59 森での出来事
次の休息の日に、ヘンリーさんとソフィアちゃんと私で森に行くことになった。
話の発端はポーションを作ろうと久しぶりにオルタ薬草店に行ったら、生の薬草が売られ始めていたことだ。
まだ採取される数が少ないからだろう、早春の生の薬草は高価だった。値段は乾燥させた薬草の十倍近い。お店の人によると、効果が十倍というわけではないと言う。
「乾燥させた薬草を多く使えば、ポーションの効果は生の薬草で作ったものと比べてもさほど変わりませんよ」
だったらお金の心配がない今は、生の薬草を買ってもいいし乾燥品をたっぷり買ってもいい。でも、薬草を摘んでみたいという欲求に逆らえなかった。東京生まれで東京育ちの私は、野生の何かを採取した記憶がない。イチゴ農園のイチゴ狩りどまりだ。結局、生の薬草はやめて乾燥した薬草だけを買ってきた。
昼食を食べに来たヘンリーさんにその話をしたら、少し考えた後でお出かけに誘われた。
「次の休息の日に、一緒に森まで薬草を摘みに行きますか?」
「ヘンリーさんは薬草がどこに生えているか知っているの?」
「知っています。日帰りで行ける場所です。他の人たちが摘みに行かないのは、薬草が生えている森は迷いの森と呼ばれていて、人間の方向感覚をおかしくするからです。迷子になって延々と森の中を歩き回って力尽きる人が多かったので、今はもう薬草採取の専門家しか入らないらしいです」
方向感覚を失うって、どういう理由だろうか。
「その森、私たちも危ないでしょう?」
「心配いりません。十代の頃にこっそりその森に行きましたが、俺は何の問題もありませんでした。半分獣人だから迷わないのかもしれません。その森は餌が少ないからか、オオカミや熊の話も聞きません。せいぜいがヤマネコですが、ヤマネコが人間を襲うことはまずありませんから」
「一人で迷いの森に? 何回行ったんです?」
「一人で四回かな。全く迷わなかったので、そこで興味を失いました」
意外。この人がそんな冒険をするとは思わなかった。そう思ってヘンリーさんを見たら、きまり悪そうな顔をしている。
「若気の至りというやつです」
「今度、他の若気の至りも聞かせてください」
「じゃじゃ馬だったマイさんの武勇伝と引き換えなら」
安請け合いはしないで口を閉じた。私のじゃじゃ馬話はあまり自慢できる内容ではない。
ディオンさんとカリーンさんの許可を得て、ソフィアちゃんも連れて行くことにした。
カリーンさんは、「ああ、あの森ですか。お願いしてもいいんですか? きっと喜ぶわ。ソフィアがいれば迷子になることはありませんし」と言う。
獣人の方向感覚って、そんなにすごいのか。
休息の日。八時ちょうどにヘンリーさんが馬で店まで来てくれた。今日は帯剣している。ヘンリーさんが剣を携えている姿を初めて見たけれど、かっこいい。
「剣も使えるのですね」
「貴族の嗜みですから、多少は」
そこから小声になって私の耳元でささやかれた。
「ソフィアちゃんの前で魔法を使うと、いろいろ厄介でしょう? なにかあったら剣を使いますし、最悪の場合でも俺が姿を変えて戦います。ソフィアちゃんにとって、俺はどこの誰かわからないわけだし」
「なるほど。了解です。でも、私もヘンリーさんとソフィアちゃんのことは守りますね」
ヘンリーさんはやっぱり頭がいいなあ。私、そこまで考えていなかったわ。
三人でヘンリーさんの愛馬イリスに乗り、森に向かう。ソフィアちゃんは人見知りもせず馬にも怯えず、ずっとご機嫌だ。イリスは心なしか私に対する態度よりもソフィアちゃんに優しい。愛を感じる気がする。
「フィーちゃん、お出かけ、好き! イリスも好き!」
「今日はお弁当も持ってきたから、森でお昼を食べましょうね」
「やったぁ」
ヘンリーさんも楽しそうだ。私とソフィアちゃんの他愛ないおしゃべりを聞きながら、たまに「ふふ」と笑っている。馬で二時間ぐらい移動しただろうか。森に到着した時には、太陽がだいぶ高い位置になった。
森に着いて、なんとなく迷子が続出する意味がわかった。森は周囲を山に囲まれていて、森全部が盆地になっている。太陽で方角を探れないのかも。
しかし、もっと深く森に入って地形だけではないことに気づいた。森の中に靄が立ち込めている。
「この霧のおかげで薬草が良く育つのだそうです」
ヘンリーさんはこの辺のことに詳しかった。
イリスから降りて三人で歩く。薬草はあちこちに生えている。私の様子を黙って見ていたソフィアちゃんが私の袖を引っ張った。
「ん? なあに?」
「フィーちゃん、走りたい」
「もしかして、ワンコになって走りたいの?」
「……うん」
それはだめでしょう。カリーンさんたちがあんなに必死に隠しているのに。
「この子が変身したいのは犬型獣人の血が騒ぐからでしょう。気持ちはわかる。思いっきり走りたいのかい?」
「うん! でもワンワンなったら怒る?」
「俺は怒らないよ。君がワンワンなのは知っているんだ。それに、尻尾がもう出ている」
ソフィアちゃんが慌ててお尻を押さえた。ほんとだ! 可愛い尻尾がスカートを持ち上げているじゃないか。変身が自由自在と聞いていたけど、尻尾は戻る気配がないのだが。
「フィーちゃん、途中で戻れない」
「俺からソフィアちゃんのご家族に話をしておきます。マイさんは悪くないって」
「でも……」
「マイさんが許可する前に尻尾が出ちゃったから、これは不可抗力ですよ。途中の状態から戻るコツはまだつかんでいないのでしょう。このままでは気持ち悪そうだ」
ヘンリーさんは苦笑している。私は下を向いてもじもじしているソフィアちゃんの前にしゃがんで話しかけた。
「尻尾が生えちゃったね。お父さんとおばあちゃんには私からお話するから、いいわよ。でもちょっと待って。他に人がいないか確かめるから」
魔力を薄く広く放出した。人間か獣人がいれば光が見えるだろう。霧の中でもすぐわかるはず。見渡したところ、周辺には誰もいない。待ちきれなかったソフィアちゃんは、私が「いいよ」と言うや否や、すぐにワンコに変わった。
嬉しそうに森を走り回るソフィアちゃん。短い手足が猛烈に速く動いている。興奮してフガフガと鼻息が荒い。もう、なんて可愛いんだろう。ソフィアちゃんの服を集めてリュックにしまいながら声をかけた。
「私から離れないでね」
「うん!」
ソフィアちゃんはザザザッと音を立て、下草をかき分けながら走り回っている。
「俺があの子を見ています。マイさんは薬草を摘んでください」
「ありがとうございます」
ソフィアちゃんは私から離れることはなく、お利口さんに近くをグルグル走り回っている。そんなに走る? と笑ってしまうほど走り続けていたのだが。突然止まり、フイッと顔を上げて私を見る。
「血のにおい!」
「えっ」
「血のにおい! こっち!」
ソフィアちゃんは地面に鼻をくっつけるようにして血のにおいを追っている。ヘンリーさんが剣を抜いてソフィアちゃんに質問をする。
「人間の血か、動物の血か、わかるかい?」
「人間の血! フィーちゃん知ってる!」
「そうか。じゃあそのまま探してくれるか?」
「うん!」
周囲に目をやりながら、ヘンリーさんが私に小声で話しかけてきた。
「半獣人の俺より犬型獣人のこの子のほうが嗅覚は鋭いと思う。ここはこの子に頼りましょう。マイさんはいつでも魔法を使えるように心がけていてください」
「了解です」
私は感知魔法を放ちつつ、水魔法の準備もしながら歩く。ずっと霧に包まれているせいで、髪の毛も服も靴も湿ってきた。ソフィアちゃんは毛皮が濡れるのも気にせず、草をかき分けて走り回っている。
突然ソフィアちゃんが顔を上げた。小さくて黒い鼻を高く上げて、ヒコヒコと空気の中を探っている。
「もうちょっとだよ!」
血を流している人はどの程度の怪我なのか。その怪我はうっかり自分でやったのか。獣か人に襲われたのか。他者に傷つけられたのなら、相手はまだその辺にいるのか。
日本にいたら遭遇しそうもない状況に緊張する。
ソフィアちゃんが「見っけた!」と叫ぶのと、私が跳ね返ってくる魔力を感じたのは同時だった。
その女性は大木を背にして尻もちをついたような姿勢だった。少し離れた場所を、ワンコソフィアちゃんよりひと回り大きなサイズの猫がウロウロしている。大きな猫は殺気だっていた。
「ヤマネコです。マイさんはこの子とここにいてください」
ヘンリーさんが剣を抜いてゆっくりと歩み寄っていく。私は自分とソフィアちゃんの周囲に結界を張った。
ヤマネコはヘンリーさんに向かって威嚇する。鼻にシワを寄せ、長くて太い牙を見せながら唸っている。ヘンリーさんが剣を構えて距離を詰めると少し下がるが、女性を諦めるつもりはないらしい。
「マイさん! このヤマネコは子を産んだばかりです。乳が張っている。斬り殺すのは気が進まないので変身して追い払うことにします。ソフィアちゃんを守っていてください」
「え? えええっ?」
その女性の前で猫になるつもり? 嘘でしょ? と見ていたら、剣を構えたまま左手でシャツのボタンを外し始めた。ソフィアちゃんは興奮してフガフガウーウーと鼻息が荒い。結界は張ってあるものの、ワンコソフィアちゃんが暴走しないように左手で抱え上げた。右手はいつでも水を出せる準備はできている。
ヘンリーさんの変身は、目を疑うほど素早く終わった。
人間サイズの黒猫が、ヤマネコに向かって飛びかかった。