18 仲良くなる不安
ヘンリーさんが初めて聞くような怖い声を出してキリアス君を注意している。
「キリアス君、ドアの貼り紙が見えないのか? 臨時休業なんだよ。休業している店の窓をバンバン叩くのは、常識的にどうなんだろうな? マイさんは風邪をひいてお休みしているんだ」
「貼り紙は見たよ。でもヘンリーさんもいるじゃないか。ヘンリーさんはどうやって店に入ったの?」
同じように店内を覗いたヘンリーさんが「グッ」っと詰まった。キリアス君は頭も口もよく回る。
「なぁんだ、ヘンリーさんもカーテンの隙間から覗いたんだね? それはまあいいや。あのね、工事のことで確認したいことがあったんだよ。他の文官に聞いたら今日は早退だって言われたからさ、もしかしてここじゃないかなと思って」
「工事のこととは?」
「橋桁の交換工事に、土魔法が得意な魔法使いを出すようにって言っていたでしょ? 土魔法で一番の使い手が、田舎に戻ったんだよ。一人暮らしの母親が大怪我したから様子を見に行きたいって理由。さすがに『行くな』とは言えなかった。ポーションを持って行ったからそれで治るなら早く帰ってくると思うけど、実家が遠いからすぐに戻ってこられないんだ」
「それはまあ、そうですね」
ヘンリーさんがトーンダウンした。
「土魔法が苦手な魔法使いを使って、何かあったら逆に厄介か」
「でしょう? どうしたらいいか相談したかったんだよ。僕は明日から他の現場で手一杯だしさ」
「では魔法使いなしで計画を練り直します」
「そうして。それで、マイさんの具合はどうなの?」
「熱が高い」
「なんだよ、早く言ってよ。魔法部からポーションを持ってくるよ」
「ポーションは管理が厳しいでしょう。勝手に持ち出せないはずです」
「一本分くらい、別の容器に入れればわからないよ」
話が不穏だ。貴重な品をちょろまかすという意味ならやめてほしい。バームクーヘンの端っことは違うんだから。
「マイさんに迷惑がかかるようなことはやめてくれ」
「大丈夫だって」
「キリアス、やめろ」
ヘンリーさんは不器用なタイプと思っていたけれど、声の出し方は器用だった。キリアス君がヘンリーさんの怖い声に気圧されて黙り込んだ。
「キリアスさん、ポーションは結構です。私はもう、眠ります」
「わかりました。じゃあ僕は戻りますね。お大事に。ヘンリーさんはどうするの?」
「残る」
「ふうん。マイさん、すごく顔色が悪いもんね。じゃ、お大事に」
ヘンリーさんがキリアス君を見送り、カーテンの隙間をきっちり閉めてから戻ってきた。濡らした布を額に当ててくれて、頭痛が少し楽になった。
次に目が覚めたらもう、外は真っ暗だった。暖炉には薪が足されていて、暖炉の隅に置いてあるヤカンがシュンシュンと音を立てている。ヘンリーさんはテーブルに突っ伏して眠っていた。いつも疲れているものね。
風邪の峠は越したらしく、頭痛はかなりまし。関節痛と気持ち悪さも少し楽。そっと起き上がり、ロウソクに火をつけた。あちこちに置いてあるロウソク全部に火をつけていたら、ヘンリーさんが目を覚ました。
「動いて大丈夫ですか」
「ええ。だいぶ楽になりました」
「マイさん、食欲は?」
「お米のお粥が食べたいかな。今作るので、ヘンリーさんも一緒にいかがです?」
「教えてくれたら俺が作ります」
いつもなら「いえ、大丈夫」と言うところだけれど、(今日だけ、甘えてもいいかな)と思う。お粥を作る間、ずっと立っていられる自信がない。座って作っていたらヘンリーさんはまた心配するだろう。
「お願いしてもいいですか?」
「もちろんです。そこに座って指示してください」
毛布にくるまったまま椅子に座り、米の研ぎ方から説明する。不慣れな手つきでお米を研いでいるヘンリーさんを見ていたら、胸が詰まって慌てた。お米を研いでいる人の姿は家族を連想させるのだと気づいたよ。
両親が交通事故で早々いなくなり、自分は病気になってこの世界へ。私の人生は家族との縁が薄い。
もう悲しみたくないから、この世界ではみんなに優しくして、だけど誰とも深い付き合いはしないと決めている。そして一日一回誰かを笑顔にできたら十分だ。
ピリオドを打たれるはずだった人生を、私はまだ生きている。助けられたこの命を、明るく、楽しく、そして誰かの笑顔のために使いたい。泣いて暮らして人生を無駄にしたくない。
なのにこんなに優しくされると頼りたくなってしまう。ヘンリーさんがいつまで私の前にいるのかなんて誰にも、ヘンリーさん自身にもわからないことなのにね。
大切な存在を失うのは身体を引き裂かれるように苦しい。もう一度あの苦しみを味わったとき、また立ち直って歩き出せるかどうか自信がない。だから私は……。
「マイさん? どうかしましたか?」
「どうもしません。体力を過信していたことを反省しているところです」
「俺もやたら体が丈夫で、子供の頃も熱を出したのは一回ぐらいです。そのせいか、つい無理をしてしまう」
「いつもお疲れですものね」
鍋がフツフツと音を立て始めた。
「薪をずらして火を弱くしてください。一本だけで十分です」
「こんな感じですか?」
「はい」
少しの沈黙の後、ヘンリーさんが鍋を見たまま話し出した。
「俺、いつも疲れているように見えますか」
「気に障ったならごめんなさい。私にはそう見えます。きっと山のように仕事を抱えて、手を抜くこともなく猛烈に働いているんだろうなって、勝手に想像していました」
「そうですか……」
「ヘンリーさん、話は変わりますが、聞きたいことがあります。私がおばあちゃんに魔法の知識と魔力を貰ったと言ったのに、ヘンリーさんは『魔法が使えるのか』って聞かないんですね」
「そりゃあ……ああ、そうか。マイさんはこの世界のことに詳しいわけではないのですね」
なんのことだろう。
「魔力を持って生まれてくる人はそこそこいるんです。でも、魔法使いになれるほどの魔力を持っている人はとても少ないから、『魔法が使えるのか?』と聞くのは、相手によってはとても癇に障る質問になるんですよ」
「ふうん」
「魔力持ちは子供の頃から大切にされますが、魔法使いになれるほどの魔力を持つ人は、ひと握り以下です。たとえ魔力があっても魔法を上手く使えない人もいる。城の魔法部は今、九人しかいません。それだけの狭き門です。中途半端に魔力を持っていることで優越感と劣等感の両方を抱えている人はわりといるんです」
「特別な能力を持っているがゆえの苦しみ、ということですか?」
「そうです」
近所の幼なじみの顔を思い出した。
八枝ちゃんはピアノがすごく上手かった。小さい時からいろんなコンクールで優勝して、音大まで進んだけど。
「上には上がいることを思い知らされたわ。日本中から天才と呼ばれる人たちが集まっている中で、私なんか普通だった。勘違いしていたわ。子供の頃からピアノのために全てを犠牲にしてきたけれど、本当の天才の足元にも及ばない。どんなに努力しても、努力だけじゃ超えられない壁があった」
そう言って八枝ちゃんは音大卒業後、二度とピアノを弾かなくなった。「親が支払ったレッスン代が申し訳なくて、一生頭が上がらない」と言っていた。
八枝ちゃんは「プロのサッカー選手、野球選手たちも同じだと思う。二軍にいて脚光を浴びないで終わる人たちだって、きっと地元じゃヒーローだったんだよ」とも言っていた。
やがてお粥が炊けた。私は岩塩を削って振りかけただけ。ヘンリーさんには常備菜の肉そぼろを一緒に食べてもらうことにした。
「それは私が自分用に作り置きしておいたもので、肉を細かくして甘辛い味にしたものです。見た目は地味ですけど美味しいですよ」
「楽しみです」
ヘンリーさんは猫舌なのでゆっくり少しずつ食べている。私は口の中を火傷しそうなアツアツのお粥を食べた。熱いお粥は体の中から温めてくれるし、心まで元気になる。
食べている間にヘンリーさんが淡々と話をしてくれた。
「俺は養子だし、半分は獣人でしょ。ずっと他の人に負けたくないと思ってきました。俺が半分獣人だと知られたときに『ああ、やっぱりな』とは誰にも言わせたくない。俺が疲れて見えるのなら、能力以上の無理をしているのかもしれませんね」
「若いから続けられるのでしょうけど……やっぱり無理は禁物です。体が壊れたら、若くても戻らないこともありますから」
日本の最先端の医療でも、無理なものは無理だった。
「私ね、この世界では笑って暮らしたいし、ほんの少しでいいから誰かの役に立ちたいんです。と言っても今日はすっかりヘンリーさんのお手を煩わせてしまいましたけど」
「これは俺がやりたくてやっているんです。この肉はお粥が進みますね。美味しいです」
「ショウガをたっぷり使うのがコツです。ゴマも歯ごたえが楽しいでしょう?」
「はい」
もうモフらせてもらうことはないのかな。
美味しそうにお粥を食べているヘンリーさんの黒髪を見て(もう一度だけ猫ヘンリーさんを撫でたかったな)と思いながらお粥を食べた。