14 ハウラー子爵家へ
翌朝、まだ暗いうちに起きて、そーっと足音を立てないように階段を下りた。それでも足音は聞こえていたらしく、大きな黒猫が暖炉の前に座ってこちらを見ていた。
「おはようございます、ヘンリーさん。戻らなかったんですね」
「おはようございます、マイさん。戻りませんでした。ハウラー家へ手紙をお願いします。本当に申し訳ありません」
「親切にしたいと思っている人に謝るのはやめてくださいな。お役に立てることが幸せと思う人間もいるのですよ?」
外はまだ夜が明けたばかり。心は急くが、この時間に初めての家を訪問するのはいくらなんでも非常識だ。
「まずは朝ごはんを食べましょう。私と同じものでいいのですよね?」
「はい、マイさんと同じものをお願いします。お世話になります」
「わかりました。朝ごはんを食べ終わったら、手紙を代筆しますね」
「助かります。お手数をおかけします」
目玉焼き、厚切りベーコン、ゆでたブロッコリー、昨日の残りのコンソメスープ、干しぶどうパン、それとバター。猫の手では食べにくいだろう。かと言って私の前で皿に口をつけて食べるのは嫌なのでは?
「私が料理を小さく切ってスプーンで食べさせて差し上げます」
「いや、さすがにそれは」
「私が食べさせたいんです。猫にスプーンで食事を食べさせるなんて、たぶん一生できないでしょうから。やらせてください」
「そうですか。ではお言葉に甘えます。器に顔を突っ込んで食べる姿をあなたに見られるのは、さすがに情けないと思っていたところです」
目玉焼きを切って食べさせ、ちぎったパンを食べさせる。スープはスプーンで少しずつ。ヘンリーさんは猫になっても食べ方が上品できれいだ。時間はかかったが、完食してくれた。私も合間に自分の食事を食べ終えた。
「美味しかったです。では、申し訳ありませんが代筆をお願いします。私の実家のハウラー子爵家まで届けていただけますか?」
「子爵家……。わかりました。では代筆いたしますね」
そうじゃないかなとは思っていたけれど、ヘンリーさんはやっぱり貴族のご令息だった。
平民から見たら貴族は雲の上の人だ。それはこの世界に来てから経験で学んだ。日本人の私にはショックなことも多かった。
道で出会ったら素早く私が道を譲らなければならないことに思い至らず、最初の頃は何度か貴族の使用人に暴言を吐かれた。だから今、ヘンリーさんの実家が子爵家と聞いて、ヘンリーさんが遠くなったような気がして、ちょっとだけ寂しい。
代筆した手紙の内容は、「猫に変わってしまって元の姿に戻れないこと、行きつけのカフェに泊めてもらったこと、手紙を届けた人がその店長であること、職場に休む旨を連絡してほしいこと」だった。
「では手紙を届けてきます。待っていてください」
教えてもらった住所を頼りにハウラー子爵家を目指した。
ハウラー子爵家は立派なお屋敷で、門番さんがいた。私が用件を告げると、それまでは「こんな朝っぱらから何の用だ」みたいな雰囲気だった門番さんが急に丁寧な対応になった。
「坊ちゃんからの手紙ですか? ここでお待ちいただけますか? すぐに取り次ぎます」
走り去った門番さんがきちんとした身なりの男性を連れて来た。その男性に代筆した手紙を渡すと、家の中に通され小部屋で待たされた。男性はこのお屋敷の執事だそうで、すぐにハウラー子爵と会わせてくれた。
ハウラー子爵は細身の銀髪の男性で、ヘンリーさんの話で聞いていたとおりの穏やかな雰囲気の人だ。
「手紙を読みました。今、ヘンリーはあなたの家にいるのですね?」
「はい。元に戻れず、今も黒猫のままです。大人になってから猫になったのは初めてだそうで、無断欠勤になることをとても心配しています」
するとハウラー子爵が苦笑した。
「このような一大事に、心配するのが仕事のこととは。実にヘンリーらしい。お嬢さんはマイさんと言ったね。このたびは息子が世話になった。息子の姿を見て、さぞかし驚いたでしょう。息子を助けてくれてありがとう。すぐに迎えの馬車を出すので、執事と一緒に乗ってほしい。城には使いの者を出して、具合が悪いから休むと伝えよう」
「承知しました」
「それと、今回のことだが……」
言葉を選んでいる様子に、何が言いたいのかすぐにわかった。
「ヘンリーさんの秘密のことでしたら、誰にも言うつもりはありません。秘密を守ることに対して何も要求しません。ヘンリーさんは大切なお客様です。ヘンリーさんの秘密は絶対に守ります」
「あなたを疑っているわけではないんだが、そう言ってもらえると安心だ。息子を迎えに行って、またここに戻ってきてもらえるだろうか。ゆっくり話したいことがある」
「かしこまりました」
私は執事のジュードさんと一緒に馬車に乗った。初めて乗った馬車は、思ったより振動がくる。石畳の継ぎ目が数えられそう。でも内装は豪華。座面がビロードみたいな布張りだ。
店の前に馬車を横付けし、ジュードさんと店内へ。猫ヘンリーさんは暖炉の前にいた。ジュードさんは大きな黒猫を見てもヘンリーさんだと確信が持てないようで、及び腰だ。
「ヘンリー様……でしょうか?」
「ジュード、すまない。私だよ」
「ああ、坊ちゃん! 大変でございましたね」
「元に戻れないんだ。屋敷まで連れて帰ってくれるか?」
「もちろんでございます。お屋敷に帰りましょう。ささ、私と一緒に」
「マイさん、お世話になりました。助けてくれてありがとう。このお礼は必ず」
猫ヘンリーさんが律義なことを言う。いいのに。モフらせてくれたから十分なのに。
「子爵様が私にゆっくりお話ししたいことがあるということでしたので、私も一緒に行くのです」
「そうですか。重ね重ね申し訳ないです」
私は『臨時休業』と書いた紙をドアに貼ってから馬車に乗り込んだ。たまには臨時休業もいいさ。
ハウラー子爵家に到着したが、奥の部屋に着くまで他の使用人を見かけなかった。私のときにはちらほら使用人を見かけたのに。猫ヘンリーさんを見せないようにしているのだろうか。
私と子爵様、猫ヘンリーさんの三者で話し合いになった。
子爵と猫ヘンリーさんはそれぞれが一人用のソファーに並んで座り、私は子爵と向かい合う席に座るよう勧められた。猫ヘンリーさんは一人がけのソファーの上で背中を丸めている。
「マイさん、私のせいで店を休ませてしまい、申し訳ありませんでした」
「たまに休むぐらい、なんてことありません。心配はいりませんよ」
そこで子爵様が沈痛な面持ちで話を始めた。
「ヘンリーは産まれてすぐに養子になって以来、このような姿になったことは一度しかない。そのときは高熱が出ていたが、今回は体調に問題がなさそうだ。なのに今になってなぜこんな姿になったのか……。マイさんはそのときにヘンリーと居合わせたとか。なにか原因になりそうなことがなかったか、気づいたことがあったら教えてほしい」
「ヘンリーさんは私と二言三言しゃべったところで立ち上がったのですが、そのときにはもう具合が悪そうでした。深酔いしているのかと心配になって後を追いかけて外を探して、見つけた時にはすでにこの姿でした」
子爵様は隣でうなずいている猫ヘンリーさんを見ながらため息をついた。
「ご存じのように、この国には獣人がほとんどいない。もしいたとしても獣人であることを隠しているだろう。この国では、獣人であることを知られていいことはないからね。獣人国と交流がないゆえに、我々には獣人に関する知識がほとんどない。ましてや人間と獣人の間に生まれた者は、私の知る限りヘンリー以外聞いたことがない。ヘンリーがこの状態からどうやったら戻れるのか、私には皆目見当がつかないのだよ」
「ヘンリーさんを産んだお母様に聞くのがいいのでは?」
「私はヘンリーの母親がどこにいるのか知らないんだ。ここは少し様子を見ようと思う」
あれ? 実の母親にはときどき会っていると言っていたよね? そう思いながらヘンリーさんを見ると、小さく首を振っている。あっ、そうだった。養父母はヘンリーさんが母親に会っていることを知らないんだっけ。
「父上、少し二人で話をさせていただけますか」
「マイさんとか? どうしてだい?」
「こうなる前の店の状況などを、二人で確認したいのです。マイさんが何をしゃべっていたか、私の隣で何を飲んでいたか、全て確認したいのです。それはマイさんの個人的なことでもありますので」
「そうか。ならば席を外そう。何かわかったら必ず私にも知らせるように。お前は少し様子を見たほうがいい。五歳のときと同じように、自然に戻るかもしれない」
「はい。わかりました」
子爵様は部屋を出て行き、私と猫ヘンリーさんだけになった。
「何も言わないでいてくれてありがとう。養父母は母の居場所も、私が母に会っていることも知りません。私が実の母に会っていたことを知れば、育ててくれた両親が傷つくでしょう。とても優しい人たちなので、それは避けたいのです」
昨夜話を聞いていたときに、(この人は自分の境遇を恨む言葉を吐かないな)とは思ったけれど、養父母のことも傷つけたくないんだね。優しいなあ。
私のおばあちゃんも優しかったけれど、神様はこういう優しい人に重荷を背負わせるのが好きよね。根性悪いのよ、神様って。同じクラスだったら絶対に友達になりたくないタイプよ。
「迷惑ばかりかけて心苦しいですけど、マイさんにしか頼めないことがあるのです」
「いいですよ。任せてください」
「何も聞かずに引き受けるんですか?」
「私にできることならやります。私がいつか困ったことがあったら、ヘンリーさんに助けてもらうかもしれませんし」
「そのときは必ず力になります。それで、頼みたいことですが、今夜、この屋敷を抜けだして母に会いに行こうと思います。その際に一緒に私の母と会ってくれませんか? 父は様子を見ろと言いますが、様子を見ていて手遅れになるのが恐ろしいのです。このまま人間に戻れなかったらと思うと……絶望します」
頭の中で言われたことを整理したけど、今頼まれたことは良くない方法のような気がする。
「なぜこちらのご両親に内緒で行動するんですか? お母様に事情を話して、解決策があるか聞くだけですよね? こっそり家を抜け出して途中でなにかあったら、余計厄介なことになりますよ」
「それは……私の実父の立場が関係するのです。ちょっと待ってください」
そう言って猫ヘンリーさんは半開きにされているドアにタタッと駆け寄り、左右を見る。戻ってくると「こちらへ」と言って私をドアから最も離れた窓際にいざなった。
「私が実母に会って話を聞きたいと言い張れば、こちらの父が実の父に相談するでしょう。父の周囲の人間にこの事態を知られるのは、とてもまずいのです」
「それは、跡継ぎ問題とか、そういう理由ですか?」
「そうです。子爵家に自分の子供を預けるぐらいですから、私の父はもっと上の爵位の貴族のはずです。父に隠し子がいて、それが半獣人だと知られたら……家の名誉のために狙われるのは私の命だけでは済まないでしょう。母も口封じのために狙われる可能性があります。母は父から、いえ、父の周囲の人からも隠れて暮らしているのです。母を危険に晒すわけにはいきません」
一番しんどいのはヘンリーさんなのに。いつでも周囲の人のことを考えるところに胸が痛んだ。
「母は裕福な平民のお嬢さんたちが集まっている女学院の寄宿舎で下働きをしています。場所が場所なので私がこの姿で会いに行くわけにはいきません」
「女学院の寄宿舎……。確かに騒ぎになりますね。大丈夫、同行しますよ。何時にします? 私が同行するにしても、あまり遅い時間はまずいでしょう?」
「では夜の七時に。この屋敷の門から西へ進むと、赤松の林があります。そこで待ち合わせをしましょう。宵の口ではありますが、くれぐれも気をつけて」
「わかりました」
大丈夫。私は魔法が使えるのですよ、と胸の内でつぶやいて微笑んだ。
その後、ヘンリーさんが子爵様に「これといって思い当たることがなかった」と報告して私は『隠れ家』に戻った。