47 佐々木リヨは今
マイをあちらの世界に送り出してから半年が過ぎた。
この歳で底の底まで魔力を使い切ったからだろう、魔力は少しずつしか戻らない。最近になってやっと半分くらい戻ったろうか。
やはりこの年齢であの魔法を使うのは負担が大きすぎたようだ。
それでもいい。もうあの魔法を使うことはないのだから。
店の中から夕暮れの商店街を眺める。
たくさんの人が通りを歩いているが、「おばあちゃんただいま」と言ってマイが帰ってくることはない。寂しいけれど、後悔はしていない。
マイを健康な体で送り出せたし、魔法の知識と魔力を注げるだけ注いだ。魔力はやがてあの子の器に定着し、器を満たすだろう。
きっとあの子は元気に暮らしている。この私がそうだったように、生きてさえいれば本人の心がけ次第でなんとでもなる。
娘の絵里は私の夫に似て魔力を持たない身体だった。だがマイは私よりもずっと大きな器を持って生まれてきた。夫の正和さんは「隔世遺伝だろうね」と言っていた。
マイが持って生まれたのは大きな器だけで魔力は空だった。だが幸いなことに魔力を受け入れられる体質だったから、マイが生まれた時から(もし魔力と魔法を必要とする時が来たら力になろう)と決めていた。
マイに病が見つかって最先端医療でもマイを救えず延命措置しかないとわかった時、私に迷いはなかった。あの魔法を使って、今度は逆にあちらに送ろうと決めた。オーブ村なら間違えずに送ることができる。王都は何も知らないマイをいきなり送るには不安な要素が多すぎた。
オーブ村だってリスクがないとは言えなかったが、手を打たなければマイは百パーセントの確率で人生を終えたのだ。
マイをあちらの世界に送り出した後、病院のシーツにゴツゴツした肉塊がいくつかとそこそこの血液が残された。
(ああ、なるほど。そうだろうとは思っていたけれど、こうやって私の病は消えたわけだ)
自分が健康になった理由をこの目で確認して、納得した。
汚れてしまったシーツを新しいシーツに変換した。シーツから床に移動させた肉塊と血液を、風魔法で乾燥させて小さく固め、ポケットに入れた。わずかに残っていた魔力は、この最後のひと仕事で使い切った。
目の前が暗くなってきたから、意識を失って倒れる前にパイプ椅子に座り、ベッドに上半身を預けた。
そのあとは覚悟していた騒ぎになった。
あの子は現在、こちらの世界では行方不明者扱いになっている。
余命いくばくもない入院患者が消えた件は、犯罪の可能性が限りなく低いと判断された。警察に届けは出したが大ごとにはならなかった。病院の防犯カメラにマイが映ってなかったので、警察の人は「どこから出て行ったのか」と不思議がっていた。
「私がうっかり居眠りしている間にマイが出ていったのですから、全ては私の責任です。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございません」
警察と病院の関係者に、ひたすら頭を下げ続けた。手間をかけさせて申し訳なく思ったのは本当だ。
そろそろ炊飯器のご飯が炊きあがる。夕食の時間だ。お客さんが入ってきた。
「リヨさんこんばんは。また来たよ」
「はあい、いらっしゃい、こんばんは」
近所の友人、孝子さんだ。孝子さんも旦那さんに先立たれて一人暮らし。週に六日はうちに夕食を食べにくる常連さんだ。年齢は私より二つ下。夕食だけでなくランチも頻繁に食べにくる。「私の身体の半分以上はリヨさんの料理でできている」というのが孝子さんの口癖だ。
「今日は魚がいいんだけど。魚、ある?」
「鯖があるわよ。たっぷりの大根おろしを添えて塩焼きでいい?」
「いいわね。美味しそう。それにして。お味噌汁の具はなに?」
「なめことお豆腐にしようかな」
「なめこ大好き。吸い口はネギの青いとこがいいな」
「はいはい」
孝子さんが毎日の夕食を裏メニューで済ませるようになってから、サラリーマンのお客が増えた。みんなおふくろの味を食べたがる。
今度はマイの幼なじみの亮君が入ってきた。ちらりと孝子さんの食べている料理を見ている。焼き鯖定食を注文するのだろう。最近はもう喫茶店というより食堂に近い。
「リヨさん、俺も焼き魚定食をお願いします」
「はい、かしこまりました」
「マイから連絡は?」
「ないわ。でも元気で暮らしているはずよ。気にかけてくれてありがとうね、亮君」
亮君はマイが行方不明になってから、週に一度は顔を出してくれている。マイのことを尋ねながら、たぶん私のことも心配してくれている。優しい子だ。
「毎回同じことを聞いてごめんね、リヨさん。マイには本当に世話になったからさ、つい」
「謝らなくていいのよ。マイを忘れないでいてくれて、ありがたいわ」
マイは姉御肌のところがあって、幼稚園の頃から亮君のことを弟みたいに可愛がっていたものね。
やがて孝子さんも亮君も帰り、若いビジネスマンたちも帰った。もう閉店の時間だ。
店を閉めて二階に上がると、夜太郎が「おかえり」と言うようにすり寄ってくる。マイは夜太郎のことを最後まで心配していた。その後ろからは真っ白な子猫。夜太郎が保護した子猫だ。
先月、夜太郎が大騒ぎをした。店の勝手口のドアの前で私を何度も振り返りながら「開けろ」と大きな声で鳴いて訴えた。ドアを開けたら、小さな猫がいた。真っ白な子猫だった。
(私は七十八歳だ。こんな子猫を看取るまで生きられないだろう)と、家に入れるのを一瞬迷った。すると夜太郎が子猫の首を咥えてさっさと二階まで運び込んでしまった。
その日から我が家は一人と二匹の家になった。
私がソファーに座ると、すぐに白雪が膝に乗ってくる。白雪はたったひと月でずいぶん大きく重くなった。白雪を撫でると嬉しそうに目をつぶる。それを夜太郎が見ているが、やきもちを焼いているふうでもない。
「夜太郎を看取るまでは死ねないと思っていたのに、お前のおかげであと二十年は元気でいなきゃならなくなっちゃったわよ」
撫でながらそう言うと白雪がカプッと私の手を甘噛みした。「これ! 嚙まないの!」と言っても怒られたとは思っていない様子。
一人暮らしになったから今は遠慮なく魔法を使える状況だ。だが、この世界はすでに魔法に満ちているかのようだ。
歩かずとも目的地に着く車や電車、数百人を載せて飛ぶ飛行機。掃除も洗濯も機械がやってくれる。
映画館、美術館、図書館に公園。どこでも誰でも楽しめる。私はこの世界が大好きだ。窓越しに夜空を見上げれば、お月様が優美に光っている。日々姿を変えるお月様は本当に美しい。
朝夕、夫と娘夫婦のお位牌に手を合わせたあとで、壁の棚に置いてある七宝焼きの小さな蓋つきの器を眺めるのが習慣だ。その中に入っているのは、乾燥させて小さく固めたマイの病巣。憎い病巣ではあるけれど、これもマイの一部分だったかと思うと、ゴミ箱に捨てることはできなかった。
五十五年前のあの日に、なぜこの世界に飛んでしまったのか。数えきれないほど確認したが、私の理論に間違いはなかった。
この世界に飛んでしまった原因を、ひとつだけ思い当たる。
魔法が発動する瞬間、私は『魔法のない世界に生まれたかった』と思ってしまった。魔法を発動させる引き金はイメージだから、私の思いが瞬間移動魔法に影響を与えてしまった可能性はある。
グリドさんは元気だろうか。サラさんはグリドさんの屋敷にまだいるのだろうか。無事に生きていれば、二人とももうかなりの高齢だ。仏壇の前に立ち、毎日二人のために手を合わせて本気で願っていることがある。
(私がお願いしたことです。どうか私のことでグリドさんが苦しんでいませんように。グリドさんを苦しませるくらいなら私に罰を与えてください。私が全部引き受けます)
闇奴隷だったころ、誰にも迷惑をかけずに逃げ出したくて瞬間移動魔法理論を完成させた。鍵のかかった部屋から私が消えれば、責任は他に及ばないと思った。今思えば変換魔法で壁に穴を開けてさっさと逃げればよかったのだが、当時はそれができなかった。
図書館で読んだ心理学の本に「学習性無力感」という言葉があった。あの頃の私はまさにそれだ。いくらでも逃げ出す方法はあったのに、閉じ込められて育ったせいで逃げられないと思い込んでいた。
「戻れない場所にいるけれど、私は元気に生きています」と書いた紙をグリドさんの家に三度送った。それ以外のことは書けなかった。
「瞬間移動魔法を成功させた」「死にかけていた病人が治った」なんて世間に知られたら、今度はグリドさんの自由が奪われるかもしれない。名前も書かなかったが、サラさんが私の字だと気づいてくれることを祈った。
紙はグリドさんに届いているだろうか。あの家には送れたはずだが、グリドさんの部屋に正確に送れたかどうかまではわからない。
いや、そもそもグリドさんの家に手紙を送ったことが間違いだったかもしれない。グリドさんとサラさん以外の人にとって、私はいろんな意味で厄介者だった。使用人たちは私の主を恐れていたから、私が転がり込んだことをとても迷惑がっていた。使用人の目に触れていたら、手紙は処分されたかもしれない。
寝室に飾ってあるマイの写真に向かって話しかけた。
「マイ、元気にやっているかい? 魔法は使えるようになった? そっちで好きな人ができるといいわね。好きな人と暮らして、私のことは心配しないで生きるんだよ。私は元気にやっているよ。それに、今は寿命が尽きることも怖くない。あの世には正和さんも絵里と博之さんもいる」
マイがグリドさんに出会って、私が幸せに生きていることを伝えてくれたらどんなにいいだろうと思う。そんな奇跡が起きていたら素晴らしいけれど、贅沢は言うまい。
明日は『喫茶リヨ』の休業日だ。
週に一度のお休みの日は必ずどこかへ出かけることにしている。七十八歳の今も、外に出かけて自由に歩くことが大好きだ。
白雪を抱き上げ、足元にぴったり寄り添う夜太郎と一緒にベッドへと向かった。明日は野鳥の観察会に行こう。大空の下で野鳥を眺めよう。野鳥好きな仲間とおしゃべりをするのが楽しい。
マイは世界を越える魔法の真実に気づくだろうか。気づかなくても幸せにはなれるから、そこは心配していない。
私の魔力はマイに馴染み、魔力を産み続けて器を満たし続けるだろう。あの子の魔力に目を付ける人間がいたとしても、マイならきっと賢く立ち回る。マイは一見世間知らずのお嬢さんのように見えるけれど、実際は賢いし行動力もある。抜け目ないところもある。あの年頃の私より、はるかに人の心の機微と世間を知っている。面倒見もいい。
そこに魔力と魔法の知識を注いだのだ。マイならきっと大丈夫。
ベッドに横になり、二匹の猫に挟まれて目を閉じた。
「マイ、人生を思い切り楽しんでおくれ」