたの料理が食べたいと言うのなら、店に来てもらうか料理を持ち帰ってもらうか、我が家の料理人にレシピを伝えてもらって我が家の料理人が作って渡すか、にしてもらいたいのだけれど」
「スコールズ伯爵家が望む規模はどの程度になるのでしょうか」
「最低でも三十人分、多ければ百人分くらいかしら」
「百……。ではハウラー家の料理人さんに一任したいです。私は今の店を維持するだけで手一杯ですので」
コンスタンス様がふんわりとした笑顔を浮かべた。また雰囲気が一変する。なるほど、笑顔ひとつでこんなに気持ちを伝えられるのか。勉強になるわ。
「コンスタンス様、私が少々魔法を使えることはご存知でしょうか」
「ええ。夫から聞いています」
「ではレシピと一緒に私が魔法で作った道具もこちらの料理人さんにお渡しします。今回のレシピはその道具が肝心なのです。道具の使い方、料理の作り方の実演が必要であれば、お見せします」
「そうしてもらえると助かるわ。あなたから見たら貴族の世界は面倒に見えるかもしれません。でも、嫌な事ばかりではないの。これはこれで、やりがいのある仕事です。家と家族を守って戦う気力のある女にとっては、ですけどね」
うん、コンスタンス様は繊細そうに見えるけれど、強そうな気はしていました。
「では料理人を送る前に連絡を入れますね。マイさん、どうかヘンリーをよろしくお願いします」
「はい。全力で大切にいたします」
「それと、あなたのレシピで我が家が受け取る利益は全てあなたに渡します」
「……わかりました」
円満な雰囲気のままコンスタンス様とのお茶会は終わり、「失礼します」と部屋を出た。するとドアの向かい側の壁に、ヘンリーさんが腕組みをしてもたれかかって立っていた。
「わ、びっくりした。ずっとここにいたのですか?」
「ええ。マイさんが泣いたりして……はいないようですね」
「コンスタンス様はとてもお優しくて、勉強になるお話をしてくださいましたよ」
「それならよかった。俺の部屋に行きませんか?」
「ぜひ。どんなお部屋か、見てみたいです」
ヘンリーさんと並んで広い廊下を歩いている間に、二人の侍女さんとすれ違った。侍女さんたちは気配を消して廊下の端に寄り、私たちが通り過ぎるのを待っている。だがヘンリーさんは立ち止まり、相手の名前を呼んで私を紹介してくれた。
声をかけられた侍女さんたちは嬉しそうに私に挨拶してくれる。とても不思議な気がした。オーブ村にいた頃は、とにかく生きていられればそれでいいと思っていた私。なのに今は店を構えて知り合いが増え、ヘンリーさんの恋人として紹介されている。魔法使いとしても誰かのために役に立ちたいと思っている。
地に根を下ろして生きるって、こういうことかもね。
「ここが俺の部屋です。赤ん坊のときからずっとここ」
「わあ、広い。本がたくさん。これ、全部読んだのですか?」
「もちろんです。本は読まなきゃ。どうぞ、好きな本があったらお貸しします」
本がたくさんありすぎて目移りする。
部屋は八畳間が五つ六つは楽に入りそうな。天井も高い。こんなに空間が広くて冬は寒くないのかな、と庶民は思ってしまう。
予想通り無駄な物はなく、とてもすっきりしている。
ドアがノックされ、さっき挨拶をした侍女さんがワゴンにお茶とお菓子を載せて入ってきた。
前の世界で見覚えのあるティーセット。この世界には獣人がいるし魔法があって全くの別世界のようでありながら、怖いほど前の世界に似ているところもある。
侍女さんが退室してからコンスタンス様とのお話を伝えた。
「ということで、私がハウラー家の料理人さんにレシピをお教えすることになりました」
「うん。そのほうがいい。キリアス君の実家のハルフォード侯爵家は、今は大人しくしているけれど、何代か前の当主は王座を狙っていた時期もあるんだ」
なるほどね。
「貴族の派閥争いは神経を使いそうですが、私は精神的に図太いのです。わからないことはヘンリーさんが教えてくださいね。それと、私の作るミンチ機とレシピで得た利益は、ハウラー家の領民のために使ってください。ほら、私、お金には不自由しないので」
ヘンリーさんが私を見ながら何度か瞬きした。夜太郎も私を見ながらこうやって瞬きしてくれたっけ。
「マイさんのそういうところ、とても気風がいいですよね」
「うん。知ってます」
ヘラッと笑う私の隣にヘンリーさんが座る。そしてふんわりと抱きしめてくれた。
「マイさん、その性格で前の世界では絶対にモテていたでしょう?」
「ついにこの世界に存在しない人にまでやきもち焼き始めたんですね? よしよし」
「またそうやってごまかす」
「だから、女房やくほど亭主モテもせず、ですってば」
ヘンリーさんの腕から抜け出し、お菓子をひと口食べた。ハウラー家のお菓子は私には少々甘すぎた。
「ヘンリーさん、私が考え方を変えたのは言いましたよね。ただただ生きられればいいと思うのは、もうやめたんです。ハウラー家の料理人さんの力をお借りできるのなら、私はもっと私好みの味を知ってもらいたいです。魔法でも誰かの役に立ちたいです」
「それなら俺は、マイさんの隣でそれをニコニコ眺めながら後方支援に徹しますよ」
「ねえヘンリーさん、私たち、すごくいいパートナーになれるんじゃないでしょうか」
ちょっと間が空いてからヘンリーさんがぽそりとつぶやいた。
「それ、今気づいたんですね」