3 常連の文官さん
王都でカフェを開いてから二ヶ月がすぎた。今は十月。穏やかな秋本番、といったところだ。
私はウェルノス王国の王都の片隅で、ひっそりとカフェを営んでいる。繁華街の端っこの、路地の行き止まりにある店。とても目立たない場所なので、店名を『隠れ家』にした。
魔法を使えば働かなくても豊かに生きていけるだろう。けれど、知り合いもいないこの世界で誰とも関わらずに食べて寝て消費するだけの生活をしていたら、早晩心を病むのは見えている。
人間には生きる張り合いと言葉を交わす相手が必要だ。
ドアベルの音がして、お客さんが入ってきた。
開業した直後から通ってくれているお城勤めの文官さんだ。かなり体格がよくて、身長は百九十近いし全身にほどよく筋肉がついている。年齢は二十五歳の私と同じくらいだろうか。
サラサラの黒髪。瞳はエメラルドグリーン。すんなりした鼻筋。やや薄めの唇。お顔がたいそう整っている。所作は上品だしきれいな言葉遣いをする。たぶんいい家の出身なのだと思う。
「ヘンリーさん、いらっしゃい」
「こんにちは。今日のランチをお願いします」
「かしこまりました。今日の日替わりは豚バラ肉の柔らか煮込みをのせたお米です」
ヘンリーさんはコクリとうなずくだけ。スンとした表情でいつものカウンターの端の席に座った。ヘンリーさんは無駄話をしないし、話しかけても笑顔を見せない。感じが悪いわけではないが、基本無表情で無口だ。
今日のランチは丼物だ。この世界にも豚肉の煮込みはあるし、お米もある。だけど丼物はない。長粒米とジャポニカ米の中間の形のお米を、この国では茹でてお湯を切ってパラパラに仕上げ、野菜としてスープの具や肉料理の付け合わせに使っている。豆や芋やカボチャと同じ扱いだ。
私はそれを日本風に厚手の鍋で炊いて主食として出している。この王都の人々にとっては馴染みのない食べ方らしい。
厚手の鉄鍋で炊いたお米は白く、もっちりしている。それを深皿に盛り、肉の塊をのせ、濃い煮汁をかける。最後に緑色のネギと香草を刻んで散らす。ショウガとニンニクを効かせて煮込んだ豚肉は、ナイフを使わずにスプーンだけで崩して食べられる柔らかさだ。
ヘンリーさんがコートを脱ぎ、丁寧にたたんで隣の席に置いた。コートの襟には銀糸で三つの星が刺繍してある。三つの星はこの国の国旗のモチーフだ。下半身にぴったり寄り添う細身のズボン。ひざ下までのブーツ。文官さんの制服はかなりかっこいい。
ヘンリーさんはゆっくり食べる。スプーンを使って少しずつ、上品に。
たまに目をつぶって味や香りを堪能している。私の料理が大好きと見た。
ヘンリーさんは一切音を立てずにお米も肉も残さず食べ終わると、わずかに唇の両端を持ち上げる。あれは微笑みだと思う。気づかれないようにその笑みをチェックして、私はグッと拳を握る。今日も満足してもらえたようだ。
ヘンリーさんが食べ終わるのを見計らってお茶を出す。麦茶に似たお茶は、ウェルスノ王国の庶民のスタンダードなお茶だ。王都の茶葉店には、お高いけれど紅茶もある。でも、この手の庶民的な店で出すものではないことを私は食べ歩きで学んだ。
ヘンリーさんは猫舌で、すぐには口をつけない。冷めるのを待っている。
「マイさんも一緒にお茶を飲みませんか? ご馳走します」
「では私もお茶をいただきます。でも、お代は結構ですよ」
笑顔でそう答えると、ヘンリーさんは無表情に私を見た。
「売り上げに貢献したかったのですが。今日もお客さんが少ないけれど、商売は順調ですか?」
「経営は順調です。この時間はあまりお客さんが入らないのです。心配していただき、ありがとうございます」
「そうですか。順調ならなによりです。ここが閉店したら、私が困るものですから」
ふふ。ヘンリーさんは相変わらずスンとしてる。
この人はいつも午後の二時頃に来店するから、店にお客さんがいないことが多い。この店に通うお客さんは平民ばかり。昼間にお茶やお菓子をのんびり楽しむ平民はこの裏通り界隈にはいない。みんな働いている。今日もこの時間のお客さんはヘンリーさんだけ。
店の経営を心配してくれるヘンリーさんには申し訳ないのだけれど、この店はそれほど必死になって流行らせるつもりはない。
魔法のおかげで生活費の心配はないから、そこそこ客が入ればそれで十分だ。気がつくと文官さんが真顔で私を見つめている。
「マイさん、どうかしましたか?」
「あっ、いえ。仕事中にぼーっとして失礼しました。明日のランチは何にしようか考えていて」
「そうですか。では私はこれで。明日も来ます」
「お待ちしています」
ヘンリーさんはいつも食後にお茶を飲みながら二十分ほどぼんやりして、それから帰っていく。
お城の文官さんというのはどのくらい忙しいのだろうか。いつも少し疲れて見える。忙しいだろうに、ほぼ毎日店に来てくれる。ありがたい。
ヘンリーさんが帰ってからは、夕方の忙しくなる時間まで魔法の練習だ。
最近の私は毎日手探りで魔法の腕を磨くのに忙しい。私の頭の中には膨大な知識があるが、まだまだ使いこなせていない。例えて言うなら、英単語やフレーズを山ほど覚えているけれど、どの場面でどの単語を使えばいいのか全然わからない、って感じだ。
台所の流しを見つめ、蛇口からお湯が出る様子を強くイメージして呪文を唱える。
「温水シャワー洗浄。七十度のお湯で」
そんな魔法はおばあちゃんの知識にはない。私が自分の知識とおばあちゃんの知識を合体させたものだ。
小さな入道雲が石で作られた流しの中に現れた。手のひらくらいの大きさの入道雲は、油汚れを石鹸であらかた落としてある食器に熱い雨を強く降らせる。皿やカップに残っていた石鹸の泡が、みるみるうちに洗い流されていく。流し終えたら入道雲を消し、次は衛星画像で見たのとそっくりの、だけど大きさは直径十五センチくらいの台風を出した。
「五十度の温風」
ミニサイズの台風が流しの中で温風を吹き出す。食器がどんどん乾いていく。数分で流しも食器もピカピカになった。魔法は便利だ。私みたいな駆け出しの魔法使いでも、十分に役立てることができる。
私は本来ならとっくにあの世に旅立っていた。おばあちゃんが私をこの世界に送り出してくれたおかげで、こうして健康な体で生きている。今の人生は「おまけ」であり思いがけない「贈り物」だ。
おばあちゃんは笑って生きろと言って送り出してくれた。でも、私だけじゃなく他の誰かも笑顔にできたらもっと素敵だと思っている。
◇ ◇ ◇
その頃、ヘンリーは一人残って仕事をしていた。書いていた書類を全部重ねてから立ち上がる。
「よし、今日はこれで終わりにしよう。ああ、腹が減ったな」
もう鐘が七回鳴った。宿舎の食堂は片づけを始めているだろう。今から食堂の使用人を働かせるのは気の毒だ。そして『隠れ家』も閉店の時間だ。閉店前だとしても、日に二回通うのは気が引ける。
「さて、夕飯をどうにかしないと」
ヘンリーはマイの作る料理が大好きだ。今日の日替わりはなんだろうと思いながら店に向かう。そんな自分に気づくたびに(俺は彼女が作る料理が好きなのであって、決してやましい気持ちで通っているわけではない)と、誰に聞かせるわけでもなく言い訳をする。
そして言い訳をするそばからマイの明るい笑顔、艶やかな髪やきめ細やかな肌を思い浮かべてしまう。
(何を考えているんだ俺は。誰かを好きになる資格なんて俺にはないのに。彼女だって俺がどういう人間か知れば、怖がるか気持ち悪いと思うに決まっている。やめておけ。何も期待するな。彼女の笑顔を見られて、彼女が作る料理を食べられれば十分幸せだ)
ヘンリーはランプを消して、真っ暗な大部屋を後にする。端正な顔にはなんの感情も浮かんでいない。ヘンリーは城を出て繁華街に足を向けた。道行く人々の中には若い男女の二人連れも多い。自分の手に入らぬものをごく自然に手に入れている人を羨んだ時期もあったが、いまはほろ苦く眺めるだけだ。
「明日の昼には、また『隠れ家』に行ける。待っていれば、明日はまた来る」