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12 私が話す番

 黒猫のヘンリーさんは「ナァン?」と鳴いてから慌てて「んんっ!」と咳払いした。鳴き声をごまかしたつもりだろうか。


「失礼。あまりに驚いたもので。この世界の人間ではないのなら、どの世界の人間なんです?」

「この世界とよく似ているけれど、全く別の世界です。私はその世界でも飲食店をやっていました。でも、体調を崩して病院に行ったら、病が手遅れの状態だとわかったんです」


 そう言って自分の手を見る。痩せて骨とスジが浮いていた手の甲は、健康的なふっくらした手に戻っている。ヘンリーさんは言葉を差し挟まず、私が話すのを待ってくれている。迷った結果、魔法の話もすることにした。魔法の話を抜きで語れば新たな秘密が生まれてしまう。


「あちらの世界のお医者さんに『もうあまり時間がない』と言われたの。最後はもうしゃべることも苦しかった。そんなときに祖母が『その世界に行けば、お前は一人で生きていくことになる。その代わり、健康な体でやり直せる』と言って、魔法の知識と魔力を私にくれたんです。……でもこんな話、信じられませんよね」


 自分で言っていても嘘くさいと思うもの。笑われるかと思ったけど、ヘンリーさんは笑わなかった。

 

「申し訳ないのですが、あなたが言う『別の世界』という概念が、まだ理解できません。わかるのは、あなたのおばあ様が魔法使いだったってことです。それも知識や魔力を人に与えられるような高等な魔法を使える魔法使いだ。そしてこの世界を知っていた。あなたの言うあちらの世界にも魔法使いがいるんですね」

「いません。魔法使いは想像の世界にしかいない存在なんです。私はその時まで祖母が魔法を使えるなんてこと、全く知りませんでした。だから私は祖母の頭がおかしくなったと思ったのです。ところが私は本当にこの世界に送り出されたのですよ。末期だった病はこちらに来た時にはもう、消えていました。祖母は真実を語っていたのです」


 真剣に聞いてくれたヘンリーさんの次の質問は、意外な内容だった。


「おばあ様は何歳です?」

「七十八歳です」

「お名前は?」

「佐々木りよ。佐々木は祖父の苗字です。祖母の実家の苗字は後藤ですが、祖母の実家の話はほとんど聞いたことがありません。実家とは疎遠だったみたいです」


 真剣に聞き入っていたヘンリーさんが後ろ足でカッカッカッとあごをかいた。無意識にやっているらしく、その後も真面目な顔だ。小さな声で「それってまるで……」とつぶやいたあとはまた考えこんでいる。

 それよりヘンリーさん、私が魔法を使えるかどうか聞かないの?


「祖母のことで何か気になることが?」

「いえ、まだなんとも。憶測を口にするのは性に合わないので、調べてからにします」

 

 そのあとのヘンリーさんは考え込みながら長い尻尾を左右に振っている。尻尾が床にぶつかるたびにタシンタシンといい音がする。長くてすんなりした尻尾だ。


「だいぶ時間が経ちましたけど、どうですか? 人間に戻れそうですか?」


 黒いヒゲがまた一瞬でシオシオと下を向く。


「全くです。この姿に変わる前は体の中がカッと熱くなってから全身がムズムズしたのですが、全くそんな気配がありません。もしかすると人間の姿に戻るときは熱っぽい症状はないのかもしれません。何しろ前回は二十年前で、しかも高熱を出したときだったので何も覚えていないのです」

「そうですか……。とりあえずその姿で宿舎に帰るわけにいかないでしょうから、今夜はうちに泊まっていってください」

「いえ、女性の家に泊まるのはさすがに遠慮します。よければ軒下で寝かせてください」

「真冬に外で寝るんですか? 元は人間なんですから絶対に風邪をひきますって。それにこんな大きな猫を見たら、みんな驚くし怖がります。大騒ぎになりますって。攻撃してくる人だっているかもしれません。うちに泊まってください。そこは譲れません」


 真剣に勧めた。心配しているのは本当に本当だ。ただ……少しだけ、ほんのちょこっとだけ、(このを手放したくない!)と思っているけど、それは仕方ないのよ。やまいだから。おばあちゃんも「マイの猫好きは病の域だね」と何度も言っていたっけ。


「そうですね。確かに騒動を引き起こすのは避けたいです。ここで眠ってもいいでしょうか」

「もちろん! そうしてください」

 

 その夜、人間に戻れずしょんぼりしている様子のヘンリーさんのために、毛布をたたんで暖炉の前に置き、寝床を作った。(箱を用意したほうがいい?)と思ったけど、あまりに猫扱いするのは失礼だろうとやめておいた。

 暖炉の薪を足してから声をかけてみた。


「あの、もし、もしもですよ? 明日の朝も猫のままだったら、出勤できませんよね? 無断欠勤はまずいでしょう?」

「無断欠勤した上に宿舎にも帰らないとなれば、何かあったと思われるでしょうね。はぁ。本当に困りました。私は規則を守り安寧を旨として生きているのに。無断欠勤して行方不明と思われるなんて、堪えがたいことです」

「その時は私が連絡係になります。どこの誰に知らせればいいですか?」


 猫ヘンリーさんは目を見開き口を開けて「助かった!」という表情をした。なにそれ、可愛い。人間のときよりずっと表情が豊かだわ。

 

「大変助かります。では、明日になっても私が人間に戻れなかったら、私の養父に手紙を届けてもらえますか?」

「わかりました。手紙は私が代筆します。服はここにありますから、人間に戻ったら着てくださいね」


 ヘンリーさんがしょんぼりしつつうなずいた。


「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」

「どういたしまして。私もこの世界に来たばかりのとき、親切な夫婦に助けてもらいました。困ったときはお互い様です。それで、厚かましいお願いなのはわかっているんですけど……少しだけ撫でてもいいですか?」

「え? ああ、猫好きでしたね。どうぞ。こんな体でよければ、好きなだけ撫でてください」


 ズイ、と頭を差し出された。ふおおおっ!


「では失礼いたします」


 膝をつき、手のひらで丸く滑らかな頭を撫でた。おおお。毛皮がふわっふわだ。最上の手触り。頭を散々撫で、背中を撫で、喉を撫でるとヘンリーさんは「ドウルルルルル」と低い音で喉を鳴らした。

 ああ、猫はいい。しゃべる大猫なんて最高だ。しかもこのサイズ。ヒョウやライオンを撫でているような高揚感さえ感じる。

 本当は猫ヘンリーさんを仰向けに転がして腹に顔を埋めたいけど、それはダメ、絶対。今は猫になっているけど、これはあの真面目なヘンリーさんだっ! 


 しばらく撫でたけど、際限なく撫でてしまいそう。断腸の思いで切り上げた。


「ありがとうございました。猫成分を満タンまで補充できました。思うさまモフることができて幸せです。ありがとうございました! ではおやすみなさい」

「おやすみなさい、マイさん」


 店から二階に行こうとしたら背後で「満タン? モフる?」とヘンリーさんがつぶやいた。思わず目を閉じて「くっ」と呻いてしまった。可愛すぎるよ、猫ヘンリーさん。

 二階の寝室に入り、「さむっ!」と言いながらベッドに入った。そっと手のひらの匂いを嗅いだら猫の日向っぽい匂いではなく、ヘンリーさんの使っている石鹸の匂いだった。「猫の匂いじゃないのか」と、そこは少しだけ残念だった。


 ベッドに入り、あれやこれやを思い出すと、ヘンリーさんが半分猫獣人のサインは随所にあった。


 ヘンリーさんと一緒のとき、猫たちが全く姿を見せなかった。あれはヘンリーさんの猫の気配を察知して出てこなかったのでは? 巨大猫だものね。そりゃ用心もするわ。

「猫が好きなんですか?」と聞いてきたとき、ヘンリーさんは妙に真剣じゃなかった?

 それに圧倒的猫舌。(そんなに冷ますの?)って思うくらい熱いものは食べなかった。

 走る姿がとても美しいのもそう。今思えばネコ科の動物が走っているみたいに軸がブレずに走っていて美しかった。

 文官として毎日事務仕事をしているのにしっかり筋肉がついているのも、半分猫なら納得だ。


「そっかぁ。猫だったかぁ」

 

 旧大陸に獣人が暮らしているのなら、そこには猫型獣人がたくさんいるということだろうか。海の向こうならそうそう簡単にはいけないだろうけれど、いつか旧大陸に行ってみたいなぁ。猫型獣人は猫の姿のまま……じゃないね。ヘンリーさんのお母さんが洗濯係として働いていたのなら、普段は人間の姿だったわけだ。

 

「ああもう、この世界、あっちと似ているようで全然違うじゃないの。知らないことばかりだわ」


 だけど今後はわからないことがあれば博識そうなヘンリーさんに聞くことができる。これは素晴らしいことよ。やっぱりヘンリーさんに話してよかった。


『マイ、笑って生きるんだよ』と言っていたおばあちゃんは、獣人のことを知っていたのだろうか。さっきからずっとおばあちゃんがくれた知識を探っているのだけど、獣人という言葉が見つからない。受け渡されたのは魔法の知識ばかりで、この世界や獣人や他国の情報は、ほぼゼロだ。


 私の脳に干渉して一気に大量の知識を注ぎ込むのには量的に限界があったとか?

 それにしてもあの魔法はどうやったのだろう。私もあの魔法を使えたら、ヘンリーさんに私の世界の知識を注ぐことができて、言葉で説明するよりずっと……。


 いや。いやいやいや。この発想は危ない。私は魔法を学び始めてまだ七ヶ月。素人に毛が生えた程度の初心者だ。他人様の脳にそんなことをして失敗したら、ヘンリーさんの脳にダメージを与えるわ。やめよう。


 その夜は猫ヘンリーさんの毛皮の手触りを繰り返し思い出しながら、満たされた気持ちで眠った。

 

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