43 クーロウ地区に買い出しの日
堤防とその周辺の土地はほぼ修復された。
「家を流された人はまだ大変だけど、しばらくは国が住むところの面倒を見てくれるんです。今の国王様はお優しい方だし、特にこの五年くらいはずいぶん細かいところまで援助をいただいているんですよ」
カリーンさんがそう言って国の制度に感謝している。
ソフィアちゃんは床にうつ伏せになり、「まだ帰らない」とぐずった。だがカリーンさんが「わがままを言う子を預けるのはマイさんに申し訳ないから、もうここには来られないわ」と言ったらスクッと立ち上がって帰っていった。わかりやすい。
午後になり、ヘンリーさんがランチに来てくれた。笑顔が明るい。他人には無表情に見えるかもしれないが間違いなく笑顔だ。
「まだ洪水の余波はあるけれど、だいぶ仕事は落ち着きました」
「それはよかった」
ヘンリーさんは今日の日替わり、『肉だんごの煮込み』を食べている。
このために買い置きの鉄鍋でミンチ機を作った。殺菌の意味で本体だけでも銅製のほうが良かったのかもしれない。銅は柔らかいから、銅鍋を買ってきて試作しようと思う。
『喫茶リヨ』では古いミンチ機を活用していた。変換魔法でミンチ機を作る際、分解してメンテナンス方法を教わった経験が役立った。ミンチ機にはスクリュー状の歯と手裏剣みたいな形のカッターがあって、小さな丸い穴がたくさん開いた出口がある。手回し式で構造はシンプルだ。
肉だんごの煮込みはたくさんのお客さんに喜ばれた。これからひき肉料理をいろいろ作ろうと思う。
「マイさん、クーロウ地区で買い物をする約束でしたね」
「はい。ぜひ連れていってください。あそこには私が求めている調味料があるはずなんです。本物を買いたいです」
「では次の休息の日に行きましょう。それと、相談があります。グリド氏がマイさんに魔法を教えたいそうです。あなたはもっと魔法の腕を磨けるということでした。マイさんの意見を聞いてほしいと手紙が来たのですが、どうしますか?」
私が魔法の腕を磨いたら、元の世界に戻れるのだろうか。
自分が送られた状況から判断すると、気楽に行き来できるとは思えない。私がよくよくの状態になるまで、おばあちゃんは最新医療に頼っていたもの。それにヘンリーさんを置いて帰る気にはなれない。
戻っても病気は再発しないのかという不安もある。わからないことが多すぎだ。
ヘンリーさんを見たら、懐かしの無表情。
「私が魔法の指導を受けること、心配ですか? ヘンリーさんが嫌なら先送りしてよく考えますが」
「俺のことは気にしなくていいんです。マイさんがやりたいようにしてほしいです」
「じゃあ……習いたいです」
「わかりました。グリド氏にはそのように連絡を入れておきます」
無表情で感情が読めないまま、ヘンリーさんが帰っていった。
グリド氏の動きは早く、翌日には週に一度のレッスン日が決まった。休息の日の翌日。サラさんと二人で夕食をうちで食べて、そのあとに魔法のレッスンだそうな。
休息の日の朝になり、ヘンリーさんが馬に乗って迎えに来てくれた。
「おはようございます! いい天気ですね」
「おはようございます。お出かけ日和だ」
ヘンリーさんの馬は真っ白で、大きくて強そうだけど大人しい。ただ、私のことを見る目が(ああ、こいつか。たしか初心者だったな)と言っているような気がしてならない。気にしすぎかな。
「この子の名前は?」
「イリス」
「イリス、あなたと仲良くなりたいの。どうぞよろしくね」
そっと首に触れて声をかけた。真っ黒で濡れた目がじっと私を見る。確実に値踏みされてる気がした。
それにしても今日のヘンリーさんは疲れた顔をしている。
「お疲れですか? お出かけのために無理をさせましたか?」
「ちょっと面倒な話が舞い込んできて」
「私に関係することですか?」
「違います。俺と養父母に関することです。詳しくお話できないんです。せっかくのお出かけなのに申し訳ありません」
なんだかヘンリーさんの雰囲気が不自然。雰囲気を和ませようと冗談を言ってみた。
「ヘンリーさんを職場の誰かが気に入って、『仕事はできるし真面目な男だ。最近は雰囲気が柔らかくなったから、うちの娘を嫁がせてもいいかもしれないな』って婚約の話がご両親に舞い込んだりし……え? え? まさか大当たりですか?」
急にヘンリーさんが馬を止めたので振り返った。うわ、ヘンリーさんが引いてるとしか言いようのない顔をしている。もしかしたら、つき合うと決まったとたんに私が嫉妬深くなったと思われたのかな。
「今のは冗談ですからね?」
「そうですよね」
無言で見つめ合うのも気まずくて顔を戻したら、イリスが首を曲げて私を見ていた。イリスの賢そうな目が呆れているような気がする。
ヘンリーさんがまたイリスを進めたけど、無言。おしゃべり好きな私は無言に耐えられず「本当に冗談ですよ?」と念を押してみた。
「まさかと思いますが、マイさんは魔法で人の心を読めるなんてことはないですよね?」
今度は私がぎょっとして振り返った。本当に当たりだったの?
「昨夜父に呼び出されて実家に戻ったら、ほぼマイさんが言ったとおりのことを言われました。先輩の文官が、ええと、先輩でも俺の部下になるのですが、その人は伯爵家の次男で、自分の妹を俺にどうかと思ったらしく、伯爵から父に打診がきました」
「へえ……」
「もちろん父には断るよう伝えました。ついでにいい機会だと思って、ハウラー家を継ぐのは辞退したい、親戚から養子を取って跡継ぎにしてほしいと伝えました。すると父が意外なことを言い出したのです」
ハウラー子爵はヘンリーさんがそう言うであろうことは予想済みだったらしい。
ヘンリーさんが一生結婚しないと言い続けていたから、自分たちの爵位と領地を譲る相手をリストアップ済みだったとか。
しかもヘンリーさんを養子にする際にヘンリーさんの実父から土地を分けてもらっているので、自分たちとヘンリーさんの経済的な心配はない、と言ったらしい。
「あれ? じゃあヘンリーさんは貴族じゃなくなるの?」
「私は筆頭文官なので、すでに一代限りの男爵位は与えられています。貴族が複数の爵位を持っているのは珍しくありません」
「じゃあどうして目の下にクマができているの? 眠れないようなことがあったのでしょう?」
「寝る時間を削って調べ物をしているのです。何を調べているかは、今は言えません。申し訳ない。ただ、俺の縁談は問題なく断りました」
これ以上話せないことが伝わってくるきっぱりした口調だ。
クーロウ地区で美味しい料理を食べ、醤油やチリソース、甜面醤などにそっくりな調味料を大量に買い込んで帰ってくる間も、ヘンリーさんは考え事をしている様子。
こういうときに深追いしてもいいことなんてない。
私は帰宅して思うさまエスニック料理を作ることを考えて、初めてのお出かけがいまいちだったことは忘れることにした。
この日に買い込んだエスニックな調味料は私を幸せにしてくれた。醤油も日本のものとは少し風味は違うものの、私がエンドウ豆を変換して魔法で作った醤油よりも深い味わいと旨味のある醤油だった。
カツ丼の味が向上したのを、後日キリアス君が気づいた。
「あれ? 前より美味しくなってるよね?」
本物のカツ丼を知らないのに。他のお客さんは気づかなかったのに。君はなぜ気づくのか。
(君は味覚も天才なのだね)と思った。