72 タイムラグ
「時間差については、言葉で説明するより実際に見てもらう方がわかりやすいと思います。変換魔法をかけて品物が現れるまでの時間に注目してください」
私は薪を一本持ってきてテーブルの上に置いた。いつもは無言で放つ変換魔法をわざと「変換」と声に出して放った。木のお皿が一枚、変換と言い終わると同時に現れた。
続いて隣のテーブルに向かって「変換」と言いながら変換魔法を放つ。一秒くらいたってから荷車が現れた。別のテーブルに向かって「変換」と唱えると三秒ほどたってから小さなピエタ像が現れた。
「ほんのわずかですけど、物によって変換されるまでの時間が違うんです。今までで一番時間がかかったのはこの像です。なんでかな、とは思っていましたが、『複雑なものほど変換するのに時間がかかるんだな』と自分を納得させていました。でも、荷車や彫像程度で時間が違うなら、生きている人間の体をそっくり人間の体に変換するにはかなりの時間差が生まれるはずです」
ヘンリーさんがグリド先生を見た。グリド先生が小さく一度だけうなずく。
「グリド先生、祖母はその時間をどうにかして利用したのでは?」
「そうだ。人間を魔法で遠くに運ぼうとしたら、魔法使いの魔力量によって距離に限界が出る。そこでリヨルは変換されるまでにかかる時間に注目したのだよ。『変換される材料が消えて、別の形で出現するまでの間、対象物はどこにも存在せず、混沌となっている時間がある』というのがリヨルの考えだった」
「混沌となっている時間……」
ヘンリーさんが眉をひそめながら復唱した。
「リヨルはその一見どこにも存在せず、混沌となっている状態のときに魔法陣で方向、距離、高さを決めて移動させれば、自分自身を含めてどんな物でもはるか遠い場所に移動させられると考えたのだ」
何かで読んだ話を思い出した。本当かどうか知らないけれど、蝶のサナギは中で一回どろどろになっている期間があるらしい。そういうこと? 自分を自分に変換し、そんなあやふやな状態で移動させたのか。想像するだけでも恐ろしい。
混沌とした状態で移動を終えて、元に戻ったと思ったら手と足が逆の場所についてるかも、とは思わなかったんだろうか。顔なんて目鼻が五ミリずれたって大変なことになる。あのおばあちゃんがそんな博打みたいなことを自分の身体で試すなんて。
驚いた私が黙り込んでいたら、ヘンリーさんが声をかけてくれた。
「マイさん。一度休憩してお茶にしませんか? たまには俺が淹れます」
そう言ってヘンリーさんが立ち上がると、サラさんも立ち上がった。二人で「俺が」「いえ私が」と言い争っている。そんな二人をぼんやり眺めながら自分の体から腫瘍が消えた理由を理解した。
どんぐりの中に入り込んだ幼虫。
幼虫を取り除いた状態をイメージして変換した私。
おばあちゃんが私の身体に変換魔法をかけるときに『健康な佐々木マイ』をイメージしながら魔力を放ったとしたら……腫瘍や血液中に入り込んだ腫瘍細胞は病室に残されただろう。
つまり世界を超える前、私は私に変換されたのだ。
「あれ? だったらわざわざ変換先の場所をこの世界にする必要はありませんよね? 同じ世界の少し離れた場所にすればよかったのでは?」
グリド先生が答えてくれた。
「リヨルは瞬間移動魔法を一度しか体験していない。確信がなかったのだろうな。一度瞬間移動魔法を人間相手に使えば、魔力が回復してもう一度試せるようになるまでに相当の時間がかかる。彼女は成功する確率の高い方法を選んだのだろう。推測だが、何らかの理由で君は残り時間がない状態でこの世界へ送られてきたのではないかね?」
「そう……です」
ヘンリーさんには最初の猫変身時に説明してあるけれど、初めて聞いたサラさんは驚きと恐怖を混ぜたような顔で私を見る。
「こちらに送られた当時、私に残された時間は週単位ではなく日単位でした。お医者さんに『会いたい人には会ったほうがいい』と言われました」
ヘンリーさんが悲しそうな顔をして私の言葉を聞いている。
「やはりそうだったか。君の時間が残り少なくて、失敗したらもう一度試すわけにいかない状況だったのだな。だから自分が経験した道順を、逆に送り出そうと思ったのだろう。それにしても……なんとも思い切ったものだ。失敗すれば君はどこに飛ばされるかわからんのに」
「あのままなら私は確実に死んでいました。おばあちゃんは失敗を恐れて私を死なせるぐらいなら、千にひとつでも健康に生き続けられる道を選んだのだと思います。決断するまで祖母がどれほど悩んだか、私にはわかる気がします」
サラさんが淹れてくれたお茶は、うちの茶葉なのにいつもよりも美味しい。厨房からクッキーを持ってきて全員で食べた。その日は変換魔法についてグリド先生がいろいろ話をしてくれた。「私は変換魔法が苦手だ。どれほど練習をしても今のマイには到底敵わないだろう」と言う。
今回のレッスンはお休みになり、話し合いで終わった。ずっと緊張感があったのは、私以外の三人が『マイは危険を承知で元の場所に戻ろうとするのでは?』と心配しているからだと思う。
私には「私が危険を冒して戻ることを、おばあちゃんは喜ばない」という確信がある。おばあちゃんが私に戻ってきてほしいなら「笑って暮らすんだよ」とは言わず「待っているよ」「戻っておいで」と言ったはずだ。おばあちゃんはそういう人。いつだってまっすぐな言葉を選ぶ人だった。
グリド先生とサラさんは早めに帰った。ヘンリーさんは残っていて、ぼんやりした顔をしている。
「ヘンリーさん、流れ星を見ませんか?」
「いいですね。そうしましょう」
二階から毛布を一枚持ってきて、二人で裏庭のベンチに腰を下ろした。裏手の高い塀以外、周囲に高い建物がないから夜空が大きく広い。ネオンもないから星がものすごくたくさん見える。彗星はいよいよ大きく明るく光り、尾を引いている。明るすぎて不穏な感じさえする。
ヘンリーさんとぴったり体をくっつけて一枚の毛布に包まった。
「すごく綺麗。私がいた場所では、よほどの山奥に行かない限り、こんな星空は見えなかったんですよ」
「そう」
「今日は興奮しちゃったんで、少し疲れました」
「そうですか」
「元気ないですね」
「マイさんが気づいてしまいましたからね」
なんのことだろうと思ったが、少ししてわかった。
「もしかして、変換魔法のこと? ヘンリーさんは世界を超える魔法の要が変換魔法だって、前から気づいていたんですか?」
「気づいていましたし、グリド先生から聞いてもいました。俺はマイさんが気づいたら元の世界に帰ってしまうのではないか、そこに気づかなければいいなと、卑怯にもずっと願っていたのです。黙っていたこと、怒りますよね?」
「ううん。それより、いつ気づきました?」
「皮を剥いたどんぐりが隣のお皿に現れたときです」
そんなに前?
「悔しいなぁ。変換魔法のことを黙っていたことには腹が立ちませんけど、私よりヘンリーさんの方が私の魔法に詳しいのが腹立たしい」
「ごめん」
「謝られるのも腹が立つような……」
心の声を駄々洩れにしていたらギュウッと抱きしめられた。抱きしめられるまま力を抜いてヘンリーさんの胸にもたれかかっていたら、「俺、リヨさんの気持ちがわかります」と言う。
「会ったこともないのにわかるんですか?」
「会ったことがなくても、わかります。俺がリヨさんの立場だったら、散々悩んで結局はマイさんを送り出します」
「失敗するかもしれないのに?」
「ええ。ものすごく恐ろしいけれど、それでマイさんが助かる可能性があるなら送り出します」
この人ならそうかもしれない。判断を間違えない人。カルロッタさんの幸せを願って送り出した人。そして私のことも「幸せに生きろ」と送り出すであろう人。
「私はどうかな。ヘンリーさんのためだと別の世界に送り出せるかな。成功する気がしないし、想像するだけで恐ろしいです」
「もしそういう場面になったら、送り出さないでください。マイさんから離れて知らない世界で一人になるぐらいなら、マイさんのそばで人生を終えたい」
「そんな」
そんな選択肢を考えたことがなかった。あの時、私はただただ生きたかった。
「そういう場面が来ないように、腕を磨いて今よりも効果の高いポーションを作れるようになりますね」
「瞬間移動に関しては魔法部が魔導具を開発中です。マイさんが危険を冒さなくても道は開けますので」
「そうなんですか」
「ええ。リーズリー氏が開発者です。ただ、ダイヤを消費す……」
そこでヘンリーさんが言葉を切った。
「ダイヤ? ダイヤを消費するって言いました? ダイヤなら私が提供しますよ。いくらでも作れるんですから」
「そう言うと思った。俺の言葉は忘れてください」
「なんで? 私の変換魔法を知られるからですか? 私が魔法を使えることはリーズリーさんに知られているんだから、かまわないのに」
「リーズリー氏はあなたがダイヤを作れることまでは知りませんよ。あなたの変換魔法は多くの人が欲しがります。ダイヤを炭から作れるなんて知られたら、どれだけ狙われることか。閉じ込められて延々とダイヤやオパールを作らせられかねない。やめましょうよ」
「誰かを経由して寄付すれば?」
「ダイヤを大量に寄付できるような人を、俺は思いつきません」
もっともなので、その話はそこで終わりになった。
かなり長い時間、ヘンリーさんと私は無言で星空を眺めた。せっかく手に入れた力なのに、発揮するのが難しい。
ピエタ像のくだりは45話
どんぐりのくだりは50話