69 祝杯と涙
染色場の一件から二週間が過ぎた。
三月の中旬になり、うちの裏庭にも可愛い花が咲き始めた。
とても珍しいことに、ヘンリーさんが人を連れて閉店前の『隠れ家』に来てくれた。一緒に来店したのはハリソンさんだ。
「いらっしゃいませ」
「やあ、マイさん。しばらくぶりだね」
「いらっしゃいませ、ハリソン様。ヘンリーさんがどなたかと一緒にいらっしゃるのは珍しいですね」
「俺は断ったのですが、ハリソンさんがどうしても一緒に行くと譲らないのでね」
「そう冷たいことを言うなよ、ヘンリー。マイさん、この店は酒を置いているかい?」
「ございます」
夕食を食べている他のお客さんから離れた席に座り、ハリソンさんがご機嫌な感じにワインの注文を入れる。
「つまみは適当に頼むよ」
「かしこまりました」
まずはワインとグラス、チーズを二種類と野菜スティックとマヨネーズと焼いたソーセージを出した。それから何を作ろうかと考える。「そうだ」と思いついて自分用に買っておいた手羽先を炙り焼きにした。二人はなにか話し込み、時々ハリソンさんが楽しそうに笑う。ヘンリーさんもつられて少し笑う。お城でいいことがあったらしい。
手羽先は骨があって少々食べにくいけれど、私は大好き。ブロッコリーとゆで卵も添えて出した。ヘンリーさんは「パリパリの皮が旨い。この味付けはワインが進みますね」と言い、ハリソンさんは無言で食べている。二人とも気に入ったらしい。
他のお客さんが帰って、店内はヘンリーさんとハリソンさんだけになったので閉店の札をドアにかけた。厨房に戻ろうとする私をハリソンさんが引き留めた。
「私は法務部担当なのですが、今日、王国法に関することで法務部の大臣とだいぶやり合ったのです。法務部大臣は納得いかない様子でしたが、ヘンリーがとんでもない人物を味方につけて、大臣の説得に成功しました」
「あら、どんな方を?」
「国王陛下です」
微妙な顔つきでワインを飲んでいるヘンリーさんの向かい側で、ハリソンさんが「他言は無用でお願いしますよ」と言って教えてくれた。
◇ ◇ ◇
モーリス・ヒートリー法務部大臣が眉間にシワを作って書類とヘンリーを交互に見やる。
「ハウラー筆頭文官、その一文は必要かね? 王国法は王国民のために存在する。他国からの来訪者は対象にしていないことくらい、君ならわかっているだろう」
ヘンリーは端正な顔に意識して微笑を浮かべた。
「もうすぐアルセテウス王国の文官とその使用人たちがやってきます。彼らになにかあってからゆっくり法案を考えるのでは対応が後手に回り、我が国の印象が悪くなります」
「必ずしも事件が起きるとは限らんだろう」
「大臣、この一文を入れておけば現場の警備隊員は、獣人関係の事件に素早く対処できるのです。我が国の人間は差別しなければいいのですから、不利益は生じません。この一文を入れておけば、アルセテウス王国の人間に侮辱的なことをする人間への抑止力になります」
しかし大臣はウンと言わない。そこでヘンリーがこんな提案をした。
「陛下のご判断に従ってはどうでしょう」
「議会を通さずか? それは……」
「決定権は議会にありますが、陛下のご意見も大切かと」
急遽申請して謁見した国王は無表情で、機嫌がいいのか悪いのかわからない。国王エルドール八世は金色の髪に緑の瞳の整った顔で法務部大臣、ヘンリー、ハリソンを眺める。
「話は聞いた。その一文を入れることに関して、モーリスは何が気に入らないのだ?」
「アルセテウス王国民のために我が国の法を変える必要はないかと」
「なぜ? 我が国の民が隣国の民を傷つけたら我が国では傷害罪を適用する。同じように獣人が傷つけられたらモーリス、お前はどうするつもりだ? 獣人は獣だから捨て置けとでも?」
「いえ、そのようなことは……」
◇ ◇ ◇
そこまで私に話を聞かせて、ハリソンさんが口を閉じた。もったいをつける気か。早く続きを話してほしい。我慢できずに聞いてしまう私。
「結局その一文は入るのですか? 却下されたのですか?」
「入ることになるだろう」
ハリソンさんが満足げに言う。あれ? この人、一般人の貴族なのに獣人を大切にする側なのね?
「陛下のご判断ですか?」
「そうだ。陛下は先見の明があるお方だからね。だが、決め手はヘンリーの言葉だ」
そこでヘンリーさんがやっと口を開いた。
「せっかく国交を開いたのに、我が国に来てくれたアルセテウス王国の民への差別があってはなりませんからね。避けられる危険は事前に手を打つべきです。国の繁栄のために国交を開いたのに、偏見のために戦争にでもなっては元も子もありません」
その夜は遅くまでヘンリーさんとハリソンさんがワインを酌み交わし、ハリソンさんはご機嫌で帰った。ヘンリーさんがハリソンさんを支えるようにして送っていった。
宿舎に帰った頃を見計らって伝文魔法で「お疲れさまでした」と声をかけたら、嬉しそうな声が返ってきた。
『ちょうど今、あなたの声を聞きたいと思っていました。今日はせっかくマイさんに会えたのに邪魔が入りましたね』
「明日も会えるではありませんか。法案が通る日を楽しみにしています。ソフィアちゃんが大人になるころには、もっと偏見がなくなるといいですよね」
『俺もそう思いました。あの一文はこの国の新しい未来を作ります』
ヘンリーさんはこの国のずっと先を見ている。
他愛ない話を少しして、「おやすみなさい」を言い合っておしゃべりを終わりにした。そしてベッドに横になって考える。
ヘンリーさんは獣人と一般人の橋渡し役として邁進している。文官として働いてきた過去が、それを支えている。私も一日に一センチでもいいから前に進みたい。
私はこの世界で、今度の人生で、自分のためだけに生きるのは終わりにする。一度人生を終えた私だからこそ、誰かのために今度の人生を役立てたい。繰り返し思い出すグリド先生の言葉。
『王都の貧しい地区を回って、幼い高魔力保有者を探していた。そんな子を見つけたら生活の援助をした』
グリド先生の深いお考えに感動した。それ以来ずっとその言葉を忘れられない。
私がグリド先生の志を継ごう。おばあちゃんの餞別である魔法の知識と魔力を役立てよう。貧しい家の幼い高魔力保有者が、その能力ゆえに人生を奪われたりしないよう、次は私が動こう。
そう決めたら心が晴れ晴れとした。去年の五月にこの国に来て以来、こんなに心が軽くなったのは初めてのことだ。
翌朝、ソフィアちゃんを連れてきたディオンさんが私を怪訝そうに見る。「どうしましたか?」と尋ねたら「なんだか今朝はマイさんがキリリとして見えます」と言われた。
「わかるんですね。私、この先にやりたいことが見つかったんです」
「やりたいこと……」
「ええ。たぶん大変なことだとは思うのですが、この先の人生をそのことに賭けたいと思っているんです。今はまだ思いついただけなので、自慢げに話をするのはやめておきます」
「いつか話せるようになったら、俺にも教えてください」
「はい。その時はぜひ聞いてください」
その日の午後にヘンリーさんが来店したとき、その話をした。一番最初に話すのはヘンリーさんと決めていた。
「貧しい家の幼い高魔力保有者を守るために援助する、ですか?」
「ええ。私は適任だと思うんです」
ヘンリーさんは無言で驚いている。茫然としていると言ったほうが近いかな。てっきり笑顔で「それはいい思いつきですね」と喜んでくれると思っていたのに。
「もしかして反対ですか?」
「いいえ。賛成です。ただ、あなたがそれを思いついたことに驚いています」
「ん? どういうことですか?」
「あなたのその行動で、私の記憶からずっと消えない、とある人の……長くつらく苦しい人生が報われます」
ヘンリーさんの目が潤んでいる。私が驚いたからだろう、ヘンリーさんはうつむいて片手で顔を隠したけれど、涙がぽたりとテーブルに落ちた。冷静で心の強いこの人が泣くところを初めて見た。
「子供のころから感情に左右されないように気をつけて生きてきたのに。マイさんと出会ってからは感情が大きく動くから困ってしまいます。恥ずかしいところを見せました」
涙を浮かべたまま私に微笑むヘンリーさんは、とても美しかった。