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74 ミルフィーユと泣き声 

 今朝早くにカスタードクリームとイチゴを挟んだミルフィーユを作った。それを切り分けてから眺める。


 挿絵(By みてみん)


 ソフィアちゃんが興味津々で私の手元を見ている。


「それ、フィーちゃん、食べたことない」

「一緒に食べる?」

「うん! それ、どうやって食べるの?」

「好きなように食べていいのよ」

「わかった!」


 ソフィアちゃんはもりもり食べているけれど、私は食べずにミルフィーユを眺める。

 この世界と元の世界の距離はどのくらいなんだろうと、ずっと考えていた。だけど最近は物理的な距離の問題ではないのかも、と思う。


 根拠のない推論だけど、このミルフィーユのようにあちらの世界とこちらの世界は重なっているのではないか。もしくはブドウの粒のように、いろんな世界が房のようにくっつきあって存在しているのではないか。


 もし二つの世界がミルフィーユのような、またはブドウの房のような状態なら……。変換魔法で変換後の物をどんなに遠くに出したとしても、あちらの世界にはたどり着かないことになる。ミルフィーユの層、またはブドウの皮を破らねば手紙は届けられない。


 おばあちゃんは私に手紙を送ろうとしたことはないのだろうか。私を送り出したのだから手紙も送れそうだけど。私を送ったから疲れてしまって無理なのかな。私がオーブ村を出て王都にいるから送れないのかな。


 ソフィアちゃんがミルフィーユにザクッとフォークを刺して崩しながら食べている。それを眺めていて思う。ミルフィーユにフォークを刺すように重なり合う世界を貫くことができれば、おばあちゃんに手紙を届けられる気がする。

 でも、世界を貫くフォークがなんなのかわからない。


「わからないわねえ」

「マイたん、なにが? わからないって、なんのこと?」

「お手紙出したいんだけど、出せないの」

「ふううん。フィーちゃん、穴掘りする!」


 結界の鳴子を用意をしてからソフィアちゃんを裏庭に出した。ソフィアちゃんはワンコになってご機嫌で穴を掘る。ソフィアちゃんの近くには最近作って置いたベンチ。ベンチの下三メートルくらいの場所にダイヤモンドが埋まっている。


 ヘンリーさんが朝の八時にやってきて、「ダイヤの話は少し待ってほしい」と言っていた。腐るものではないから「いくらでも待ちます」と返事をして、お城に向かうヘンリーさんを見送った。だが、あまり大ごとになってヘンリーさんが困るならやめておくのだが、と思う。

 

 突然、ソフィアちゃんがキリリと頭を上げ、何かに意識を集中し始めた。


 挿絵(By みてみん)

 

「泣いてる!」

「泣いてる? 私には何も聞こえないけど、どこで泣いてるかわかる?」

「わかる! こっち!」


 ソフィアちゃんが庭の端っこに進む。そこはもう高い石塀だ。


「これの向こう側?」

「うん! 痛いって泣いてる」

「わかったわ。ソフィアちゃん、人間に戻って服を着てくれる?」


 ソフィアちゃんがヒイラギに駆け寄り、あっという間に人間の幼児になって服を着た。頭からゆったりしたワンピースを被ってから私を振り返って「おぱんつも?」と声を張り上げる。

「おぱんつもよ!」

「わかった!」


 泥がついちゃうけど仕方ない。


「ソフィアちゃん、今から私が魔法を使うけど、驚かないでね」

「ばあばに内緒?」

「ばあばとじいじとお父さんには言ってもいい」

「わかった」


 路地の奥に入ってくる人がいないのを確認して、庭の薪置き場の薪を変換した。華奢な梯子はしごが石塀に立てかけるような形で現れる。ソフィアちゃんが「わあ! すごい!」と目を丸くして驚いた。


「私が塀の向こう側を見てくるから、ソフィアちゃんは家の中に入って、鍵をかけて待っていて。誰が来ても開けちゃダメよ」

「フィーちゃんも上る!」

「今は無理。今は泣いている人を助けなきゃ」

「フィーちゃんも行きたい!」

「あとでね。今は無理なの。早くおうちに入って。中から鍵をかけてね」


 ソフィアちゃんが渋々家の中に入るのを見届けて、梯子を上る。この塀の向こうは農園だったような。教えてくれたのは『隠れ家』を売ってくれた商会の人だ。

 塀の高さは五メートルくらい? 音や声が聞こえてきたことは一度もなかった。高い塀はずーっと続いていて、地元民のみなさんは塀があるのが当然という感じで農園が話題に上ることもなかった。


 梯子の一番上に立った。塀の向こう側は美しい農園だった。ところどころに果樹らしい木が白い花を咲かせている。井戸もある。貴族の農園だろうか。

 

「泣いている人はどこだろう?」


 塀の上から小学校の校庭ぐらいの農園を見渡したら、いた。ギンガムチェックのワンピースドレスを着た十歳ぐらいの女の子だ。畑の脇の小道にうつ伏せに倒れていて、近くに転がっているのは、おそらく木を編んだバスケットだ。


「どうしたの?」


 声をかけたが動く様子がない。さっきまで「痛い」と泣いていたのよね? これは緊急事態? 

 塀の上にまたがり、塀の南側に立てかけてある梯子を塀の北側に現れるようにイメージして変換魔法を使う。農園の地面に足が届き、少女のところまで走る。


「大丈夫? どこが痛いの?」

「足首よ。転んだ時、ぶちって音がして、痛くてもう立てないわ」

 

 ああ、よかった。意識があった。

 赤みを帯びた金色の髪にブルーグレイの瞳の美しい少女だ。見たら右足首が黒ずんだ紫色に膨れ上がっている。捻挫で済めばいいほうか。悪くすると骨折かも。「背中に乗って。おんぶで連れて行くわ」と言うと、少女は「痛い。痛い」とすすり泣きしながら私の背中に乗った。「私の肩にしっかりつかまって」と伝えて歩く。


「出入口はどこ?」

「あっちよ」


 少女が指さす先はだいぶ先。農園の端っこにある木の柵にたどり着くころにはじんわりと汗をかいた。しっかりした木製の扉を開けたら、年配の農夫らしい人が大慌てで駆けてきた。


「お嬢様! どうなさいましたか!」

「転んだの」

「ああ、ですから私が付き添うと申しましたのに」

「右足首を怪我しています。見てあげてください」


 男性は私に怪しむような視線を向けながらも少女を抱きかかえてくれた。


「あなたも一緒に来てください。聞きたいことがあります」

「私、小さい子を家に置いて来ているのでそれは困ります。すぐに出ていきますので」

「あなたね、侯爵様の農園に入り込んでそのまま帰れないのはわかるでしょう? さあ、こちらへ来てください」


 貴族の土地への不法侵入って、どの程度の罪なんだろう。ヘンリーさんは仕事中だから申し訳ないけど、これは緊急事態だ。私は男性の後ろを歩きながらヘンリーさんに小声で伝文魔法を放った。


「ヘンリーさん、うちの裏の塀を乗り越えて入ったら、今、連行されています。どうしよう、家にソフィアちゃんが一人でいるの」

『すぐに対処します』


 必要最低限のことだけを言って会話が途切れた。その後はヘンリーさんが誰かに『緊急の用事で外出する。行き先はハルフォード侯爵家の農園だ。ジェノ! お使いを頼む。警備隊に行って、ヴィクトルさんを呼び出せ。隠れ家でソフィアちゃんが一人になっている、と伝えればわかる』と言っている声が聞こえた。心強い。そして指示が完璧。

 

 前を行く男の人は私の声に気づかなかったらしい。なにしろお嬢様がワンワン泣いているからね。少女は安心したとたんに気が緩んだらしく号泣し始め、今も泣き続けている。

 農園の入り口の小さな家に着き、中に入るように言われた。男性の妻と思われる女性が駆け寄ってきた。男性が彼女に「お医者様を呼びなさい」と指示を出している。


 私は大人しく椅子に座って口を閉じている。

 しばらくして上品なスーツを着た男性が到着し、少女の手当を始めた。


「お嬢様、だいぶ酷い捻挫ですが骨折はしていません」


 そこまでを少女に言ってから農園担当の男性に向き直る。


「君、お嬢様を数日は歩かせないように。湿布をしたので湿布が乾いたら取り換えて」


 医者はそう命じて出て行った。少女は農園担当の男性がお姫様抱っこしてどこかへ連れて行った。奥さんらしき女性が私を咎めるような目で見る。


「お嬢さん、ここがハルフォード侯爵家の農園だってことは知っているでしょう? 侯爵家の皆さまのお口に入る野菜を育てているの。悪いけど警備隊に通報しなきゃならないわ」

「私、塀の中が侯爵家の農園だとは知らなくて」

「侯爵家の農園を知らないなんて、そんな言い訳は通じないわよ。困ったわねえ」

「私、王都に引っ越してまだ数か月で」

「そんな言い訳をされても、私にはどうすることもできないわ。規則だもの」


 そうか、ここが侯爵家の農園なのは王都民の常識でしたか。春待ち祭りみたいなものでしたか。


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