75 パトリシア嬢とロールケーキ
農園担当の男性が制服の男性を連れて戻ってきた。警備担当者だろうか。その人が威圧感たっぷりに尋問してきた。ヘンリーさんにもやり取りを聞いてもらうべく、伝文魔法は発動させっぱなしだ。
「娘、どこから入り込んだ?」
「梯子で塀を乗り越えて入りました」
「野菜を盗むつもりだったのか」
「違います。泣き声がしたので、入る前に塀の上から声をかけました。返事がないので緊急事態と判断して入りました。先ほどのお嬢様が歩けないとおっしゃったので背負って運びました。それだけです。勝手に入ったことは申し訳ありませんでした」
不法侵入したのは私だ。ソフィアちゃんが心配だから早く終わらせるためにひたすら謝った。
住所や氏名を答えているうちに小屋の外でガヤガヤと声がして、ドアが開けられた。先に入ってきたのはキリアス君。その後ろにヘンリーさん。
「マイさんごめんね。ここ、うちの農園なんだ。君、この人は盗みなんかする必要がない人だよ。パトリシアを助けてくれたんだろう? 尋問はもう終わりにしてくれ。さあマイさん、行こう」
「ですがキリアス様! 不法侵入ですので」
騎士服の男性は納得できない様子だが、キリアス君に「同じことを二度も言わせないで」と静かな口調で言われると黙り込んだ。そこへヘンリーさんが「筆頭文官のヘンリー・ハウラーです。彼女は私が交際している女性です。何かあれば今後は私かハウラー家にご連絡を」と穏やかにダメ押しをした。
騎士服の人はこれが仕事だ。なにも悪くない。私は「申し訳ありませんでした」と騎士服の人に頭を下げて小屋を出た。
まずはキリアス君とヘンリーさんに謝った。
「ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありませんでした」
「いいんですよ。俺に連絡をしたのは最良の選択でした。いったい何があったのです?」
歩きながら詳しい状況を説明したら、キリアス君が慰めてくれる。
「パトリシアのために動いてくれてありがとう。塀の上からじゃ彼女の様子を判断できなかっただろうし、入ったことはもう気にしないで。それにしてもあの塀を梯子で乗り越えたんだね?」
苦笑している。そうね。乗り越えるにはかなりの高さでした。
キリアス君はそのままお城に帰った。私はヘンリーさんとイリスに乗り、『隠れ家』に急いだ。店にはヴィクトルさんがいて、ソフィアちゃんが遊んでもらっていた。
「マイたん! フィーちゃん、じいじに『だめよ』って言ったよ!」
「うん? ダメよって?」
「ソフィアが鍵を開けないと言い張って、なかなか入れてもらえませんでした。ちゃんとマイさんの言いつけを守っていましたよ」
「あああっ! それは、申し訳ありませんでした!」
「いえいえ。それにしても」
ヴィクトルさんが外に出ながら壁を見上げる。
「あれを乗り越えましたか。塀の向こう側はハルフォード侯爵家の農園だということは俺たちには当たり前になっていたもので。マイさんに教えるのを忘れていました」
「いえ、最短距離で行こうとした私が考え無しでした」
おそらくほとんどの人は時間がかかっても塀をぐるりと回って敷地の持ち主に連絡するだろう。だけど次に声掛けに反応しない人が倒れていたらどうしたらいいんだろう。人は数分の差で死ぬことがある。
「ヴィクトルさん、お忙しいのに呼び出して申し訳ありませんでした。ソフィアちゃん、泣き声を教えてくれてありがとう。すごいねえ。私には全然聞こえない声も、ソフィアちゃんには聞こえるのねえ」
「フィーちゃん、ワンワンだと、いっぱい聞こえる!」
ヴィクトルさんが私に教えてくれる。
「犬型獣人は一般人より運動能力や聴覚嗅覚で優れていますので。とにかくそのお嬢様もマイさんも無事でよかった」
そう言ってヴィクトルさんは仕事へと帰っていった。
「ヘンリーさん、また同じようなことがあったら、どうしたらいいんですかね。自分の安全を優先するなら、時間がかかっても正門を探して報告すべきですが、倒れている人の命を優先するなら塀を乗り越えるべきだと思うんです」
「そうですね。もし倒れていた人が心臓の発作や何かを喉に詰まらせていたのなら、遠回りしている間に死んでいましたね」
「貴族の権限が強い世界の優先順位を、私はまだ納得できていないと思い知りました」
私はしょぼくれた顔をしていたのだろう。ヘンリーさんがとてもやさしい表情で私の顔を覗き込んだ。
「次にまた同じようなことがあったら、あなたが後悔で苦しむことがないよう、最善だと思う行動をとってください。俺にとって、マイさんが苦しまないことが一番大切なので。そして何かあったらまた俺を頼ってください」
そう言ってヘンリーさんもお城へと帰っていった。最善だと思う行動か。そうね。次はポーションを持って駆け付けよう。私は後悔まみれで人生を一度終えたじゃないか。
そしてヘンリーさんを当てにしないでもいい方法を考えよう。
「マイたん、元気ない?」
「ちょっとね。ソフィアちゃんの匂いを嗅いでもいい?」
「いいよ」
ソフィアちゃんのほっぺに顔をくっつけて深々と息を吸う。(ああいい匂い)と思いながら満足するまで匂いを嗅いだ。不思議なことにワンコの匂いはしない。今度ワンコの時にも嗅がせてもらおう。
ソフィアちゃんが「よしよし。いい子だね」と言いながら私の手をそっと撫でてくれた。きっといつも自分がそう言われているんだね。
そんなことがあった数日後。
『隠れ家』にキリアス君と捻挫した少女がやってきた。少女は騎士にお姫様抱っこされて入店。十一時だったので他のお客さんがいなかったからいいけれど、店の気さくさと姫抱っこの少女が嚙み合わないことこの上ない。ガラス細工を扱うようにそっと床に立たせてもらった少女が私を見る。
「スコールズ伯爵家長女、パトリシア・スコールズです。キリアス様から、あなたが怖い思いをしたと聞きました。わたくしが訪問して直接謝罪とお礼を伝えなければと思いましたの。迷惑をかけました。許してください」
「お気になさらずに。私が勝手に入ったのが悪かったのです」
二人が席に着くと、騎士さんは店から出た。
「パティ、ここの料理はなんでも美味しいんだ。期待していいよ」
「まあ。そうなんですの? 楽しみですわ、キリアス様」
ふと、パトリシア嬢が厨房の方を見た。
「あの子はあなたのお子さん?」
振り返ったらソフィアちゃんがのれんの間から顔だけ出してこちらを見ている。ふっくらしたほっぺが興奮で桜色だ。
「いえ。午前中だけ預かっている子です。ソフィアちゃん、お客様を覗いてはだめよ」
「フィーちゃん、お姫様、見たい! お姫様、きれい!」
「まあ。ありがとう」
パトリシア嬢は上品に微笑み、ソフィアちゃんはいっそう鼻息が荒くなる。興奮しすぎてワンコになりませんように。私は急いで厨房に引っ込み、ソフィアちゃんを椅子に座らせて絵本を与えてからキリアス君の注文を待った。
「肉団子の煮込みを二人分。食後になにか甘いものがあればそれも」
「かしこまりました」
手早く料理を並べ、最後にロールケーキを出した。自分が食べたくてロールケーキを作っておいてよかった。
肉団子も喜んでもらえたし、ロールケーキも喜んでもらえた。
パトリシア嬢は十歳だそうで、帰るときにはニッコニコで年相応の可愛さだった。七、八年後には輝くような美しいご令嬢になるだろう。優しくエスコートするキリアス君と、とてもお似合いだった。
カリーンさんとソフィアちゃんが帰ったあと、ランチのお客様の他にハンバーガーとホットドッグの持ち帰りも注文が入って大忙しになった。猿型獣人の若者たちはいつ来られるのかな。
ヘンリーさんは閉店後に来てくれて、二人で夕食を食べた。その最中にドアをノックする音。
立ち上がろうとした私を手で制して、ヘンリーさんがドアを開け、そのまま何か話し合っている。話を終えてヘンリーさんが私を振り返る。
「マイさん、彼はハウラー家の使用人です。スコールズ伯爵家から『対価を支払うので今日パトリシア嬢が食べた肉団子とケーキの作り方を教えてほしい』と申し入れがあったそうです」
「私はかまいませんがミンチ機のことはどうすべきかしら?」
「うーん……」
男性には店内に入ってもらう。ヘンリーさんが思案顔だ。
「ご令嬢がよほどマイさんの料理を気に入ったのでしょうね。それと、俺がマイさんの交際相手だと伝えたので、ハウラー家への謝罪の意味もあるのでしょう。面倒をかけますが、スコールズ伯爵家への返事は、父と相談してからでもいいですか?」
「私はかまいません。お任せします」
ヘンリーさんは「もう少しのんびりしたかった」と言いながら、使用人の男性と一緒にハウラー家へと向かった。