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13 ヘンリーの自覚

 マイが階段を上がっていき、ヘンリーはポスッと毛布に伏せた。暖炉の前で温まりながら、怒涛の一日を思い返す。

 その日の朝、国土整備大臣にいちゃもんをつけられた。


「魔法使いに街道の整備をやらせたい? 効率が悪くても普通の人間にやらせればいいだろう。陛下のご指示がある。貧しい者たちに賃金が支払われるようにすべきだよ」

「その点は問題ありません。一般人に工事をさせつつ、魔法使いにも土魔法で工事を手伝わせたいのです」


 街道整備は当初の予定からだいぶ遅れている。ヘンリーの部下たちは、その街道を利用する領主たちからやいのやいのと催促を受けていた。だからキリアスの了承を得て、魔法部の予算を削った分を工事の報酬で補うつもりで工事の計画を練り直した。

 

 だが、貴族の苦情を代理人から訴えられるヘンリーたちとは違い、大臣はヘンリーが文書化したものに目を通すだけだからお気楽に文句を言う。

 魔法使いたちは魔法使いたちで「余計な仕事を増やされたくない」と言う。そして「予算がもっと欲しい、今の予算を減らされるのは納得いかない」と繰り返す。


 魔法使いたちをまとめる立場のキリアスはもう少し理解してくれるのだが、土魔法に優れる彼は今、遠くの崖崩れを片付けに出かけていていない。


「この工事に参加すれば、前から欲しいと言っていたダイヤが買えますよ。何かの魔導具で必要なのでしょう?」

「そうですけど、工事に協力していたら魔導具を使って実験する時間がなくなるじゃないですか。本末転倒ですよ」


(時間はいずれできるじゃないか。いつまで駄々をこねるんだ。子供か!)と言いたくなるのをグッと堪える。ヘンリーは生まれてこのかた、人に向かって声を荒げたことがない。文官の今は『争いを起こさず敵を作らず職務を全うする』がヘンリーの信条だ。


 ヘンリーの先輩で、仕事ができるのに普段の言動が災いして敵が多く、仕事を効率よく進められない人がいる。結局仕事で成果を出せず、本来は優秀なのに今ではヘンリーの部下の位置にいる。あれは文官として非効率な生き方だと思っている。


「もっと時間を取られない仕事なら引き受けますけど」

「そういう仕事は対価が格安です」

「酷い」

 

 勝手なことをいう両者にイライラしていた。

 だから酔ってうっかり耳が出てもいいようにフードつきコートを着て『酒場ロミ』に憂さ晴らしに行ったのだ。


 酒場に詳しいわけではないので、(マイさんが一人で通っている店なら安全だし旨かろう)と思ってロミに向かった。心の片隅に(運が良ければマイさんも来るかも)という願望があったことは否定しない。


 ほろ酔い加減のときに自分の右隣に客が座り、匂いで(マイさんだ)と気づいたのだが。

 挨拶の声をかける前に店主とマイが話を始めてしまった。会話が終わったらと思っているうちに話を聞いてしまう。話の内容にショックを受けた。

 

(どうやらマイさんは恋人と春待ち祭りを楽しむつもりらしい)

 

 そう思ったら急に腹の奥が熱くなり、あっという間に耳と尻尾が出た。

(フードを被っていて本当によかった)と思ったが、体の熱はどんどん沸き起こる。気がつけば手の甲に柔らかな黒い毛が生えだしたから慌てた。


(子供の時は高熱が出ていた時に猫になったけれど、なぜ今? この体格で猫になったら大騒ぎになってしまう)


 すぐさま店を出た。どんどん身体が変わっていくのに気づいて慌てた。恐怖を感じたと言ってもいい。手指が人間の形をしているうちにと、急いで服を脱いだ。

 

 恐慌をきたしている最中に(人間の服を着たまま猫の姿になれば、身動きが取れなくなる)と気づいた自分を褒めてやりたい。服のなかで動けなくなった巨大な猫を見れば、すぐに獣人だと気づかれる。下手をすれば命の危険がある。この国のほとんどの人間は獣人を見たことがなく、獣人を人間とは思っていない。

(普段どれだけ仕事をしようとも、どれだけ敵を作らないよう気をつけていても、こんな姿を見られたらもう……全て台無しだ)


 衣服を脱ぎながら緊張と恐怖で吐き気がした。

 全ての衣服を脱ぎ終わるころにはもう、二本足では立っていられない体になっていた。今、心を占めているのはカウンター席で聞いた話だ。

 

(マイさんには親しく夜を過ごす恋人がいる)


 顔も知らないどこかの男とマイが一緒にいるところを想像すると、猛烈な嫉妬心が沸き上がる。心のどこかで(この鋭い爪と牙でその男を引き裂いてやりたい)と思う自分にゾッとする。


(人を襲ったりしたら俺の人生は終わりだ。何よりも嫉妬で人を傷つけるなんてこと、絶対にしたくない)という冷静な気持ちと(マイさんを奪われたくない。絶対に嫌だ)という荒々しい感情に心が揺れる。

 こんな感情は二十五歳まで生きてきて初めてのこと。安寧を旨として生きてきた自分とは別人のようだ。

 

(とりあえず今はマイさんに見つからないようにしなくては)


 それだけを願って暗闇に隠れた。

 ところがマイはヘンリーを捜しにきた。ヘンリーの変わり果てた姿を見ても怖がらない。むしろ普段よりずっと優しくしてくれる。それがもう、泣きたいほどに嬉しい。けれど優しくされればされるほど、この身が情けない姿に思える。

 

 獣人の母と人間の父の間に生まれたヘンリーは、人間としての恋愛は望めないと諦めていた。だから心惹かれる女性もいなかった。『隠れ家』に通うようになってから、ずっとマイを好ましく思っていたが、自分の気持ちを伝えるつもりは全くなかったのに。


 筆頭文官ヘンリー二十五歳は、こうなってやっと(俺はマイさんが好きなのだ)と諦めて認めるしかなかった。それでも、あの時のおぞましく醜い心情のせいで猫になったとは、絶対に知られたくない。

 暖炉の炎を頼りに自分の姿をしげしげと見る。


「マイさんの匂いが毛皮に残っている」


 フンフンと背中の匂いを嗅ぎながら、自分を撫でているときの彼女のうっとりした顔を思い出す。


「マイさんはこの姿を猛烈に気に入っているらしい。猫として、だけどな」


 嬉しさ半分、困惑半分というのがヘンリーの正直な気持ちである。



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