29 雨
このウェルノス王国は乾燥した気候で、私はまだ長雨を経験したことがない。夏に夕立みたいな雨が降ったけれど、時間も短かかったし回数も数えるほどだった。
冬にこんな強い雨が降るのね、とのんびりベッドの中から雨音を聞いていた。しかし、しばらくうとうとしていても雨音は激しくなるばかりだ。もはや雨音というより地響きみたいな音になっている。
「待ってよ。これちょっと異常じゃない?」
小やみになるかと思ったけれど、ドドドドという恐怖を感じるような雨音は強くなる一方だ。さすがに不安になってカーテンを開け、窓の外を見た。
「うそ……」
真っ暗な外を見るためにランプを窓に近づけると、外は雨で白く煙っていた。うちの屋根から滝のごとく雨が落ちている。道はと見下ろすと、わずかな傾斜に従って雨水がゴウゴウと流れている。
この家はお城と比べるとだいぶ低い場所にある。道の補修で歩き回ったからこの辺りの地形は覚えたが、ここは平民が住む地区の中では少しだけ高い場所だ。
「でも……ソフィアちゃんの家は川の近くって言ってたわよね」
この世界の治水はどのレベルなんだろう。川が氾濫したりするのだろうか。するよね? ディオンさんはソフィアちゃんを連れて避難しているだろうか。そもそも避難場所があるのだろうか。
心配して見ていると、急流に変わってしまった大通りを歩いている人影らしきものがいくつか見えた。こんな雨の中、どこへ行くのだろう。
そのうちの一人が我が家に向かってくる。
「あの背の高さ……まさかヘンリーさん?」
慌ててガウンを羽織り、階段を駆け下りた。私が店のドアを開けるのとヘンリーさんがたどり着くのが同時。ヘンリーさんは全身がぐしょ濡れだ。
「どうしたんですか! 早く中に入って!」
「鐘の音、聞こえてますか?」
言われて耳を澄ました。
「ああ、なんか鳴っていますね。雨の音が酷くて気づきませんでした」
「そうじゃないかと思った。マイさんは今、一人ですか?」
「そりゃ夜中なので誰も来ていませんけど。なんで?」
「こんな時に来ないなんて、どういうつもりなんだ」
誰を怒っているのか。ご近所さん?
「ヘンリーさん? 誰のことを言っているの?」
「今その話はやめましょう。延々と罵ってしまいそうだ。落ち着いて聞いてください。堤防が決壊したんです。ここは洪水の被害は受けないと思うけど、用心はしたほうがいい。この家は古いから屋根から雨水が入り込んだら崩れるかもしれない。今ごろ、低い土地の住人はみんな高台に避難してるはずです」
「じゃあ、私もすぐに着替えて行きます」
「そのほうがいい。高台まで案内します」
この世界には撥水性のレインコートなんかない。ヘンリーさんが着ているのは分厚い革のコートだ。
「濡れないように結界魔法を使います」
「俺たちの周囲だけ雨が降らなかったらバレますよ」
「いい方法があるんです」
例の煙突つきステルス防犯ウエア状に結界を張った。煙突は雨が入らないようにTの字型だ。ヘンリーさんが私の全身を眺めている。
「これはまた変わった形の結界ですね……」
「夜道を安全に歩けるように考えたんですけど、こんな使い方をするとは思いませんでした。さあ、避難場所まで行きましょう」
歩き出してから少しして、雨音に負けないようにヘンリーさんが大きな声で話しかけてきた。
「これ、すごいですね。この雨でも全く濡れない。魔法部の人間に提案しても?」
「ヘンリーさんが思いついたことにしてくれるなら」
「ではそうします。ところでマイさん、あなたの頭の上で煙突が前後左右に大きく揺れていることに気づいてます? こう、バヨンバヨン、みたいな感じですが」
「揺れてました? 重さがないから気づきませんでした。え、バヨンバヨン? そんな滑稽な感じですか?」
「いえ、その、愛らしい感じです」
そう言いつつ、ヘンリーさんが必死に笑いを堪えてる。えええ。頭の上で煙突を揺らしながら歩く二十五歳はそんなに面白いのかしら。ヘンリーさんの結界煙突は全然揺れてない。なんで?
しばらく歩いてたどり着いた場所は、本当にただの高台だった。さすがに多くの人がいるから濡れていないことに気づかれないよう結界を消した。あっという間に全身がぐしょ濡れになる。とんでもなく寒い。
避難場所の広さは幼稚園の園庭ぐらいか。石のベンチはあるが建物どころか雨宿りする屋根もない。それでも川の水に流されるよりましってことだろう。みんな雨避けに布を被っているが、この雨じゃほとんど効果はないだろう。
ランタンを持っている人がところどころにいるから、うっすら広場の様子が見える。
みんな自分の身体を抱くようにして寒さに耐えている。老人も幼児も赤ちゃんもいる。水で流されなくても低体温症で死ぬ人が出てくるんじゃないだろうか。
ヘンリーさんの服を引っ張って、雨音に消されないように耳に口を近づけて話しかけた。
「この面積で試したことがありませんけど、結界を張ります」
「しかし……」
「このまま知らん顔はできないもの。もし結界を張ったのが私だってばれたら面倒なことになるでしょうけれど、この暗さだから大丈夫だと思います」
おばあちゃんに貰った力を自分のためだけに使うなんてこと、おばあちゃんだって望まないはず。
私の顔をジッと見ていたヘンリーさんがうなずいた。
「俺の背後でこっそりできますか?」
「こっそりもなにも、無言で念じるだけですから」
「そうでしたね。ではどうぞ。マイさんが疑われたら、俺がなんとかします」
高台を眺めながら広場全部を覆うイメージで魔力を放出した。キラキラ光る結界がドーム状に現れた。ところどころに換気用のT字型煙突を付けた。初めての広さだったけれど、問題なく結界を張れた。
「あれ?」
「なんだ?」
「いきなり雨が止んだのか?」
「いや、止んでない! 見ろよ!」
ドーム型の結界に沿って滝のような雨が伝わり落ちていく。結界に恐る恐る触れた人が「ここになんかある! 見えない壁があるぞ!」と叫んだ。それを聞いた人たちが結界に駆け寄って触り始める。
「なあ、これって結界ってやつじゃないのか? ここに魔法使い様がいるってことだな?」
「きっとそうだ。魔法使い様が俺たちを助けてくれたんだ」
「ありがたい。これでもう雨に打たれずに済む」
全員が嬉しそうな顔になった。そして一斉にキョロキョロと魔法使いを探し始めている。平然としている人がいないから(私もキョロキョロして演技しなきゃ)と思ったのだが。
ヘンリーさんがコートのボタンを外し、コートの中に私を包んだ。
「ええと?」
「俺は体温が高いので。このほうが冷えません」
「ああ、そういうことでしたか」
さて、次は温風を出してみんなを温めなくては。
(温風、五十度。いや違うね。食器じゃないんだから四十度? ドライヤーは百度くらいよね? ええい、わかんないから四十度で!)
ドーム型の結界の天井部分に小型の台風を出した。差し渡しは十メートルくらいの渦を巻く白い雲。それに気づいた人々がまた不安そうな顔になった。
「あれはなんだ?」「怖い」と怯えた声があちこちから聞こえてくる。大丈夫。温風を出すだけですよ。
「温かい風が吹いてくるぞ!」
「ああ、温かい。助かる!」
怯えた顔から再び明るい顔に変わっていく。中には「魔法使い様! ありがとうございます!」と大声を出す人もいる。
(よかった。笑顔になってもらえた。おばあちゃん、おかげで人助けができたよ!)
ドーム型結界の中がジワリと温まる。冷たく濡れていた服が少しずつ乾いていく。あとはぐちゃぐちゃにぬかるんでいる地面を整えよう。このままじゃ足元から冷える。
心の中で地面が乾燥しつつ平らになっていくところをイメージしながら魔力を放つ。最近、夜に土魔法を連発しながらウォーキングをしていたことが役に立つ。全然疲れない。
地面の変化にみんなが気づいて、ザワザワしている。これで立ち続ける必要がなくなりましたよ。腰を下ろして休んでね。
「マイたん!」
ドン! と小さな子供が抱きついてきた。ソフィアちゃんだった。ヘンリーさんのコートに包まれている私を不思議そうに見ているから、慌ててヘンリーさんから離れた。
「ソフィアちゃん! よかった。無事だったのね」
「とーたん! マイたんいた!」
「あっ、ディオンさん」
人々の間からディオンさんが近づいてきた。
「マイさんも避難していたんですね。これ、どういうことですかね。みんなこの中に魔法使い様がいるって言ってるけど、それらしい人がいませんよね?」
「そうですねえ。でも助かりました。真冬にずぶ濡れはつらいもの」
「全くです。ソフィアがガタガタ震えていたから、本当に助かりました」
そこでディオンさんがヘンリーさんを見上げた。
「こちらさんはたしか……」
「うちのお客様です」
「あ、そうでしたね」
暗くて表情はよくわからないけれど、ヘンリーさんは猫化してないでしょうね?
「マイたん、あったかいね!」
「暖かいねえ。よかったねえ。雨が上がったらお家に帰れるね。雨が上がるまで一緒にここにいようね」
「うん!」
「我が家はおそらく家の中に泥水が入っています。うちはそれ込みで家賃が安いんで」
ディオンさんの声に元気がない。
「そうなんですか。後片付けが大変ですね。私、お手伝いに行きます」
「いや、力仕事だから。女性には頼めません」
「力はなくてもお役に立つことは何かしらあるんじゃ」
「いや。泥をひたすらかき出して、そのあとは家中を水拭きするんです。こういう時は付き合いのある男連中が駆けつけてくれますから。大丈夫ですよ」
「そうですか……」
私がしゃしゃり出るのはかえって迷惑なのだろうか。魔法使いであることを隠しているばかりに、役立たずで申し訳ない。詠唱無しで魔法が使える私なら、現場にさえ行ければこっそり手伝えるんだけどな。
「ではソフィアちゃんのことはいつでもお預かりします。それは遠慮しないでくださいね」
「ありがとうございます。助かります」
ディオンさんは知り合いに声をかけられ、ソフィアちゃんの手を引いて離れていった。それからどのくらいたったろうか。ドームの外をずっと見ていた人たちが「雨が小降りになってきたぞ」「このまま止むといいな」と言っている。
「マイさん、手伝いたいんですか?」
「ええ。でも断られたのに押しかけるのはちょっと」
「俺がいい方法を考えておきます。マイさんはきっと、魔法で役に立てないことを申し訳なく思っているんでしょ? 何かあなたが魔法を使えるようないい方法を考えましょう」
あれ? なんでわかったのかしら。
「俺も現場に行くことになりますから何かあれば助けます。遠慮なく声をかけてください。文官は総出でこの手の被害を確認するのです。それに俺はあなたの忠実な助手です。俺を使ってください」
この人はやっぱりいろんな意味で優秀な人なんだなぁ。
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