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27 情けない同盟

 ヘンリーさんが猫に変わり始めている。

 ディオンさんに気づかれないうちにと、カウンター越しにヘンリーさんの頭に手近な布を被せた。いきなり布を被せられたヘンリーさんが「えっ?」という顔をする。


「マイさん?」

「ごめんなさい。私、ソースを飛ばしちゃったみたい。ヘンリーさんの頭にソースがついているの。ああ、お洋服にまで。さあこちらへ。今、ソースを落としますので」


 言い訳にしては下手すぎるが、この際かまうものか。ヘンリーさんの手首をつかんでグイグイと厨房の奥の階段まで引っ張り込んだ。そしてヘンリーさんにささやいた。


「猫の目になってます」

「なん……で? 何の予兆もなかったのに」


 ヘンリーさんが素早く頭とお尻を触って確認している。

 

「そちらはまだ大丈夫です。落ち着くまでここにいますか?」

「すみません、そうさせてください」


 ヘンリーさんは階段に腰を下ろしてうなだれた。私は厨房のゴミ出し用出入口を開け、大きな声を出した。


「申し訳ございませんでした! これに懲りずにまたどうぞ!」


 外に向かって声を張り上げ、わざとバタン!と音を立ててドアを閉めた。ヘンリーさんには「しー」と合図をして、何気ない顔で厨房に戻った。ディオンさんが心配そうな顔をしてこちらを見ている。


「失敗しちゃった。ソースを飛ばしたから洗って差し上げようとしたんですけど、使用人にやらせるからと帰ってしまったわ」

「怒って帰ったんですか?」

「怒ってはいなかったから大丈夫です。お騒がせしました」

「それならいいけど。それでさっきの話ですが、クーロウ地区に行くなら、俺にも声をかけてください。どの店でも案内できますから」


 粘り強い。

 

「ありがとうございます。でも、そんなに危ないところならやめておきます」

「そうですね。そのほうがいいですよ」

 

 私がきっぱり行かないと伝えたら、ディオンさんはそれ以上は言わず、「じゃ、仕事に戻ります」と言って帰った。見送ってからすぐに階段に向かう。


「ヘンリーさん、具合はどう……」


 階段の手前に仔馬ほどの大きさの黒猫が茫然と立っていた。


「あら」

「面目ない」

「落ち着けば大丈夫。また戻れます」

「あの人、あなたのことをまだ諦めていなかった」


 聞こえていましたか。

 

「あれは善意で言ってくれただけで、私を諦めないとかいう話ではありません。それにもう誘われませんよ。それよりヘンリーさん、お城に戻らないとなりませんよね。それまでに戻れそうですか?」

「全く……わかりません」


 猫になったヘンリーさんはしょんぼりしていて、ヒゲが下向きだ。久しぶりに猫ヘンリーさんを見た。思わず腕を伸ばして黒猫に触れようとして手を止めた。


「元気が出ないでしょうけど、生きてるだけで素晴らしいことですから。説教くさくてごめんなさい。でも、本当なの」

「俺は恐ろしいですよ。もしこのまま元に戻れなくなったらどうしようかと、ものすごく不安です」

「その時は……」


(いや、今思っていることは苦しんでいる人に言うことじゃない)


 いいかけた言葉をのみ込んだら、しょんぼりしていた猫ヘンリーさんが顔を上げた。


「その時はなんですか?」

「無神経なことを言うところでした。やめておきます。私ね、この世界に来てから一日一回は誰かを笑顔にしようって決めているんです。今言いかけたことは、ヘンリーさんを笑顔にする言葉じゃなかったの。ごめんなさい」

「それでも俺は聞きたいです」


 エメラルドの瞳で私をヒタと見つめる様子が愛らしくて、思わずその頭を撫でた。大人しく目をつぶって撫でられていた猫ヘンリーさんはごく自然な感じにペロリと私の手首を舐めた。それから慌てて私の手から頭を離した。


「す、すみません。この姿のときは、無意識に体が動いてしまって。申し訳ありません」

「気にしないでください。猫に舐められるのは慣れています」

「それで、さっき言いかけたことは?」


 うん、さすがは猫だ。諦めない。


「そのときは……私がこの家であなたのお世話をします、と言うつもりでした。でも、ヘンリーさんは子爵家のご令息ですものね。私の世話は必要ありませんでした。馬鹿なことを言いました」

 

 そっと猫ヘンリーさんに向かって腕を伸ばし、途中で止めた。


「もう一度撫でてもいいですか? そんな気分じゃないですか?」

「マイさんに撫でてもらうと、とても落ち着きます。好きなだけどうぞ」

「では、撫でさせていただきます」

「どうぞ」

 

 差し出された頭をゆっくり撫でる。頭の骨の輪郭を感じながら頭を撫で、背骨を感じながら背中を撫でる。ゴロゴロという音と振動を感じながら喉と胸を撫でる。撫でているうちにあちらの世界に置いてきた愛猫の夜太郎やたろうを思い出してしまった。ああ、会いたいなぁ。


「ヘンリーさん、首に抱きついてもいいですか? 嫌ですか?」

「首……ええ、どうぞ」


 猫ヘンリーさんが戸惑っているのはわかっているけれど、我慢できずに首に腕を回して肩のあたりに顔を埋めた。ドウルルルという音が大きくなった。

 夜太郎とおばあちゃんのことは私が看取るつもりだったのに。おばあちゃんより夜太郎のほうが長生きしたら、あの子はどうなるのだろう。うっかり悪いことを想像してしまった。涙が出てくる。


「マイさん?」

「ごめんなさい。あちらの世界で可愛がっていた黒猫のことを思い出しちゃって」

「黒猫を飼っていたの?」

「ええ。祖母は子供の私が猫を飼いたいと言ったら、すぐにどこかから子猫を貰ってきてくれました。きっと、両親を失った私を少しでも力づけたかったのでしょうね」

「その猫のことが心配なんですね」


 返事の代わりに猫ヘンリーさんの首に顔を埋めた。そしてそのまま話をした。


「本当なら私は今頃生きていないから、贅沢を言ってはいけないのはわかってるんです。でも、夜太郎に会いたい気持ちは、どんなに抑え込もうとしても無理で」


 猫ヘンリーさんがグリッと私の頭に自分の頭をこすり付けてくる。夜太郎がよくやってくれたやつだ。あまりに懐かしくて胸が痛む。


「そうですね。生きているだけでも素晴らしいのでしょうね。でも正直、俺はまだ自分の人生の理不尽さに折り合いをつけられてはいないんだ。俺はマイさんみたいに人間ができていない。情けないことです。なぜかあなたの前ではみっともないところばかり見せている」


 しょぼくれている猫ヘンリーさんを愛しいと思った。それがどんな種類の愛しさか、はっきりしないけど。


「私も情けない大人です。おばあちゃんや夜太郎のことを思うと、すぐ泣いてしまう。ヘンリーさんが自分を情けないと思うなら、私たちは情けない大人同盟ですね。同盟員同士、つらい時は助け合いましょう」


 しばらく首に顔をうずめていたら、グイッと前足で押しやられた。


「すぐに離れてください。人間に戻れそうです」

「あっ、はい」


 急いで立ち上がり、店の暖炉の前で待った。


「お待たせしました」


 振り返ると、文官の制服を着たヘンリーさんが立っている。服はいつも通りピシリと着ているが、髪が乱れていた。


「私のくしでよければ、髪を整えさせてください。私が散々撫でたせいか、乱れています」

「いえ、俺が手櫛で整え……いや、やはりお願いしてもいいですか?」

「はい。じゃあ、椅子に腰かけてください」


 私の櫛でそっと髪をとかす。夜太郎も人間になったらこんな感じなのだろうか。会いたいよ、夜太郎。ジワッと涙が滲んできたので頭を振って忘れることにした。


「夜太郎に会いたいのですね」

「ええ。泣いてしまうので、夜太郎の話はここまでにしましょう」

「わかりました。もう言いません」

 

 髪を整え終わって「はい、これで」と言ったところで手首をそっとつかまれた。


「今度俺が猫になったら、夜太郎と思ってくれていいんですよ?」


 猛烈に心が動いたけれど、首を振る。


「いいえ。夜太郎は夜太郎で、ヘンリーさんはヘンリーさんです。どちらも大切ですので一緒にはしません」

「そう……」

「けれど、また猫になることがあれば、撫でさせてください」

「ええ。好きなだけ。では俺は仕事に戻ります」


 ヘンリーさんはドアを開けて振り返った。


「俺はまたきっと、あなたの前で猫になると思います。申し訳ない。先に謝っておきます」


 そう言って美しいフォームで走り去った。

 私の前でまた猫になるとはどういうこと?


 まあいいか。今夜はクッキーを焼こう。甘いものを食べて元気を出そう。明日、ソフィアちゃんに食べてもらいたいな。

 店の営業を終えてから、販売用も含めて大量にクッキーを焼いた。


 焼き終わる頃に、雨が降ってきた。

 雨粒が大きいのだろう、屋根を叩く音が大きい。


「久しぶりの雨ね……」


 そんなのんびりしたことを言って、私はベッドに入った。

 

 


 

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