42 ep.4【サラの思い】◆
『隠れ家』からの帰り道、グリド様は上機嫌で馬車の外を眺めている。
珍しいことに思い出し笑いまでなさっている。そんなグリド様を見て(よかった。本当によかった)と思う。
リヨルが閉じ込められ、ポーションを作り続けていた十一歳から二十三歳までの十二年間、私は彼女専属の世話係だった。私はリヨルの四歳年上で、子供が閉じ込められてポーションを作り続けていることが気の毒でならなかった。
リヨルの世話を始めたとき、彼女の部屋に長居することは禁じられていた。だから私はわざとモタモタ片付けをしたし、丁寧の上にも丁寧に掃除をした。そのわずかな時間にできるだけリヨルに話しかけた。リヨルは会話に飢えていた。
リヨルは体力と魔力の限界までポーションを作ったあとは、ベッドに横になっていつもグリド様が持ってくる魔法の書類を読んでいた。読むものがそれしかないとはいえ、異常に熱中していた。そして魔力が回復するとこっそり魔法の練習をしていた。
私は監視役でもあったから、グリド様が訪問してきた時は少し離れた場所で二人を見ていた。グリド様に対してリヨルは奴隷ではないと示すためか、グリド様が来ればリヨルは外に出してもらえた。
恋人と聞いていたものの、二人の関係が恋人でないのは一目瞭然だった。
(これはまるきり兄と妹だ)と思った。
グリド様からリヨルに渡されるのは、魔法の指導書の他に、まっさらな紙とペンとインクもあった。私はそれを主に報告しなかった。紙とペンが主に見つかって私が叩かれてもいいと思っていた。
リヨルが受け取る指導書と書き続ける紙の枚数はどんどん増えた。見つかれば「そんな力が残っているならポーションを作れ」と言われるのを見越して、最初はリヨルのベッドに隠していた。
けれど、量が増えて隠し場所に困った。二人で相談して、天井近くの換気口に隠そうとした。
私もリヨルも小柄だったから、机の上に椅子を重ねてそこに乗っても換気口の留め金を外すことができなかった。だから私がこっそり服の中に入れてリヨルの部屋から持ち出し、自分の部屋のタンスの裏側に紙を隠した。何が書いてあるのか、私には難しすぎて読めなかった。
リヨルが身ひとつで屋敷を放り出された一週間後、私は「実家に帰る」と嘘をついて仕事を辞めた。リヨルは二十三歳、私は二十七歳、グリド様は三十歳になっていた。
どこで何をして働いたとしても、ここにいるよりはましだと思った。
リヨルは「グリドさんのところへ行く」と言っていたから、私もリヨルに会うためにグリド様の屋敷へと向かった。わずかな着替えの下にリヨルが書いた紙を忍ばせてお屋敷を出た。誰にも見とがめられることはなかった。
「サラさん!」
訪問した家で、リヨルは泣きながら抱きついてきた。十二年間も世話をしていたのに、リヨルが泣くのを初めて見た。首に巻かれた包帯が痛々しかった。言葉が出ず、二人で抱き合って泣いていたら、グリド様が心配そうに私に尋ねた。
「君はここに来ても大丈夫なのか?」
「あんな屋敷は辞めてきました」
私がそう言うと、リヨルがグリド様を見た。すがるような眼差しだった。グリド様はその視線の意味をちゃんと汲み取ってくださった。
「よかったらうちで働かないか? 父には私から言っておく」
「ありがとうございます! 一生このご恩は忘れません!」
そう言って頭を下げると、リヨルが今度は嬉し泣きした。私も泣いた。リヨルの顔色は悪く瘦せていて、彼女がもう長くないのは誰の目にも明らかだった。
(最期まで私が世話をしてやりたい)
十二年間世話をしているうちに、私の中でリヨルは妹のような存在になっていた。
グリド様の実験でリヨルが消えた後も、私は解雇されることもなく現在まで使用人として暮らしている。
グリド様には何度も求婚された。
身分も立場も違いすぎたから断り続けてきたが、今ではグリド様と夫婦のように寄り添って暮らしている。それで十分だった。
リヨルが消えてから五十五年。実験が失敗して、グリド様がどれほど後悔しているか知っているのは私だけだ。世間は酷い噂を面白がって流した。この屋敷にいた使用人たちはグリド様を恐れて次々と辞めていった。今は通いの人間はいるものの、住み込んでいるのは私だけだ。
グリド様は「世間がなんと言おうが関係ない」とおっしゃって噂を気にしなかった。
世間の人々が悪意ある噂をどれだけ流そうとも、私は知っている。私のグリド様は優しいお方だ。
「旦那様、マイさんに会えてよかったですね。リヨルは幸せな人生を送っていましたね」
「ああ。これでもう思い残すことはなくなった」
「そんなことをおっしゃるのはおやめくださいませ。私、『隠れ家』で食べたいものがたくさんございました。どうか私をあのお店にもう一度連れて行ってくださいませ」
グリド様が驚いた顔で私を見る。
「お前が私に何かを願うのは初めてだな」
「はい」
「よかろう。毎日でも連れて行ってやる」
「毎日は多すぎます。週に一度、連れて行ってくださいますか?」
「ああ。そうしよう。私もそうしたい」
笑顔で話をしてくれたマイさんを思い浮かべる。
「マイさんは目鼻立ちがリヨルにそっくりでしたね。最初にお顔を拝見したとき、ギョッとしました。リヨルよりずっと背がお高かったですが、消える直前のリヨルを見ているようでした」
「ああ、よく似ていたな。マイは途方もない器の持ち主だったぞ。リヨルの魔力を大量に注がれてもなお、たっぷりと余裕があった。あの子がまだ習得していない魔法を教えてやりたいものだ」
私は思わずクスッと笑ってしまった。
「マイさんにそうおっしゃればいいではありませんか。魔法を習う気があるなら教えますよと伝えればいいのです。私たちはもう、いつ天に召されるのかわからないのです。遠慮している暇はありませんよ。教えたいのなら正直にそうおっしゃいませ」
「そうだな。サラ、お前はいつも正しい。そうしよう」
グリド様が急に生き生きとしたのを見て、私は微笑む。
グリド様はこの国一番の魔法使いだ。研究を第一として城の魔法使いにはならず、魔法の研究に人生を捧げてきた。
「この国一番の魔法使いになってほしい。それが私の唯一の楽しみだ」と言い残したリヨルの願いを忘れず、努力し続けていらっしゃる。
「旦那様、やりたいことがあるのは素晴らしいことですわ」
そう言うと、グリド様は私の手を取ってぽんぽんと優しく叩いた。
「そうだな。あの子に魔法を教えるのは、さぞかし楽しいことだろうな。だがその前にヘンリーの了承を得なければならん。あれに嫌われたくはない」
「ずいぶんヘンリー様をお気に召したのですね」
「私は優秀な人間が大好きなんだよ」
グリド様が嬉しそうで私も嬉しい。
リヨルは生きて、子を産み、マイさんが生まれていた。リヨルは遠いどこかで幸せを手に入れていた。
それで十分だ。
グリド様の長い長い夜は、ついに明けたのだ。
『隠れ家』でマイさんを見たときからずっと我慢していたが、もういい。遠慮なく泣くことにした。顔を覆って子供のように声を出して泣いたら、グリド様が肩を抱き寄せてくれた。
翌朝、グリド様の朝食を並べながら思い切ってお願いをした。
「グリド様のお気持ちがまだ変わらないのでしたら、どうぞ私を妻にしてください。この世を旅立つときは、グリド様の妻として旅立ちたいです」
グリド様は持っていたお茶のカップを静かに受け皿に戻すと、目を潤ませて何度もうなずいてくださった。
「私の気持ちが変わったことはないよ。やっと受け入れてくれるんだな」
「ええ。リヨルが幸せに生きていることを知って、考えを変えました。私もリヨルのように、勇気を出してこの手で幸せをつかみ取ることにしたのです」