4 ヘンリー・ハウラー
翌日の昼。ヘンリーは無事に『隠れ家』で昼食を食べることができた。
(今日も旨かったしマイさんはいつも通り優しかった。まあ、マイさんは客全員に優しいわけだが)
カフェ『隠れ家』を見つけたのは今から二ヶ月以上前のことだ。
◇ ◇ ◇
ヘンリーは鼻が利く。
昼食を食べる店を新規開拓しようとしていて嗅ぎ慣れない美味しそうな匂いに気がついた。
繁華街の裏通りの、更に奥に入った細い道は行き止まりだ。その行き止まりのすぐ手前に店があった。小さな看板に『隠れ家』と書いてあり、窓にはレース風のカーテンが引かれていて店内が見えにくい。一見の客は入りにくい感じの店だ。
(いい匂いがしてくるのはここだ)
城の食堂も不味くはないが、メニューが何年たっても変わらない。もう全てのメニューを食べつくし、何十周もしている。つまりは城の食事に飽きていた。だから新しい店を探して日々城の近くを歩き回っている。
この店から漂ってくる未知の匂いはヘンリーを惹きつけた。
勇気を出してドアを開けると、チリリンとドアベルが鳴り、「いらっしゃいませ」と若い女性が出迎えてくれた。
メニューを渡され、見慣れない料理名と説明書きを読んでいると、頼んでいない水が出た。
「これは?」
「ただのお水です。うちの井戸水、とても美味しいので」
(無料ってことだろうか。井戸水に金はかからないだろうが、グラスを洗う手間はかかる。お茶や果実水を頼もうとしていた客は水を飲んで注文をやめるかもしれない。店にとって得がないじゃないか。しかもこのグラスは透明で薄手の高級品だ。落として割られでもしたら、料理の代金を貰っても赤字だろうに)
そう思いながらメニューを読み、「甘口トマト味の麺」という料理を頼んだ。見慣れないメニューだが、トマトを使っている料理ならハズレがないだろうと判断した。ヘンリーはこの国で豊かに実るトマトが好きだ。
(裕福な平民の娘が道楽で開いている店なのだろうか。たまにそんな店があるらしいが)
料理を待っていたら「これはランチセットのサラダとスープです」と言って小さな器に入ったサラダと澄んだスープのカップを先に出された。飲んでみたら、スープには深い滋味が隠れている。
(これも無料? この女性は料理が好きで上手なのだろうが、商売は素人だ。原価計算はしているのかな)
そう思ったが余計なことは言わない性格だ。黙って小鉢のサラダを食べ、スープを飲んだ。サラダの温野菜は新鮮で歯ごたえがよく、かかっているドレッシングが食欲をそそる。
「甘口トマト味の麺です」
出てきた料理は初めて見るものだったが、いい匂いで見た目も美味しそうだ。
フォークで麺をすくって口に入れ、思わず動きが止まった。甘みと酸味のバランスがいいトマトのソース。贅沢に使われているベーコン。繊細に切り揃えられているピーマン。どれかひとつが欠けてもこの味にはならないと思った。
上にかかっている粉状のものはチーズだった。玉ねぎは柔らかすぎず硬すぎない。全てが最高の火加減で止まっている。何よりも麺が素晴らしい。小麦粉の香りと美味しさ。弾力のある歯ごたえ。
「どれも旨い……」
小さく声に出してから店主の女性を見ると、目が合ってにっこり微笑まれた。感動しているところを見られたのは少々恥ずかしい。自分が普段表情に乏しく、「顔はいいのに何を考えているかわからない。無表情すぎてちょっと怖い」と陰で言われていることは知っている。耳もいいのだ。
(店が空いていて静かなのは、疲れている身にはありがたい。昼食の時間をずらして来て正解だった)
さっき見たメニューをもう一度手に取って眺めると、下の方に『日替わり』というものがあった。
(こんなに旨いのだから当分は毎日この麺でいいなと思ったけど、日替わりがあるならこれも食べてみなければ)
ヘンリーの食い意地が俄然顔を出した。
「失礼、この『日替わり』にはどんなメニューがあるのですか?」
「日替わりのメニューを数量限定で提供しています。メニューは私の気まぐれで決まります。今日の日替わりはカツサンドでした。もう売り切れましたが、衣をつけてカリカリに揚げた豚肉に、ソースを塗って白パンで挟んだものです。それにも小さなサラダとスープがついています」
(それも美味しそうじゃないか!)
「そのカツサンドは、いつかまた日替わりに出るのでしょうか」
「はい。ご希望でしたら、カツサンドの材料が揃っているときにお声がけしましょうか?」
「いいえ、結構。他にも気になるメニューがあるので」
「承知しました。お好きなものをお好きな時にお召し上がりください」
(店主は優しくて愛想がいい。店は驚くほど清潔。旨くて静かで清潔で愛想がいい。最高の店を見つけてしまった。母さんはこんな美味しい料理を食べたことがあるのかな)
生まれてすぐに養子に出された身なので、実母にはなかなか会えない。そもそもヘンリーは実母の居場所を知らされておらず、養父母はヘンリーがたまに実母に会っていることを知らない。
実母を探し出したのは三年前だ。人を雇って見つけてもらった。見つかるまで、二年かかった。会ってみれば母は自分にそっくりな顔立ちで、かなりの事情を持つ異国出身者だった。その母は実父のことを頑として教えてくれない。せめてどういう経緯で自分が生まれたのかだけでも、と頼んで聞き出した話もぼんやりした内容だ。
「私は昔、洗濯係として働いていた時にあなたの父親に見初められたのよ。その人は仕事の合間に散歩をしていて私とバッタリ出会ったんだけど、ひと目で私を気に入ったらしいわ。私が事情持ちの身の上だから、身ごもったときによくぞ始末されなかったものだと思ってる。あなたの父親はそんな人じゃないけれど、周りの人たちが、ね」
母親は妊娠に気づいたとき、すぐに父に事実を告げたそうだ。その上で「迷惑をかけたくないから、もうあなたとは会わない。あなたとのことは誰にも言わないし、私はここの仕事を辞める。私のことは忘れてください」と伝えた。
だが父は母が一人で子を育てることを案じて、養子の提案をした。
母は生まれてくる子が貧乏人の子として食うや食わずの生活をするより、裕福な両親に育てられたほうが幸せだろうと納得してヘンリーを養子に出したという。
父親が頼んだのはハウラー子爵で、ハウラー子爵家には子がいなかった。養子を取ろうかという話が持ち上がっているのを、実父は知っていたのだ。ハウラー子爵夫妻は善良な人間だが、事情のある赤子を養子にする以上はそれなりの見返りがあったはずだ。
だが養父母はヘンリーを可愛がってくれた。そこに見返り云々の損得勘定は感じられなかった。そんな人間を養子先に選んだヘンリーの実父は、人柄を見抜く力はあったわけだ。父はとても優秀な人だ、と母は言っていた。
父親譲りの頭脳明晰さと母親譲りの美しい外見という、「いいとこ取り」で生まれたヘンリーは、優秀な頭脳を武器に二十五歳の若さで筆頭文官にまで出世した。常に冷静沈着を心がけて敵を作らないようにしている。用心のおかげか、今のところヘンリーの出自に関する秘密は知られていない。
(生まれたときから大きな秘密を背負わされ、それを隠しおおせている自分は運がいいのか悪いのか)
ヘンリーはいつになく感傷的に過去を振り返っている自分に気づいて苦笑した。
◇ ◇ ◇
初めて『隠れ家』を訪れた日のことを懐かしく思い出しながら城に戻った。大部屋にある自分の席に着くと、すぐに部下が書類を手に近寄ってきた。
「ヘンリーさん、例の件で会議にヘンリーさんも出席するようにと、先ほど連絡がありました。もう少ししたら始まります」
「例の件の会議に? 一介の文官を参加させて、何を言わせたいのだろうね」
「ヘンリーさんの頭脳を頼りにしているのでは?」
「魔法使いの考えることは魔法使いにしかわからないのに。場所は? 第一会議室か。では行ってくるよ」
無理難題を言われてもいいように資料を読み直したかったが、その時間もない。
「例の件」とは筆頭魔法使いのジュゼル・リーズリーが開発途中の魔道具と一緒に姿を消した件だ。魔法部のリーダーが行方不明なのも事件だが、国家予算をつぎ込んで作っていた魔道具が消えたことは大事件だ。呆れたことに、魔導具の設計図はジュゼル・リーズリーの頭の中にしかないという。
(なんで紙に書き出しておかないんだろう。魔法使いたちはそのあたりがだらしないんだよなぁ。結果的に魔法が使えるようになればいいと思っているのだろうが、国から資金を与えられていることを自覚してほしいものだ)
ヘンリーは平穏が好きだ。昨日と同じ穏やかな今日が来ることを望んでいるし、予定通りに生活したい。毎日同じように暮らしたいのだ。ただし、食事は別。食事はなるべく旨いものを食べたいし、同じ味の繰り返しは避けたいと思っている。
第一会議室に到着し、ドアをノックした。
「ヘンリー・ハウラー、入ります」
会議室には国王を含めたお偉いさんたちが集まっていた。