11 すごく大きな秘密
馬=誕生時約50kg▶︎アラブ種で400kg
虎=誕生時約1kg▶︎100〜300kg
ヘンリーさん=78kg(身長190cm)
前話で、巨大な猫を馬と虎どちらに例えるべきか迷って子馬に例えました。
暗闇から現れたのは、黒豹に似ているけれど豹ではなかった。顔が猫。
猫に話しかけられて最初に思ったのは(さすが剣と魔法の国。しゃべる大猫もいるのね)というのんびりした感想。
なにせ私はこの国のことで知らないことが多いから。
「猫さん、今のはあなたがしゃべったのかしら?」
「そうです。その服を持って行かないでください。人間に戻ったら裸で歩くことになってしまう」
人間に戻る?
猫の声は聞き覚えがないのに、口調には聞き覚えがあった。ヘンリーさんの服、ヘンリーさんの口調でしゃべる猫。この二つがやっと結びつき、あんぐりと口が開いた。そのまま黒猫と見つめ合うことしばし。
ハッと我に返って一度口を閉じてから猫に話しかけた。
「あなたもしかして」
「そのもしかです。ヘンリー・ハウラーです。その服を持って行かないでください」
「わかりました。持っていきませんけど……。ヘンリーさん、なんで猫になっているの? それって普通にあることなの?」
「全く普通ではありませんよ。マイさん、全然怖がらないんですね」
「だってヘンリーさんですもの」
巨大な黒猫が暗闇から一歩私に近づき、「はぁぁ」と実に人間くさくため息をついた。
「私がどうしてこうなったかをお話しするには、長い時間がかかります。そのうち人間の姿に戻りますので、私のことは気にせずお帰りください。私が元に戻ったとき、裸の男と対面したくないでしょう?」
「ヘンリーさんの裸を見たいわけじゃないですけど、それ、元に戻れるんですね?」
「たぶん……戻れます」
自信がなさそうな猫というものを、初めて見た。
「たぶん? じゃあ、戻れないかもしれないの?」
「こんな姿になったのは五歳のとき以来なので」
「では元に戻ったのを確認してから帰ります。戻れなかったら一大事じゃないですか」
「そうなんですよね……」
そこからは互いに沈黙。私はずっと大猫のヘンリーさんを見ていたいけど、本当に不本意な状況らしい。そんな人、いや猫を見つめているのは気の毒か。だから隣に並んでしゃがみ、前を向いてしゃべることにした。
「人間に戻るまでの間、どういうことなのか聞かせてくれませんか? ヘンリーさんが猫になるなんて現実とは思えなくて。あれ? 私、猫成分が不足しすぎて夢を見ているのかな?」
「猫成分? いえ、夢ではありません。現実です。事情が複雑なので全てはお話しできませんが、要点だけなら」
「要点でお願いします」
そこから語られた猫ヘンリーさんの話に、この世界に疎い私はたいそう驚いた。
「獣人が住んでいるのは遠く海の向こうの旧大陸です。この新大陸には獣人がほとんどいません。私の母は猫型獣人なんです。私は滅多に生まれないと言われる獣人と人間の間にできた子供です。私が半獣人だと知られたら文官の仕事を失うでしょうし、養子先は体面を失います」
ヘンリーさんのお母さんが妊娠後に相手の男性の前から姿を消したのは獣人だから? それにしても仕事や体面を失う? 獣人であることは悪いことなの?
「今のお話にはいろいろ疑問がありますが、一番の疑問は、五歳の時以来猫になっていなかったのに、なぜ今、猫になったのかです」
「私にもわかりません。異常な熱のようなものが体内から湧き上がってきて変身が始まったので慌てて外に出たのですが、すぐこの姿に」
「なにかきっかけが?」
「変身の予感がしたのは……マイさんたちの会話を聞いたときです」
大きな黒猫がしょんぼりしている。
こんな時に不謹慎なのはわかっているけど、とても可愛い。うなだれているその背中を撫でて、ヨシヨシ大丈夫だよ元気出しなさいと慰めてやりたい。猛烈に触りたい!
しかし、これは猫に見えてヘンリーさんだ。うずうずする両手をグッと握って堪えた。
「マイさんに心配をかけて、申し訳ない」
「私は好きでここにいるのですから気にしないで。誰だってなにかしら隠しておきたい秘密があるものですよ」
「誰だって? マイさんにも?」
「ヘンリーさんのこの秘密に匹敵するほどの大秘密がありますね」
私の場合、人に言えることの方が少ない状況ですよ。
「私も一人で抱えているのがそろそろ重荷になっている秘密があるんです。ヘンリーさんの大きな秘密を知ってしまったので、私も秘密をひとつお話ししましょうか? それともそんな話は不要でしょうか」
「私が聞いてマイさんが楽になるのであれば、秘密を聞かせてもらえますか?」
「わかりました。ちょっと待ってください。あ、ありました」
私はポケットを探って店の鍵を取り出した。鍵を両手で挟み、素早く左手で握ってから二つのゲンコツを猫ヘンリーさんの前に並べた。
「私にはすごく大きな秘密とかなり大きな秘密があります。どちらの手に鍵が入っているかを当てたら、すごく大きな秘密。外したらかなり大きな秘密を話します」
「どちらも大きな秘密じゃないですか。それ、私が聞いていいんですか?」
「私もヘンリーさんの秘密を知りましたし。それに、秘密って誰にも愚痴を言えないし相談もできないでしょう? 誰かに聞いてほしいことが、私にはありすぎるんですよね」
大黒猫が私に近寄った。見れば見るほど大きい。ヘンリーさんだと知らなければ恐怖を感じる大きさだ。けれど優美で美しい。ヘンリーさんは整ったお顔だけど、この猫も美猫だ。ツヤツヤの真っ黒な毛並み、暗いから瞳孔が真ん丸でキュート。ピンと張り出している黒いヒゲ。ああ、触りたい。撫でまわしたい。
「本当に私が聞いていいんですね? 当てますよ?」
「どうぞ。私が誰かに秘密を打ち明けるとしたら、こんな秘密を知ってしまったヘンリーさんしかいませんし」
「手の匂いを嗅いでも?」
「いいですよ」
猫ヘンリーさんは私の拳に鼻を近づけ、しっとり濡れていそうな鼻をヒクヒクと動かす。くうっ、可愛くてたまらん!
「こっちですね」
そう言いながら前足で私の左手に触れる。大きな肉球が柔らかい。私は両手を開いて鍵を見せた。
「当たり。においでわかるんですね」
「鉄のにおいはわかりやすいです」
「当たりだったのですごく大きな秘密をお話ししますが、まだ人間には戻れそうにありませんか? 私の話も結構時間がかかる内容なんです」
「それですが……いつ戻れるのか自分でもわからなくて。今、かなり焦っています」
「それなら私の家に来て、戻るまで暖炉の火にあたりながら聞きませんか?」
猫ヘンリーさんがエメラルドの瞳を左右に揺らして迷っている。じっと返事を待っていると、コクリ、とうなずいた。
「お願いします」
「では行きましょう!」
ちょっと声が弾んでしまったのは仕方ない。だって、ついに猫を我が家に招き入れるんだもの。しかもしゃべる超大型の猫。最高オブ最高じゃないの。
猫ヘンリーさんは歩く姿が優美だ。そういえば走る姿が滑らかでとても美しかったっけ。あれは半分猫だからなのかもね。
ヘンリーさんにとっては非常事態なのに顔がニヤつきそうになる。ニヤけないよう奥歯を噛みしめながら歩いた。なるべく人通りがない道を選んで歩く。繁華街から離れるととたんに夜道は暗く、黒猫は闇に溶け込んで目立たない。この世界に月がなくてよかった。
家に入り、暖炉に火を起こす。ヘンリーさんはヒゲが焦げそうなくらい暖炉に近づき、喉をゴロゴロと鳴らしている。そして喉を鳴らしている自分に途中で気づいたらしく、ゴロゴロをやめてからチラリと私を見た。
「どうぞ。お好きなだけ喉を鳴らしてください。猫成分を補給させてもらっていますから」
「猫成分……」
「温かいお茶はいかがです? あっ、お茶は猫によくないですよね?」
「いえ、いただきます。猫の姿でも中身は人間ですので。この姿になってもネズミを食べたりはしません」
「なるほど」
抱えてきたヘンリーさんの服をシワにならないように椅子にかけ、厨房でお茶を淹れた。そのお茶を別のカップに移して温度を下げるのはいつものこと。ヘンリーさんは猫舌だからね。
「さ、どうぞ。お茶です。飲み頃ですよ」
「いただきます。申し訳ありませんが、飲んでいる姿を見ないでいただけますか」
慌てて背中を向けた。背後でピチャピチャとお茶を飲んでいる音がする。
「もういいですよ。美味しかったです。では今度はマイさんの秘密を聞かせてください」
「ええ、お話しますけど、その前に質問していいですか?」
「どうぞ」
「服は自分で脱いだのですか?」
「ええ。服を着たままこの姿になったら、ボタンやベルトを外せなくなります。そして服の中で動けなくなりますから。誰かに見つかっても素早く逃げられるよう、急いで脱ぎました」
「ヘンリーさんは非常事態でも冷静ですねぇ。さすがはできる文官さんだわ。では今度は私が秘密をお話しします」
そう言ってヘンリーさんの隣に腰を下ろした。
(秘密をしゃべっていいの?)と思う用心深い私と、(一人で秘密を抱え続けるのがもうしんどい。秘密を打ち明けてつらい時は話相手になってほしい。それに、ヘンリーさんは信用できるよ)と聞いてもらいたがる私がいる。
ヘンリーさんの隣に体操座りをした。ヘンリーさんと並んで暖炉の炎を見ながら告白した。
「私、この世界の人間じゃないんです」