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26 ソフィアちゃん

 数日前から、三歳児を預かっている。朝の七時半からお昼まで。

 三歳児の名前はソフィアちゃん。彼女を連れてくるのは父親のディオンさん。ディオン君と呼びたくなる若いお父さんだ。

 冬なのに半袖姿で、腕も上半身も筋肉がみっちりついている。甘い顔の愛嬌のある若者だ。


「今日もお願いできますか? すみません」

「お預かりします。謝らないでください。ソフィアちゃんは手がかからないし」


 ディオンさんは今、近所の工事現場に通っている左官屋さんだ。最初に見たとき、ソフィアちゃんを背中におんぶして働いていた。ソフィアちゃんは「おりる! おりるよお!」と号泣していた。

 動きたい盛りの幼児が背中から降りられないのはさぞかし苦痛だろう。そう思ったら我慢できなかった。ディオンさんに駆け寄り、「預かりますよ」と声をかけたのがきっかけだ。


 ディオンさんの母親がソフィアちゃんを迎えに来るお昼ごろまで、私が預かる。ディオンさんの母親は夜明けから昼まで市場で働いて、それからソフィアちゃんを迎えに来る。


「家で留守番させればいいんだろうけど、まだ言ってもわからないから。俺も困ってて」

「ソフィアちゃんを一人で留守番させてはいけません。危険です。いつでも私が預かりますから。心配しないで」

「すみません。本当に助かります」


 奥さんはソフィアちゃんを産んだ後で体調を崩し、亡くなったとのこと。ソフィアちゃんのおむつが取れるまではおばあちゃんが面倒を見て、しばらく前からディオンさんが子連れで働いていたらしい。


「俺たちのために親父とお袋もかなり厳しいことになっているんで」


 この世界は簡単に人が死んでしまう。まだ身近な人では経験していないが、周囲の人の話を聞いていればわかる。子供は病気で命を落とす。大人はお産や怪我、流行り風邪で亡くなってしまう。たくさん産んでたくさん死んでしまう世界。

 

 私の魔法の引き出しには治癒魔法がない。あったら力の限り治してあげられるのに。ポーションは作れるものの、アレにどれほどの効果があるのやら。魔法が使えると知ったときは浮かれたりもしたけれど、魔法使いは万能じゃないんだと思い知らされているところだ。


「ソフィアちゃん、お客さんが来るまでお人形さんごっこしようか」

「うん!」

「じゃあディオンさん、仕事に行ってください。何かあったら声をかけますから」

「ありがたいです。必ずお礼をしますんで」

「いい、いい。ソフィアちゃんと遊べるのがお礼だから」


 ディオンさんは何度も頭を下げてから仕事場に行った。

 ソフィアちゃんにウサギの人形を渡した。私は猫のぬいぐるみ。どちらも私の手作りで魔法は使っていない。これでごっこあそびをするのがソフィアちゃんのお気に入りだ。


「ウサギさん、今日はどこへ行きましょうか」

「猫ちゃんと川に行くの!」

「お洗濯をしましょうか。川は近いですか?」

「近いよ。川、おうちのすぐそば!」

「よーし、じゃあ、全部洗濯しよう! シーツもカーテンも! 洗濯がんばるぞ! オー!」

 

 ソフィアちゃんがキャッキャと声を出して笑う。ご機嫌だ。

 たくさん遊んで昼近くになり、お客さんが来たらソフィアちゃんは大人しく椅子に座る。私が買い集めた絵本を眺めていてくれる手のかからない子だ。お客さんに食事を出し、ついでにソフィアちゃんにもぶどうパンを出した。


「おいしっ!」

「美味しいでしょう。ぶどうパンよ。シチューも食べてね」

「いいの?」

「いいのいいの。たくさん食べてね」

「このシチュー、好き!」

 

 お昼を回るとソフィアちゃんのおばあちゃんが迎えに来る。おばあちゃんのカリーンさんはおばあちゃんと呼ぶには気が引けるくらい若い。

 

「ソフィアがお世話になりました。青菜を持ってきたわ。よかったら食べて」

「いつもありがとうございます。申し訳ないです」

「マイさんがこの子を見てくれるから、ディオンと私が働けるんです。本当にありがとうございます」


 何度もお礼を言って、カリーンさんがソフィアちゃんの手を引いて帰って行く。

 

「ばあば、おうち帰ろ!」

「うん、帰ろうね」

 

 帰って行く二人の背中を見送る。ちょっとだけ羨ましい。

 私もあんな子供が欲しい。でもこの世界では……。この世界では、笑って生きられればそれでいい。生きているだけで、どこも痛くないだけで、とても素晴らしいことだ。これ以上の贅沢は言わない。それに、もう誰も失いたくない。


 次々とお客さんが入ってきた。日替わりランチの注文が続々と入る。今日の日替わりランチは牛すね肉のシチュー。冬のシチューはご馳走だ。

 

 挿絵(By みてみん)

 

 シチューを深皿に盛り付け、最後に生クリームを垂らした。歯ごたえを残して色よくゆでたブロッコリーをのっけて、ピクルスを添えたら完成だ。

 どのお客さんも「肉が柔らかいなあ!」「こりゃずいぶん長いこと煮込んだね」と感心している。ビーフシチューは夏場以外の定番メニューにしようと思う。


 近いうちにひき肉料理に挑戦する予定。この国ではひき肉が売られていない。ひき肉料理を作るためには、二本の包丁でひたすら肉を叩かねばならない。だからミンチ機を魔法で作ろうと思っている。そのために鉄鍋を四つ買ってある。五つでもよかったかも。


 昼の混雑が終わってからディオンさんが店に入ってきた。


「あら、ディオンさん」

「日替わりのランチをお願いします」


 いつもは母親のカリーンさんがディオンさんの昼食を市場で買ってくるのに。ソフィアちゃんを預かっているからお礼のつもりだろうか。そう考えたのを見透かしたように、ディオンさんがニコッと笑う。

 

「俺もたまにはここのランチが食べたかっただけです」

「それならよかった。すぐにご用意しますね。ソフィアちゃんはおうちですか?」

「はい。昼寝をしていると思います。おふくろには世話になりっぱなしで、頭が上がりません」


 ディオンさんが可愛い顔で苦笑している。ビーフシチューを席まで運ぶと、ディオンさんの顔がほころんだ。今日もたくさんの笑顔を見ることができた。こうやって食べる人の笑顔を見られることが食べ物商売の嬉しいところだ。


「マイさんのご両親はどんな仕事をしていたんですか?」

「父は事務仕事の勤め人でした。母は祖母が始めた飲食店を手伝っていて、私も大人になってからはそこで働いていました」

「そうでしたか」

 

 そう、『喫茶リヨ』はおばあちゃんが始めた店だ。優しい味の温かい雰囲気の店。おばあちゃんは肉料理が得意でお母さんはデザートが得意だった。母と父は仲良く車で買い物に出かけて、事故に巻き込まれた。


 十歳だった私は両親が突然亡くなったことに実感がわかず、茫然としていたように思う。あまりその頃の記憶がない。はっきり覚えているのは、いつもは温厚なおばあちゃんが人目もはばからずに慟哭していたことだ。十歳の私にはそっちのほうがショックだった。


 おばあちゃんはどうしているかな。あの時のおばあちゃんを思い出したら涙が出てきた。急いでカウンターの中に戻って、床を拭いているふりをした。


 私の病気が見つかる前は、「いつの日かマイが産んだ赤ん坊を抱くことが、私の生きる張り合いだよ」と言っていたのに。そのおばあちゃんが「その世界に行けば、健康な体でやり直せる」と言って私をこの世界に送り出した。


 だから私の病気を治す唯一の手段が、私をこちらに送り出すことだったはず。

 魔法が使えるとわかった日から、何百回何千回と頭の中を探した。違う世界に人間を送る知識は貰っていない。だから私はもう元の世界には戻れない。



 大丈夫。絶対に大丈夫。私はここで笑って生きていける。笑ってみせる。


 

 チリリンとドアベルの音がした。急いで立ち上がり、「いらっしゃいませ!」と声をかけたらヘンリーさんだった。いつもは誰もいない午後二時頃に来るのに、今日は少し早い。

 ヘンリーさんはチラリとディオンさんを見てから、いつものカウンター席に座った。


「日替わり……」


 そこまで言って私の顔をまじまじと見ている。しまった。泣いていたことに気づかれちゃったか。


「どうしました? 何かあった?」

「いいえ。ちょっと以前のことを思い出しただけです」


 慌てて目元を拭いて笑顔を作った。ヘンリーさんは何も言わずに日替わりランチを食べ始めた。

 ディオンさんが壁に貼ってある貼り紙に目をやりながら話しかけてきた。

 

「マイさん、これ、なんて書いてあるの? 俺、字が読めないんだ」

「新メニューの揚げ魚の甘酢あんかけのお知らせです。クーロウ地区で食べた魚料理がとても美味しかったものですから、真似をしてみました」


 ディオンさんが驚いた顔になった。


「クーロウ地区? あのぉ、またクーロウ地区に行きたくなったら、ぜひ俺に声をかけてください。腕っぷしには自信があります。何かあっても俺ならマイさんを危ない目には遭わせませんから。あそこだけは決して一人では行かないほうがいいです」

「ありがとうございます。でも詳しい人がいるので大丈夫ですよ」

「そうですか。でも、その人の都合が悪くなったら俺が案内します」

 

 カウンター席のヘンリーさんがくるりとディオンさんを振り向いた。

 

「私が必ず同行しますから、ご心配なく」

「あっ、そうでしたか。失礼しました」


 ディオンさんが笑顔で引き下がったのでホッとした。(ヘンリーさんがこんな態度を取るなんて)と驚きながらヘンリーさんの顔を見てギョッとした。


 ヘンリーさんの瞳孔が完全な縦線だ。

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