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52 獣人来訪の裏で

 手紙を読んだヘンリーは終業時刻を待って母のいる女学院の寮へと馬を走らせた。

 呼び出されたカルロッタは、泣いているかのような笑顔を浮かべて走ってきた。誰にも話を聞かれないよう、ヘンリーは植え込みの陰まで母の手を引き、小声で尋ねる。


「母さん、本気?」

「本気よ。お前がいるから二十五年間もこの王都に居座っていたけれど、私はこの国を出ようと思う。お前を産んだ私が勝手なことを言っているのはわかっているわ。ただ、私はもう四十三歳。健康でいたとしても残りの人生はあと十年か十五年。残りの人生を獣人の国で暮らしたいの」

「王都には母さんの他にも獣人が住んでいるだろう? その人たちと付き合うんじゃだめなの? 俺はまだ母さんに何も恩返しをしていない。こうして話をするのも、まだ十回にもなっていないのに」


 カルロッタは視線をうつむけ、口をつぐんだまま。


「母さん、思っていることを言って。母さんの本当の気持ちを隠さず教えてほしい」

「私の両親は夫婦で支え合って暮らしていたけれど、私は一人だから。年を重ねるにつれて、だんだんと寂しさが堪えるようになったの」

「そうか……そうだね。一人は寂しいね」

 

(俺にはマイさんがいる。それに、養父母に愛されて育った。そんな俺に、ずっと一人で生きてきた母さんを引き留める権利はない。母さんには母さんの人生を生きる権利も自由もある、か)

 

 ヘンリーは母が後ろめたい思いをしないで済むように、穏やかな笑顔を心掛けた。


「会えなくなるのは寂しいけれど、母さんが楽しく暮らせるのなら、俺も嬉しいよ」

「育ててくださった子爵様ご夫妻には本当に感謝しているの。ねえ、ヘンリー、この前一緒に来てくれたお嬢さんとは、どうなったの?」

「仲良くしているよ。とてもいい人なんだ」

「そう……。愛する人と暮らせることは、とても幸せな奇跡なの。それを忘れないでね」


 ヘンリーは黙って微笑んだ。


「ヘンリー? あの女性と上手くいっているのよね?」

「上手くいっているよ。ただ、慎重に考えているんだ」

「そう。あなたらしいわ。あなたには苦労をかけて、本当に申し訳ないと思ってる。でも、私はどうしてもあなたを産みたかったの」


 今まで笑顔しか見せなかった母が大粒の涙を流して繰り返し謝る。その姿にヘンリーの胸が痛んだ。

 

「母さん、俺は生まれてきてよかったと思っているよ。俺を産んでくれた母さんに感謝している」


 カルロッタが両手で顔を覆った。


「ごめんね。ごめんね。あなたに迷惑をかけてばかりね。なのに、こんな私にも優しくしてくれる。本当にありがとう」

「俺は物心ついてからずっと幸せだった。マイさんに出会ってからは毎日が楽しい。本当に生まれてきてよかったと思っている。母さん、だから俺を産んだことを謝らないで」


 整った外見に恵まれ、頭脳明晰、出世頭、そして子爵家令息。好条件にもかかわらずヘンリーは女性と一切の関わりを持たなかった。カルロッタはその理由を半獣人だからだと確信している。だから今、優しい嘘をつく息子に胸が痛む。

 

「ありがとう。私の息子はとても優しい人に育ったわね」

「泣かないで。母さんはきっと幸せになれるよ」


 カルロッタはヘンリーを抱きしめてまた泣いた。ヘンリーはカルロッタが泣き止むまで慰め続け、それから城へと引き返した。


 現在、ヘンリーを含めた文官たちは走り回るようにして仕事をしている。

 アルセテウス王国の軍人と文官は城の客間に、乗組員たちは国が借り上げた宿に泊まっている。日中に彼らが出かけそうな場所には、彼らが国王の客であること、万が一にも獣人たちに不快な思いをさせたり危害を加えてはならないことを周知徹底させた。

 その各種手配の最終確認は筆頭文官のヘンリーの仕事だ。ヘンリーは城に泊まり込み、朝から晩まで働いている。


 ◇ ◇ ◇


 ヘンリーとカルロッタが会った翌日。

 ミッチェル・ハウラー子爵はヘンリーの実父と面会していた。

 ヘンリーの実父とミッチェル・ハウラーは貴族の子供たちの集まりで知り合い、互いに乗馬が好きなことから意気投合した。そこから三十数年の付き合いになる。

 

「カルロッタさんとヘンリーはたまに会っているようでございます。昨夜も女子寮の者から報告がございました」

「そうか。ヘンリーのことだから用心してはいるのだろうが……。カルロッタは変わらずに元気なのだろうね?」

「はい。女学院の仕事が楽しいと言っているようです。ただ、私からの支援金は相変わらず受け取ってもらえません」

「その支援金の出所でどころが私だと気づいているのだよ。彼女はヘンリーのために、私とはどんな関わりも持ちたくないのだろう」


 そう言って男性は無表情に窓の外を見た。その無表情の奥にどれほどの感情が隠れているか、ミッチェル・ハウラー子爵は知っている。


「大変申し上げにくいのですが、カルロッタさんは職場の上司に『近々仕事を辞めて国を出る』と申し出たそうです。もしかすると……」

「あの船に乗るつもりだろうか」

「このタイミングですから、おそらくそうだろうと」


 無表情なことが多い男性の顔に、ほんの一瞬、影が差した。


「あの事件が起きなければ私は田舎の領主として妻と息子の三人、のんびりと暮らしていたのだろうな」

「あの時は本当に、不幸なことが重なりました」

 

 ハウラー子爵は二十五年前の事情を全て知っているだけに、ありきたりの慰めしか言えないことを申し訳なく思う。


「流行り病が国中に蔓延したのは、籍を抜いてカルロッタさんと暮らしてもよいと、お許しが出た直後のことでございましたね」

「許されたと言うより、見限られたのだがな。母には『もう親子ではない、顔も見たくない』と言い捨てられた」


 男性が端正な顔に薄い苦笑を浮かべる。


「兄上たちは外の人間と接触しないように引きこもっていた。そんな兄上たちが病に倒れたのにも驚いたが、ポーションが全くと言っていいほど効かず、あっという間に亡くなってしまったときは……。兄二人を失って悲しむ暇もなく、全てのことが私に向かって押し寄せた」

「特級ポーションが使用人によって別物にすり替えられていたのは、まさかの事態でした」

「私は、『お前の思い通りにはさせない』と何者かにささやかれているような気がしたよ」


 ヘンリーの実父が昔話をしている。こんなことは今まで一度もなかった。ハウラー子爵は(カルロッタさんが遠くへ行ってしまうのが堪えているのだろう)と同情する。

 

「当時カルロッタさんが姿を消したのは賢明な判断でした。懐妊したカルロッタさんの相手が誰かを知られれば、頭に血が上った連中がカルロッタさんの命を狙ったでしょう」

「兄二人に亡くなられたとき、私もすぐにそう思った。たとえ彼女が市中に隠れてヘンリーを育てたとしても、ヘンリーは必ず命を狙われただろう。あの時私とカルロッタが選ぶべき道はひとつしかなかった」


 男性の長兄には婚約者がいて、婚姻の日取りも決まっていた。その状況での長兄と次兄の死去である。


 長兄の婚約者は隣国の王女。婚姻の背景には、長年に及ぶ隣国との国境を巡る争いがあった。

 隣国の姫を受け入れることを条件に相互不可侵条約が定められた以上、兄の代わりに王女と結婚することが男性の役目だった。


「カルロッタがこの国を出ると決まったら、無事にの国で生活を始められるよう手を貸してやってほしい。あちらに移り住むのに十分な資金も渡したい。最後にそれだけは受け取ってくれるといいのだが」

「目立たぬ形で護衛を乗船させましょう。船長には当たり障りのない理由を伝えておきます。資金につきましては、人を介して説得します」

「いつまでも君に迷惑をかけるな。本当に済まないと思っているよ」

「迷惑などとおっしゃらないでください。賢いヘンリーを育てるのは楽しいことでございました」


 ミッチェル・ハウラーが部屋を出た後、男性は窓辺に立った。男性はハウラー家の馬車が出ていくのを窓ガラス越しに見送り、二十五年も会っていない女性を思い浮かべる。


 彼女の美しい立ち姿、端正なたたずまい。それがヘンリーにそっくり受け継がれている。ヘンリーを見るたびに熱い感情が込み上げるが、顔に出したことはない。


 今の妻との間にやっと生まれた男児はまだ十歳。ヘンリーの存在を知られれば、間違いなく危険因子と見なされる。ヘンリーを守るために、自分が父親であることは墓場まで持っていくと決めている。

 幸いなことにヘンリーが自力で筆頭文官になってくれた。会議で顔を見られるようになっただけでもありがたいことと思っている。


(私が愚かだったせいで、しなくてもいい苦労をヘンリーとカルロッタにさせてしまった)


 何千回何万回と繰り返した後悔は、もはや自分の一部になって消えることがない。


(カルロッタ、どうか新天地で連れ合いを見つけて幸せになってくれ。そして笑顔で生きてほしい)


 ドアをノックする控え目な音がした。「入れ」と答えたときには、男性の顔からは悲しみも後悔も全て消されていた。


「陛下、会議の開始時間が迫っております」

「わかった。行こう」


 豪奢なマントを翻し、エルドール八世は無表情にドアへと向かった。

 


 

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