50 ヘンリーさんはコツをつかんでいた
お祭りの翌日。ランチに来たヘンリーさんが申し訳なさそうに謝る。
「今夜はグリド氏のレッスンですよね。同席すると約束したのに、俺は大幅に遅れます。最悪間に合わないかもしれません。宰相から夕食に誘われました」
「宰相……。それは絶対に断れないお誘いじゃないですか。私なら大丈夫ですから」
「本当に申し訳ない」
気にしなくていいのにと思いながらコーヒーを出した。
「クーロウ地区にもコーヒー豆はなかったので、再びどんぐりを変換してコーヒー豆にしました。いい方法を思いついたんです」
「どんぐりで粘りますね」
「手近な材料で作りたいから。今回はどんぐりの皮を剥いて種だけにして、中に入り込んでいるアレも取り除いて、それからコーヒー豆に変換したの。そうしたら前より風味がよくなったんです」
ひと口飲んだヘンリーさんが「ほう」という顔になる。
「微かに果物みたいな香りがする。皮を剥くのはわかりますが、アレはどうやって取り除くんです?」
「変換魔法で全部一度に。見ますか?」
「ぜひ」
木皿にどんぐりを五つ置き、その隣にもう一枚木皿を置いて変換魔法を放った。
最初の木皿には皮とアレが残り、隣のお皿に中身だけが現れた。
「ね? これでこっちの裸になったどんぐりを……」
「ちょっと待った。なんで皿を二つ並べるのかなと思っていたけど、こっちの皿に裸のどんぐりが現れましたね」
「ええ。虫はなるべく触れたくないからお皿を分けたくて。変換魔法をかける時に、裸のどんぐりがこっちのお皿に現れるのを思い浮かべればいいんです。そんな知識は貰っていませんが、試したらできたので」
ヘンリーさんは裸になったどんぐりが移動したことに感心しているような?
「テーブルが二輪の荷車になる時も、部分的に物が移動しますよね? よく作るジンジャエールの場合、かごに入ったままのショウガと瓶の中のハチミツが使った分減ります。つまり材料がワインの瓶の中へ移動するわけで。変換魔法ってそういうものだと思う」
ヘンリーさんが無表情。人差し指で唇をなぞりながら何かを考えている。これはヘンリーさんが真剣に考えているときの癖だね。前もカップの縁を指でなぞっていた。
「ジンジャエールを知らないので、作って見せてもらえますか?」
「はい」
わかりやすいようにショウガを載せた皿と瓶入りのハチミツをテーブルに置き、隣のテーブルにワインの空き瓶を用意した。水魔法で瓶に冷水を満たしてから変換魔法を放つ。
出来上がったジンジャエールを二つのコップに注いで、「どうぞ」と差し出して私も飲んだ。いつもと同じ懐かしい美味しさ。『喫茶リヨ』ではこれにくし形に切ったレモンを添えていた。
ヘンリーさんはショウガをじっくり見て、それからハチミツの瓶を眺めた。ショウガは使った分だけ切り口が溶けたように滑らかに減っているし、蜂蜜も減った分だけ瓶にラインができている。ヘンリーさんはそれを確認してからジンジャエールを飲んだ。
「確かに移動していますね。このエールのような泡は?」
「空気の一部に二酸化炭素というものが含まれているので、それを加えました。二酸化炭素は、ええと……人間も動物も植物も、吐き出した息には二酸化炭素を多く含んでいますね。エールの泡も、目に見えない小さな生き物の呼吸の結果だったような」
「ああもう……」
ヘンリーさんが額に手を当てる。
「どう考えても宰相と食事するよりマイさんと一緒にいたほうが精神的にも学びの面でも、重要度は上なのに。立場上断れないのが実に残念だ」
「私はずっとここにいて、ヘンリーさんが来てくれるのを楽しみに待っています。だから今夜は宰相様と食事をして下さい」
うなだれていた頭をスイッと上げて、ヘンリーさんが私を見る。
「もう一度お願いします」
「ジンジャエールをもう一度作るんですか?」
「そうじゃなくて、今の言葉をもう一度」
「私はずっとここにいて、ヘンリーさんが来てくれるのを楽しみに待っています」
笑顔でそう言ったらヘンリーさんがテーブルに両肘をついて両手に顔を埋めた。可愛いなあと思いながらそっとその髪を撫でた。ヘンリーさんが顔を埋めたままつぶやく。
「ますます決意が揺らぎました。宰相との食事を断りたい」
「いいえ、お食事に行ってください」
「行くべきなのはわかっています」
そう言ってヘンリーさんは顔を上げ、驚くことを言う。
「優しいことを言ってくれたお礼に、猫になって見せましょうか?」
「え! ほんとに? 自由に猫に変身できるようになったんですか?」
一瞬興奮したけど、いや、喜んではダメだわと気がついた。この人はずっと半獣人であることに悩んでお母さんとも離れて、実父の名前も知らない今があるのに。
「いえ、やっぱりいいです」
「今すごく嬉しそうな顔をしたじゃないですか。すぐ猫になれる方法を思いついたのです。人間に戻るときは俗物な軍医の顔を思い出すと素早く戻れます」
「猫になる時は何を想像するんですか?」
「それは言えません」
そう言ってスタスタと厨房の暖簾の奥に入り、すぐにヘンリーさんサイズの黒猫が出てきた。
(わあああああ!)
久しぶりの猫ヘンリーさんだ。何度見てもかっこいい。そして美しい。
ほっそりした優美なシルエットなのに、歩くたびに脚の筋肉が盛り上がるし、目が人間モードのときより鮮やかなエメラルドグリーンだし、毛皮がつやつやでヒゲまで優美だ。尻尾が別の生き物みたいにゆらゆら動くのも神秘的で好き。絶対に肉球はふわふわだよね。普段靴を履いているもんね。生まれたての子猫みたいに柔らかいよね。
慌てて息をした。嬉しさと興奮で息をするのを忘れていたわ。
猫ヘンリーさんがハァハァしている私をジッと見ているから、「別に興奮していませんよ」みたいな顔をしたけどたぶんバレてる。
猫ヘンリーさんがゆっくり私の前に来た。
「どうぞ」
そう言って私の前に座り、膝にそっと顎を置いた。黒くて丸い頭を撫で、お顔を両手で挟んで「はあああ」と思わずため息をついた。
黒くて長い尻尾がタシンタシンと床を叩いていい音をさせている。硬いヒゲは指先で撫でると押し返してくる。唇をめくるとピンクと黒の斑の歯茎が見えた。夜太郎も歯茎が斑だったなあ。この斑に惚れ惚れよ!
「ま、待った。マイさん、夜太郎にもこんなことしていたんですか? 唇めくって噛まれませんでしたか?」
「噛まれませんでした。ゴロゴロ言って喜んでいました」
唇をめくり上げても噛まれなかったね。なんならチューもしまくってたね。夜太郎は大人しくちゅーされてたね。おばあちゃんには「やめなさい! 不衛生でしょ!」と見つかるたびにすごい勢いで怒られていたね。
いやだめだめ。猫とちゅーしてたなんて、猫と暮らしたことがない人には引かれるわ。ちゅー関係は言わないでおこうそうしよう。
「もしかして、夜太郎に口づけをしていましたか」
なぜわかる!
「いえ、そのようなことは決して」
「一度もしなかったんですか?」
「ええとですね」
確信しているくせに質問するのが「いけず」だ。どう言い訳しようかと考えていたら、猫ヘンリーさんが顔を近づけてきて、私の唇をザーリザーリと二回舐めた。
驚いて固まっている私を見て、猫ヘンリーさんは照れたように「ふっ」と笑って視線を外した。
「では城に戻る時間なので」
そう言ってまた一瞬で人間の姿に戻り、帰っていった。
ヘンリーさんは猫のときの方が積極的だ。
明日は新展開