33 モツ煮とドングリ
客席と厨房の間にのれんを下げた。のれんをめくって露骨に覗き込もうとしない限り、厨房の中は見えない。
「これでよし」
ソフィアちゃんは来ていない。しばらくカリーンさんが家で面倒を見るそうだ。私もそれがいいと思った。預かりたいのは私の勝手だもの。
ぼちぼち客足が戻ってきたが、大雨の前に比べたら暇だ。
お昼を過ぎ、午後二時になってもヘンリーさんは来ない。忙しいのでしょうね。私は休憩中の札を下げて、近くのブナの木のところまでドングリを拾いに行った。
ドングリを拾い、小袋が一杯になったところで市場に向かう。今日も差し入れを持っていくつもりで材料を買い集めた。今日はモツ煮を差し入れるつもりだ。本当なら八丁味噌でこっくりと煮込みたいところだけれど、この国にはこの国の味がある。この国のモツ料理はニンニクとショウガ、赤ワイン、岩塩、鶏ガラのスープなどを使う。
大量のブタのモツを買って木製キャリーケースに入れて運んだ。
鍋の蓋と本体をパン生地で閉じながらぐるりと一周させる。圧力をかけてとろけるようなモツにすれば、子供やお年寄りも食べられる。パン生地は様子を見て一部剥がせばいい。
この国のモツ料理は(いつ飲み込めばいいかな)と迷うタイプ。日本にもそのタイプがあったけど、私は柔らかいモツ煮が好きだ。
鉄鍋で圧力鍋を作り、大きな寸胴に二つ分のモツ煮が出来上がった。口直しのニンジンとカブのピクルスもたくさん作った。ひと仕事を終えて自作のコーヒーを飲んだのだが。
なんだろう、喫茶リヨのコーヒーとは味が違う。自分が知っているものを忠実に再現できるわけじゃないのだろうか。
荷車に料理を全部載せて出かけようとしていたらヘンリーさんが来てくれた。(ああ、この人疲れているわ)と思う顔をしている。ちゃんと寝ているのかな。
「ヘンリーさん、料理を運ぶために何キロも往復するのは大変でしょう。私は好きでやっていることですから、ヘンリーさんは貴重な昼休憩を使わなくてもいいんですよ?」
「俺は助手として好きでやっていることですから」
そう言われると何も言えず、でもなんだかモヤモヤした。
「迷惑ですか?」
「迷惑で言っているんじゃありません」
「あの、この匂いは? 香ばしい匂いがする。初めて嗅ぐ匂いだ」
「コーヒーの香りです。元の世界で毎日飲んでいたものを作ったんですけど、なんだか微妙に雑味があって、どうしてかなと思っていたところです。飲みますか? 苦いですが」
「ぜひ」
コーヒーを差し出すと、ヘンリーさんはじっくり香りを確かめてから飲んでくれた。
「苦いですね。でも香りがいい」
「本物はもっとすっきりしたコクがあるんですけどね。ドングリじゃだめなのかな」
「ドングリを材料に使ったんですか?」
「はい。コーヒー豆に変換したんだけど、なんだか味が少し違うんです」
ヘンリーさんが何か言いたげな目で私を見る。
「なんでしょう。また私が知らないことがあるんでしょうか」
「マイさんは子供の頃、ドングリで遊びましたか?」
「遊んだと思います。でも、そんなに熱心に遊んだわけじゃ。どうして?」
「少々言いにくいんですが……」
「やだ、なに? 怖い話? この世界のドングリは毒があるなんて言わないですよね?」
「まさか」
しばらくためらったヘンリーさんが、妙に優しい顔で話し始めた。
「子供の頃、たくさんのドングリを家に持ち帰ったことがあります。そのまま忘れて机の上に置いていたら、しばらくして侍女たちが悲鳴を上げる事件がありました。養母に『ドングリで遊んでもいいが家の中に持ち込んではいけない』と注意されました。ドングリは栄養がありますからね」
十秒ぐらいしてから何を言われているのか理解して、私は流しに駆け寄ってペッ! とコーヒーを吐き出した。貴族のご令息の前だけど、気にしていられなかった。
全然知らなかったんだけど! たまに穴が開いているドングリがあるな、とは思っていたけど!
何度も丁寧に口をゆすいだけれど、今さらですよ。さんざん飲んでしまったもの。
そうか。純粋なドングリだけなら、また風味が違うのかも。試してみよう。
「勉強になりました。ありがとうございます」
「マイさんでも知らないことがあるんですね」
「知らないことだらけです。私が詳しいのは料理ぐらいですから。それと、人の身体について通信教育を受けたことがあるぐらいで」
「通信教育とは?」
通信教育についてざっくり説明した。
「おばあちゃんが『費用は私が持つ。身体の仕組みについての知識があれば、この店や建物を手放すことになっても何かしらの職業に就けて食いっぱぐれることはないから』って。でも、私は店のことが楽しくて、勉強はなかなか進みませんでした。ひと通り勉強したものの、なんの経験もないままこちらに来てしまいました。ヘンリーさん、お昼は?」
「食べてきましたよ。さあ、出発しましょう」
夕方の道を歩きながら、ヘンリーさんが何気ない感じに質問した。
「厨房を覗く人間がいるんですか?」
「ああ、あの布ですか? いえ、そういうわけでは」
「忙しい時にあの布は少々邪魔なはずです。何かあったから、邪魔を承知で取り付けたのでは?」
「ええと、ごめんなさい。嘘をつきたくないから、あの布の理由は言えません」
「そうですか。すみません、立ち入ったことを聞きました」
相変わらず鋭い人だなと感心した。そしてソフィアちゃんのことは言うわけにいかない。
「ごめんなさい。言えないんです」
「いえ。それともうひとつ、立ち入ったことを聞くのは承知の上で、聞いてもいいですか?」
「はい、なんでしょう」
「洪水が起きているときに、マイさんの恋人は駆け付けてこなかったでしょう?」
なんで私に恋人がいる前提? そう言えば大雨の時、「一人なのか」って聞いていたね。
「マイさんの恋人は、マイさんを大切にしてくれていますか?」
「私、恋人はいませんけど? なんで私に恋人がいると思うんです?」
「あれ? 『酒場ロミ』で春待ち祭りの話をしていましたよね?」
「しましたね。春待ち祭りを知らなかったから、教えてもらいましたね」
「そのときに『恋人と一緒に楽しむ』って言っていましたよね?」
いや、言っていないね。ロミさんがそれっぽいことを言ったから、適当に相槌を打っただけよ。
「あれは、春待ち祭りを知らない私のことをどう思われるのか心配だったから。ハイハイ言って話を合わせただけです」
「……ぇぇぇ」
すんごく小さな声でヘンリーさんが驚いている。この話の流れはもしや私のことが好きということなのかな。それは自意識過剰かな。
だけど思い出せ私。たしか年末ぐらいにヘンリーさんを「好きでもない女に振られた男」にしちゃったじゃないか。あの時ヘンリーさんはなんて言ったっけ。
たしか、たしか、『自分を異性として意識しているわけではないのはわかっているから安心して』みたいなことを言っていたよね。安心しろってことは、『自分もあなたをそういう目で見てないから安心しろ』ということでは?
だあっ! わからぬ!
私が黙り込んだら、ヘンリーさんも黙り込んだ。ここで黙り込むってことは「じゃあ、俺はどう?」っていう気持ちはないってことよね? もう一度ヘンリーさんを好きでもない女に振られた男にするのは、さすがに食堂の店主として失格ですよ。
『喫茶リヨ』のお客さんたちは、みんな「マイちゃんはいい人いないの? じゃあ俺が立候補しちゃおっかな」って軽く言っていたよね? 今だって助手としてって言ってるから、善意で来てるってことよね?
正直、ヘンリーさんの気持ちも自分の気持ちもはっきりしないから、ここは余計なことを言うまい。
この日、モツ煮が大好評だったので、また作ろうと思いながら帰った。
本日は書籍『王空騎士団と救国の少女』2巻の発売と、コミック『小国の侯爵令嬢は敵国にて覚醒する』の連載スタート日です。コミックの方は一挙にたくさん読めるそうですよ。
詳しくは守雨のツイッターhttps://twitter.com/shuu_narouで。