60 誠実なロージーさんと卑怯な私
ヘンリーさんとヤマネコは取っ組み合ってゴロゴロと転がった。
すぐにパッと離れ、互いに恐ろしい唸り声をぶつけ合う。体格では圧倒的に劣るヤマネコなのに、一歩も引かない。声も顔も迫力がすさまじい。
こういう場面に疎い私でもわかった。このヤマネコはおなかが空いて女性を襲っているんじゃない。女の人に対して猛烈に怒っている。
猫ヘンリーさんは女性とヤマネコの間に回り込み、女性を背にして低く身構えた。ゴオオオオと聞こえるような唸り声を出して威嚇すると、ヤマネコは急に大人しくなった。表情から怒りがスウッと消えていく。そして少しずつ後ずさりし始めた。
ヤマネコは背後から襲われることを用心しているらしい。ゆっくり後ずさりをし、何度もヘンリーさんを振り返りながら森の奥へと入っていく。霧がたちまちその姿を隠してしまった。
姿が見えなくなってから、甲高い鳴き声が二つ三つ遠くから聞こえてきた。子供の声だ。
そこでやっと我に返った。とにかくヘンリーさんを庇わなくては。自分が張った結界を消し、女性に声をかけながら近寄った。
「安心してください。この人は、いえ、この黒猫は……」
そう言っている途中で見えない壁にポヨンと跳ね返された。これ、結界だ。
「わ、びっくりした」
「ああっ! ごめんなさい。今すぐ消します!」
女性は口の前に人差し指と中指を立てて何事かをつぶやくと「もう大丈夫です」と言って立ち上がろうとした。でも力が入らない様子。
「怪我をしているんですよね? ヤマネコに噛まれたのですか?」
「ええ。でも私がいけないんです。ヤマネコにばったり鉢合わせをした時に、驚いて水魔法を放ったんです。何もせずにそのまま後ろに下がればよかったのに。わかっていたはずなのに、つい」
ヘンリーさんは? と探すと、もう着替え終わったヘンリーさんがこちらにゆっくり近づき、私たちから少し離れた場所で思案顔で立っている。私はとりあえずソフィアちゃんに人間に戻ってもらって服を着せた。女性のところに戻ると、ヘンリーさんとソフィアちゃんを見ながら小声で尋ねられた。
「お嬢さん、あの男の人とこの子は獣人よね?」
「ええ。そうなんですけど、あの……」
女性がヘンリーさんに声を張った。
「私、ロージーと申します。もう少しで魔力が切れるところでした。結界が消えたら襲われていたでしょう。本当に助かりました」
「危なかったですね。役に立ててよかった。まずは怪我の手当てをしなければ。それから俺の馬でご自宅まで送ります」
「は、はい。お願いします。ありがとうございます」
ロージーさんはヘンリーさんを怖がっていない。よかった。ヘンリーさんは落ち着いていて穏やかだ。ヘンリーさんがポケットから包帯と軟膏らしき容器を取り出し、水筒と一緒に私に差し出した。
そうでした。おばあちゃんの知識によると、この世界では家族以外の男性が女性の生足を見るのも触れるのも、大変に失礼なことだものね。
ロージーさんの前に膝をつき、怪我を見せてもらった。左のふくらはぎに深い引っかき傷。膝から下が血まみれだ。これ、上っ面だけ洗ってもだめだ。傷を水でジャバジャバ洗いながら考える。ポーションを飲むべきだ。キリアス君は「ポーションは早ければ早いほど効く」って言っていた。
「ロージーさん、今ポーションを持っていますか?」
「いえ……」
「では私のポーションを飲んでください。この傷はかなり深いわ。中から治したほうがいいと思います」
念のために持ってきた自作のポーションを飲んでもらい、軟膏を塗り、包帯を巻いた。
女性とソフィアちゃんを馬に乗せ、四人でロージーさんの家に向かう。馬をゆっくり歩かせながら彼女の話を聞いた。
「私は多少の魔法が使えます。魔力はあまり多くありません。村でポーションを作って売り、農夫の夫と生計を立てています。私程度の魔力でも、皆さんのお役に立って喜ばれているんです」
ロージーさんが朗らかに、そして誇らしげに語る。
「今日は森で薬草を摘もうとして、ついつい奥まで入ってしまいました。ヤマネコが子を産む季節なのに、大失敗です」
ヘンリーさんが静かに話しかけた。
「ご覧になった通り、私は獣人です。なので名は名乗りませんが、さっきのことは秘密にしていただけますか?」
ロージーさんは何度もうなずく。
「助けて下さったあなた様を困らせるようなことは、絶対にいたしません。私の両親の名にかけて誓います。どうか信じてください」
「信じます。ありがとうございます」
ロージーさんとヘンリーさんのやり取りを、複雑な気持ちで聞く。
ヘンリーさんは半獣人であることを全力で隠していた。なのにあっさりとこの人に見せた。ロージーさんと母ヤマネコの命を優先したからだ。
(私はなぜ、魔法が使えることを隠しているんだっけ)
目立たず静かに暮らしたいから。国のお抱え魔法使いになりたくないから。笑って生きられれば十分だから。そんな理由しか思いつかない。私、みっともないわ。自分を守ることに精いっぱいで、コソコソ生きている。
ロージーさんの家は森を出た街道沿いの平屋だった。煙突から煙が出ている。私たちが家の前に着くと、ロージーさんと同じ三十歳くらいの茶色の髪の男性が駆け寄ってきた。
「ロージー! どうした!」
「子育て中のヤマネコを刺激してしまったの。襲われている最中にこのお二人が助けてくださったのよ。お二人さん、夫のマックスです」
旦那さんの手を借りて馬を降りるロージーさん。すぐに帰ろうとする私たちをロージーさん夫婦が引き止めた。
「どうぞ、中でお茶を」
「いえ、俺たちは帰ります」
「ロージーさん、お大事に」
それだけを伝え、三人で馬に乗って出発した。途中の木陰で竜田揚げをバンズで挟んだお弁当を食べた。夢中で食べていたソフィアちゃんが、モグモグしながら私をジッと見る。
「ん? なあに?」
「ニャーニャーになった」
ソフィアちゃんの視線がヘンリーさんに移る。ヘンリーさんは聞こえなかったように景色を見ながら竜田揚げバーガーを食べている。
「うん。そうね。ニャーニャーになったわね」
「内緒?」
「うん」
「フィーちゃん、ないしょ、できるよ」
「ありがとう」
ヘンリーさんがお礼を言うと「どういたまして!」と元気よく応じる。「どういたしましてだよ」とヘンリーさんが教えるが、何回言い直しても「どういたまして」になる。天使。
ソフィアちゃんに道案内してもらってカリーンさんの家に到着した。ソフィアちゃんを渡してから「だいじなお話があります」と告げた。カリーンさんが(なんだろう)という顔になる。
「森でヤマネコに襲われている女性を助けました。助けたのはこの方。ソフィアちゃんの前で、この方は姿を変えました」
「え? 何の話?」
言い淀んでいると、ヘンリーさんが一歩踏み出した。
「猫に変身してヤマネコを追い払いました。乳飲み子を育てている母ヤマネコだったので、剣で傷つける気になれなかったのです。それをソフィアちゃんが全部見ていました」
「ではあなた様は……。私、獣人を見分けられると思っていましたが、全然気づきませんでした」
「獣人であることを世間に知られれば、私も私の両親も多くのものを失います。どうかこのことは他言しないでもらいたいのですが。それと、ソフィアちゃんの変身した姿もその女性に見られました。申し訳ありません」
「そんな事態なら仕方ありませんよ。どこの誰かわからないでしょうしね」
カリーンさんが笑顔で許してくれた。
「ご安心ください。あなた様のことは口外しません。ソフィアの勘違いだと言うこともできたのに、私を信用して話してくださったのでしょう? 私ら犬型獣人は信頼を裏切りません。ソフィア、今日見たことを人にしゃべってはいけないよ。いいね?」
「うん! お約束、守れるよ!」
私とヘンリーさんはお礼を言ってカリーンさんの家を離れた。
「ヘンリーさん、なぜか聞いてもいい?」
「猫に変身したこと? だって……野生の獣を傷つけたら獲物を捕れなくなる。それは母親も子供も飢え死にさせることだ。ヤマネコの乳房が膨らんでいるのを見たら、母の顔を思い出してしまったんです。子供を守るために攻撃的になっているんだなと思ったら、剣を使う気になれませんでした」
『隠れ家』を目指す間中、私はずっと惨めな気分だった。誇らしそうに魔法を使えること、村人の役に立っていることを話していたロージーさん。ロージーさんとヤマネコの親子を守るために猫になったヘンリーさん。だけど私は……。
「どうしました? ずっと元気がない」
「私、自分を守るために『ひっそり生きたい』とか、『笑って生きられればいい』とか言って、魔法が使えることを隠しているでしょう? 器の小さい卑怯な女だなと思って」
「自分を守るのは基本中の基本です。卑怯とは違います」
それでもしばらく黙り込んでいたら、ヘンリーさんが思いがけないことを話し始めた。
「あとから知らせるのはそれこそ卑怯になるので、俺の秘密を話しておきます。俺、自分の父親が誰なのかわかりました。想像していた以上の大物でした」
「知っている人でした?」
「国王陛下でした」
耳から入った言葉を理解できず、しばらく無言になってしまった。
「ええと、それはいいことなのよね?」
「朗報ではありません。このことを知られたら、俺は命を狙われます。なぜ母が俺を養子に出したのか、なぜ俺と関わらないようにしていたのか、全て納得しました。そしてマイさん……」
「うん?」
「俺の素性が知られたら、マイさんも狙われるかもしれない。あなたのことを思うなら、距離を置くべきだと思いました」
ヘンリーさんは優先順位を間違えないことが自分の強みだと言っていた。この人は私の安全のために本当に距離を置くつもりかもしれない。それなら私も私の優先順位を伝えておかなくては。
「あちらの世界を後悔で終えた私の話を聞いてください。今日と同じ明日が来るなんて保証はないんです。落ち着いたらとか危険が消えたらなんて言っていると、この世界でもまた後悔することになっちゃう。あれこれ考えずに、これからも今まで通り私と仲良くしてくださいな」
「マイさん……」
イリスの上で、ヘンリーさんの左腕に力が入って抱き締められた、と思ったら首にカプッと嚙みつかれた。
「こら! 痛い痛い! 甘噛みにしては強いって! もう、歯形がつくでしょうに」
ヘンリーさんの腿をパシパシ叩いてやめさせた。振り返って顔を見たら、やたらご機嫌なヘンリーさんの瞳孔が若干縦ですよ。
「この人には恋人がいますよとわかるように、わざと歯形をつけたのです」
「それ普通はキスマークでしょうが。歯形って!」
ヘンリーさんはご機嫌なまま返事をしなかった。