15 カルロッタさん
夜になるのを待って、指示された場所に向かった。初対面の人に怪しまれないよう、お出かけ用の服を着た。その上には夜道を一人で歩いているときにお金持ちに見えないよう、古びたコートを羽織った。
赤松の林に到着し、真っ暗な中で猫ヘンリーさんを待った。もしかしたらもう人間に戻っているかなと思ったけれど、七時の鐘が鳴り終わる前に大きな黒猫が姿を現した。
「お待たせしました」
「それほど待ってはいません。さあ、行きましょう」
二人で歩き出してから、好奇心に負けて質問した。
「その手では鍵を開けるのもドアを開けるのも大変でしょう? どうやって抜け出したのですか?」
「猫の姿をしていても中身は人間ですので。少々苦労しましたが、窓の鍵を開けるのは案外あっさりできました。窓を開けて二階のベランダから庭に飛び下りましたが、この体だと高い場所から飛び降りるのが怖くないとわかりました」
「前向きですね。あっ、そうだ、お母様のお名前は? 呼び出してもらう以上、お名前と外見を知っておかないと」
「母の名前はカルロッタです。苗字はありません。黒髪に緑色のアーモンドアイ。年齢は四十三歳ですが、もう少し若く見えます」
「了解です」
「私は物陰からこっそり敷地内に忍び込みます」
「了解了解」
夜の七時過ぎ。通りにはほとんど人の姿はない。あっちの世界の喫茶店のお客さんが「田舎の夜は七時で誰も歩いていない」とおっしゃっていた。異世界の夜もそんな感じ。おかげで大きな黒猫と私は、誰にも見られずに済んだ。
到着した女学院の寮は高い塀に囲まれ、門番さんが立っていた。制服を着て帯剣している門番さんに近寄り、満面の笑みで話しかけた。こういうとき、愛想は必須だ。
「夜分に恐れ入ります。下働きをしているカルロッタさんに急ぎの用事がございます。お呼び出しを願えないでしょうか。私はマイと申します。坊ちゃんのことで、と言っていただければわかると思います」
「カルロッタさんですか。では本人に確認しますので、ここで待っていてください」
門番さんは豪華な建物の脇を進み、奥の木造二階建てに入って行った。あれが従業員用の建物か。
待つこと数分、ほっそりした体格の黒髪の女性が走ってきた。(この人も走り方がきれい)と思った。動作が美しいのは猫型獣人の特徴なのかも。
カルロッタさんは不安そうな顔をしていた。
「お待たせしました。私がカルロッタです。息子のことで用事って、なんでしょう?」
「ヘンリーさんが困ったことになりまして、実は……」
カルロッタさんにだけ聞こえる声で事情を話すと、「こちらに」と門番さんから見えない場所に連れていかれた。すると私たちのすぐ近くにヘンリーさんが音もたてずに上から降ってきた。塀を乗り越えたのかい! 塀の高さ、二メートル以上はあるのに!
「母さん、俺だよ」
カルロッタさんが覗き込むようにして猫ヘンリーさんを見る。
「あなた、ヘンリーなのね? あらまあ。立派な若猫になっちゃって。猫になっても男前なのは同じねえ」
「驚かないの? 俺、すごく困っているんだ」
ヘンリーさんはお母さんの前では「俺」って言うのか。それも可愛い。
「私の息子だもの。猫になったって驚かないわよ。困っているって何が?」
「戻れないんだ。これ、どうやったら戻れるのかわかるかな」
「ああ、そういうこと。いつからなの?」
「昨日の夜にこの姿になって、それからずっと戻れないんだ」
カルロッタさんが膝を曲げて黒猫の顔を両手で挟んだ。そしてツヤツヤと濡れている黒い鼻にチュッと口づけた。
「あなたが大人になったからその姿になったのよ。恋の季節がやっときたのね。あなたは一生人間のままなのかと思っていたけど。そう、やっとなのね。お相手は? このお嬢さんなの?」
ヘンリーさんがジリッと後ずさった。
「待って。なんの話をしているんだよ」
「恋の季節になると、私たち猫型獣人は頻繁に猫の姿になるわ。獣人はみんな十二、三歳くらいからそれを繰り返して、自分の意思で姿を変えられるようになるの。お前はまだできないようだけれど、そのうちできるようになるはずよ」
「そのうちって?」
「この姿になるのはね、自分の命を守るにも恋敵を蹴散らすにも恋のお相手を追いかけるにも便利だからと言われているわ。私はもう意思に反して猫になることはないわよ?」
「ちょっと待ってって。今、頭の中を整理するから。いや、その前に、さっさと人間に戻るにはどうしたらいいの? コツがあったら教えてほしいんだ」
「コツねえ」
カルロッタさんが私をチラリと見て困ったように微笑む。
なんで困ってる? なんで私を見て困る?
「そうだ、薬があるわ。古くなってるけど、効き目はあると思う。今、持ってくるわ」
カルロッタさんは従業員用の建物に走り、すぐに戻ってきてガラスの小瓶を私に手渡してくれた。小瓶の中には丸薬が半分ほど入っている。
「これをあげるわ。私はもう必要としないのよ。あなたの体格なら、そうね、一回に三粒でいいと思う。それを噛み砕いて飲めば、そのうち人間に戻れるわ。薬を飲まなくても、数日で人間の姿に戻れるけど」
「数日なんて絶対に無理だよ。俺は城勤めの文官なんだから」
「そうだったわね。とにかく、猫になるのは病気ではないから安心して。自然なことだから。それと、その薬は常用してはダメ。害があるの。それでお嬢さん、お名前はなんておっしゃったかしら」
「マイです」
カルロッタさんは私に親しみやすい笑顔を向けてくれた。
「この子は赤ん坊のときに人間の両親に養子に出されて、獣人のことを何も知らないの。これからも何か困ることがあるかもしれません。その際はいつでも私に聞きに来てください。息子をどうぞよろしくお願いいたします」
「わかりました。頼りにさせてください。こちらこそよろしくお願いします」
「ヘンリー、可愛らしい方ね」
「うん」
なぜかヘンリーさんは視線を地面に向けて挙動不審だ。
「じゃ、母さんは仕事に戻るわ。同室の人が心配して見に来たら困るから」
「ああ、わかったよ。最後にひとつ聞いていいかな。俺の父親は母さんがここで働いていることを知っているの?」
「知らないわ。『私を殺されたくないなら、探さないで』と言ってあるもの。もうお帰り。ここにいたら誰かに見られるかもしれない。今夜はありがとう、ヘンリー、マイさん」
「おやすみなさい、母さん」
「おやすみなさい、カルロッタさん」
「そうそう、近いうちに人間の姿のときにまた来てくれる?」
「ああ。わかった。人間に戻ってから来るよ」
カルロッタさんに見送られながら帰途に就いた。街灯もないから通りはとても暗いが、ヘンリーさんが一緒だから心強い。
「お薬を貰えてよかったですね」
「え? ええ、そうですね」
気の抜けたような返事をしながら私を見上げる瞳が、キラキラしていて美しい。
「お薬は今飲みますか?」
「あ、そうでした。今飲みます。三粒ください」
手のひらに丸薬を三粒出してヘンリーさんの口の前に差し出した。ヘンリーさんは口を開けたけど、また閉じた。
「飲まないんですか?」
「その状態だとマイさんの手を舐めてしまいます。口の中に落としてもらえますか?」
「ああ、はい。気にしなくていいのに」
「私は気にします。ではお願いします」
ヘンリーさんが大きな口を開けた。暗い中でも光る牙は見える。その口に思わず見とれた。鋭く長い牙がかっこいい。奥歯はギザギザだ。
「マイさん、見ていないで早く薬を落としてください。口を開けたままは間抜けです」
「ごめんなさい。はい、どうぞ」
丸薬を口に落とすとカポッと音を立てて口を閉じた。カリッ、コリッと丸薬を噛み砕いて飲み込んだ直後に「ギャッ」と叫んだ。全身の毛を逆立てていて尻尾も盛大に膨らんでいる。
「どうしました? 苦いの? どこか痛いの?」
「大変だ。服を持ってきていないのに薬を飲んでしまった! 私としたことが!」
「ああっ! そうでした! 私もうっかりしてました。じゃあ、戻れそうになったら私のコートをお貸ししますから」
「寒いのに申し訳ありません。なんでこんな単純な失敗をしたのか……」
「普段と違うのですから気にしないでください」
大変に落ち込んでいるヘンリーさんはうなだれて歩いている。普段は沈着冷静なヘンリーさんが服を忘れたのは、いっぱいいっぱいなのかもね。私も薬を勧めたとき、何も考えていなかったし。これ、私が悪い。
薬の効き目はゆっくりで、そんなに慌てる必要はなかった。暗い場所を選んで歩いて二十分くらいたった頃。猫ヘンリーさんが立ち止まった。
「全身がジリジリします。戻れるかも。マイさん、後ろを向いてもらえますか」
「あっ、はい!」
コートを脱いで猫ヘンリーさんにかけてから背中を向けた。
待っていると「もう大丈夫です」という声。振り向いたら、私のコートを着たヘンリーさんが裸足で立っていて、袖の長さも着丈も全く足りていない。そしてなぜか両手で顔を覆っている。
「ヘンリーさん? 今度はどうしたの?」
「もう、何もかも恥ずかしくて情けなくて。こんな格好だし、やっていることが間抜けすぎて。普段なら絶対にこんな失敗をしないのに。マイさんに合わせる顔がないです。ずっとみっともないところばかり見せている」
むしろ私しか見ていないんだから、そこは気にしなくていいでしょうよ。
「気にしなくていいですって。とりあえず元に戻れてよかった。これでおうちに帰れますね」
「そ、そうですね。帰ります。寒いのにコートをお借りしてすみません。送りますから『隠れ家』まで急いで戻りましょう」
「送ってくれなくても……」
「送ります。譲れません」
止まって言い合いしているのは寒くてたまらない。私が折れて歩き出した。
人通りがほとんどない道を早足で戻る。ヘンリーさんは裸足な上に膝上丈の女物のコート一枚だ。寒かろうと気が揉める。
誰にも見とがめられることなく無事に『隠れ家』に戻った。私の服で着られそうなズボンを貸すと言ってもヘンリーさんは「これで十分」と言って頑なに断る。頑固だね!
「では風邪をひかないうちに急いでお屋敷に戻ってください」
「このお礼は必ずします」
「いい、いい。早く帰って。あと、お礼を気にするなら私の前でも『俺』でお願いします。じゃ、おやすみなさい」
ヘンリーさんは小声でごにょごにょと何か言っていたけれど、薬を持たせて背中を押すようにして帰した。(風邪を引かないでね)と願いながら見送った。