31 クルクル回る
私の差し入れはあっという間になくなった。
ポーションは国から提供されたものと篤志家からの寄付でたくさん集まっていた。それらの箱の隣にヘンリーさんが「これも篤志家から受け取りました」と言ってさりげなく並べて置いた。
現地には大きなテントが張られ、医師も来ている。具合の悪い人や怪我をしている人がテントに集まっていた。
対応の早さと手慣れた動きに感心していたら、ソフィアちゃんとカリーンさんが料理のお礼を言いに来てくれた。
「大変美味しくありがたく頂きました。料理どころじゃなかったので本当に助かりました」と頭を下げるカリーンさん。ソフィアちゃんはいつもより元気がなくて下を向いている。
「流された家が数軒あった以外は家の中に泥水が入っただけでした。流された人は一人もいないんですよ」
「それは不幸中の幸いでしたね」
「私たちの一番の財産は自分の命ですから。あの雨の最中に、みんな早々と避難したんです。今回は魔法使い様がいて下さって助かりましたけど、真冬にあんな状態だったでしょう? これは老人と子供から倒れるなって覚悟していました。結界を出していただけて本当にありがたかったわ」
カリーンさんは後片付けで疲れている様子。ソフィアちゃんは下を向いて表情が暗い。
「ソフィアちゃんは元気がないねえ」
「フィーちゃん、マイたんのおうち行きたい」
「ソフィア! またそういうわがままを言う!」
ソフィアちゃんが立ち話をしている私に抱きついた。
「ソフィアちゃん? どうした?」
「ばあばが怒るの」
「お約束を守らないから怒られるんでしょう? さあ、帰るわよ」
ソフィアちゃんは背中を丸め、うつむいて帰って行く。ドナドナの曲が脳内に再生されるような萎れっぷりだ。三歳児に約束事を教えるのは大変なんだろうね。頑張って、カリーンさん、ソフィアちゃん。
ぬかるむ道を荷車を引いて帰る。
行きの重い荷車はヘンリーさんが引いてくれた。何度もぬかるみに車輪がはまり込んで往生したが、そのつどヘンリーさんが持ち上げて抜け出させてくれた。周囲に人がいて魔法で道を固めるわけにもいかなかったから助かった。
「こうなると思って駆け付けたのです」
「助かりました。ありがとうございます。さすができる男は違いますねえ」
「そんなこと……」
照れるヘンリーさんは可愛らしく、店に来始めた頃の「クールで有能な文官様」のイメージからはだいぶ変わった。
家に到着し、これからまだ仕事だというヘンリーさんと別れた。まずはお風呂に入った。柑橘の皮をたくさん浮かべたからいい香りだ。
市場で売られている柑橘類は日本のものほど甘くないし種が多いけど、私はありがたく実も皮も使っている。実はジュースに、皮は干してお湯に浮かべて使う。
汗が出るまでゆっくりお湯に浸かってから出た。
バスローブ姿で髪を乾かしていたら、小さくドアをノックする音。遅い時間だったから、まずはカーテンを少し開けてドアの向こうに誰がいるのかを見た。
「うそ!」
慌ててドアを開けた。ソフィアちゃんが立っていたのだ。しかも真冬なのにコートも着ていないワンピース型の寝間着姿だ。
「どうしたの! お父さんは? おばあちゃんは?」
「フィーちゃん一人で来た」
「こんな夜遅くに! そんな薄着で!」
思わず抱きしめて持ち上げた。冷えた身体を抱き上げるとみっちり重い。抱っこで運ぼうとしたけれど、その重さに三歩で諦めて下ろした。三歳児って、こんなに重かったのか。十五キロぐらいはありそう。この重さを背負って左官仕事をしていたディオンさんはすごいね。
「とうたんきやい。ばあばもきやい」
「嫌いなんて言ったら、お父さんもばあばも泣いちゃうよ?」
これ、連絡手段がないからこちらからソフィアちゃんの家に行くしかない。もう夜も遅いし寒いのに。幼女連れの夜道は危険な気がするけど、このままにはしておけない。
「ソフィアちゃん、私と一緒におうちに帰ろう?」
「やだ。フィーちゃん、フィーちゃん、もうヤなの」
「なにがあったの?」
両手をグーにして、口を固く結んで答えない。目が涙で潤んでいる。預かっているとき、こんなことは一度もなかった。聞き分けのいい子だと思っていたけど、こんな面もあるのか。
「きっと今頃お父さんが心配して探し回ってるわよ?」
「きやいだもん」
ソフィアちゃんは店の隅にある二人掛けのソファーに駆け寄った。そしてソファーによじ登り、ダンゴムシみたいに丸まったまま動かない。私はこの子を抱っこで連れ帰るのは絶対に無理だ。
「ソフィアちゃん、これから私と一緒に……」
「おなか痛い」
「えっ」
ソフィアちゃんがおなかを押さえている。
「どのあたりが痛いの?」
「ここ」
下っ腹が痛いらしい。二人掛けのソファーに仰向けにさせた。子供の頃の私が腹痛を訴えると、お母さんもおばあちゃんもおなかを「のの字」にさすってくれた。それを思い出して真似をしたが、それも「痛い」と言って嫌がる。
「おなか痛い。痛い」
みるみる涙が目の中で盛り上がる。痛いのは本当のようだ。どうしよう。ポーションを作って飲ませる? あの不味いのを飲んでくれるだろうか。おなかが痛いなら余計に無理だろうなあ。
途方に暮れながらソフィアちゃんの背中と腰をさすっていたら、服の下でなにかがモゾモゾと動いた。
悲鳴を上げそうになったが唇を噛んで堪えた。
ゆったりしたワンピースの下で何かが動いている。怖い怖い怖いっ! 心臓をバクバクさせながら見ていたら、ワンピース型寝間着の裾を持ち上げて尻尾がピョコッと現れた。持ち上がったスカートの裾から出ていたムチムチの腿にみるみるうち毛が生えてくる。身体の形も変わっていく。初めて見る変身に圧倒される。
(これって……これって)
「服、きつい。きついよぉ」
「わかった。わかったよ。今脱がせるから泣かないで」
肩と腕が服に引っ張られて身動きが取れないらしい。肩の関節を傷めないよう気をつけて服を脱がせた。ゆったりした寝間着じゃなかったら、脱がせられなかったかも。
大きさが三歳児サイズだけど、太い脚で丸い頭の子犬だ。三頭身くらいか。
黒白茶色が混じっていて、将来絶対にかっこいい美犬になる子犬。
前脚の明るい茶色が、人間のときの髪の色とおんなじ子犬。
ソフィアちゃんが子犬の姿で切羽詰まった感じに訴える。
「おなか痛い。うんちっち出る」
「ええとええと、どうしたらいい? ちょ、ちょっと待って! 待って待って! お外行こう。行こうね!」
ピィピィと鼻を鳴らし、床の匂いを嗅ぎながらクルクル回り始めた。
うんちっちの場所を探してる! そういえばこの子、おむつ取れたてだった!
モフモフの体を抱え上げて裏庭に走った。
用を足して腹痛が治まったらしい犬ソフィアちゃんが、今度はどんどん人間に戻っていく。なにそれ早い! ヘンリーさんはそんなに早くなかった。この寒空の下で裸になっちゃうじゃないか。
荷物のように脇に抱え、今度は家に駆け戻る。大至急で服を着せた。
ゼェゼェ言っている私とスッキリした顔のソフィアちゃん。
(おばあちゃん、この世界は驚くことがありすぎるよ)
「ソフィアちゃん、犬型獣人だったんだね」
「ジュージン?」
「そんな言葉は知らないか……」
「ワンワンになると、ばあばが怒る」
ああ、そういうことか。こんな可愛い子が外で子犬になったり人間に戻ったりしたら、それは危険すぎる。連れ去られちゃうわ。家族が心配するのも無理はない。
「ばあばがダメって怒る」
「それは怒っているんじゃないよ。心配しているの」
「わざとじゃない!」
「そうだねえ。わざとじゃないねえ。それもわかる」
早く家に戻さないと騒ぎになる。いや、もうなっているかも。ソフィアちゃんが半目になってうつらうつらし始めた。やめて。
「ソフィアちゃん、寝ないで。まだ寝ないで。私と一緒にお家に帰ろう?」
肩をゆすっても白目の薄目を開けるだけ。返事をしない。幼児って、こんなにいきなりスイッチが切れるんだ? たった今、私と会話してたよね? 嘘みたい。本当に寝ちゃったわ。
さて。この子を荷車に乗せて運ばなくては。急がないとご家族が気の毒だ。