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1 おばあちゃんの餞別

 入院してからずっと、酸素吸入をしている。その私を、おばあちゃんがジッと見ている。私の心残りは、おばあちゃんと猫の太郎たろうのことだけだ。

 今日のおばあちゃんの表情が、昨日までの哀しみに満ちたものとは違う。妙に力強い。なんでかな。


「おばあちゃん?」

「マイ、私は今、とても後悔しているんだよ。なぜこうなるまでお前の病気に気づかなかったんだろうかとね」

「お医者さんも、言って、いたじゃない。進行する、まで、自覚しにくい、病気だって。私は何も、感じなかった。おばあちゃんの、せい、じゃない」


 本当におばあちゃんのせいじゃないよ。それは気にしないでよ。


「この世界はとても医療が進んでいるから油断していた。人々はみんな長生きで、八十近い私でさえ、かくしゃくとしている。この世界は便利で平和で、まるで天の国のようだと思っていた。でも絵里と博之さんは車の事故で亡くなった。そして今度はお前まで。この世界で生きていても死から逃れられないのは同じなのにね。私は本当にうかつだったよ」


 この世界って? なに言ってんの?

 私のことがショックでおかしくなったのだろうか。だとしたら困る。私はもう長くない。私がいなくなったあと、おばあちゃんはどうなるのか。


「マイ、独りぼっちで知らない世界に行くとしたら怖いかい? この世界のような便利さは全くない世界なのだけれどね」

「何の、話? あの世の、話?」


 おばあちゃんは首を振る。私は少し話をしただけで息苦しくなった。内臓にできた腫瘍は早い段階であちこちに転移していて、肺も病んでいる。打てる手はもう全部打った。あとは苦しまないように薬を投与するだけだと、昨日担当の先生が言いにくそうに教えてくれた。


「あの世の話じゃないよ。その世界に行けば、お前は一人でどうにかして生きていかなきゃならない。その代わり、健康な体でやり直せる。どう思う?」

「いいね。最高だわ」


 笑ってみせた。ハァハァと乱れた呼吸を整えて、今のうちに謝ることにした。


「ごめんね、おばあちゃん。まさか、二十五で、人生が終わると、思って、なかった。おばあちゃんに、孝行、たくさん、したかった。元気でやり直せたら、ほんと、最高なのに」

「そうか。わかったよ。できるだけの餞別せんべつは持たせる。新しい世界に行っても頑張るんだよ、マイ」


 やっぱりおばあちゃんは、おかしくなっちゃったんだな。困ったなあ。

 区役所に電話しておばあちゃんのことを頼まなくちゃ……。でもまぶたが重い。覚悟してほしいと、会いたい人には会っておいたほうがいいと主治医に言われたっけ。


 おばあちゃんが人差し指と中指で私の眉間に触れ、そのまま私の耳元で何かを唱え始めた。お念仏とは違うような。

 おばあちゃんの指先が温かい。その眉間から温かい何かが流れ込んでくる。眉間から入り込んだ何かは、ゆっくり全身を巡っていく。温かくて気持ちがいい。だけど眠ってしまう前に、区役所に電話をしたいよ。


「マイ、笑って生きるんだよ」


 ごめんねおばあちゃん。私、お世話になるばかりで恩返しができなかったね。太郎たろうに、私がもう帰らないことを伝えてくれるかな。夜太郎が私の帰りを待っていたらつらいんだけど。


「ごめんね、おばあちゃん」


 温かくて気持ちよくて、私はゆっくり目を閉じた。

 

 ◇ ◇ ◇


 目が覚めたら、私は質素な部屋のベッドに横たわっていた。人のよさそうな年配の夫婦がベッドの近くから見守っている。


「よかった。目が覚めたね。お嬢さんはうちの畑の真ん中で倒れていたんだよ。怪我はないようだけど、気分はどうかな」


 聞いたこともない言葉なのに私は自然に聞き取っている。

 そして、畑の真ん中って? 理解が追いつかず、ゆっくり起き上がった。

 

 (あれ?)

 

 私の体が思い通りに動く。眠り込む前まで身体を動かせないほど重くしていた疲労感と倦怠感がない。酸素吸入していないのに呼吸が楽だ。


「ここは……どこでしょうか」

「ここはオーブ村だよ」


 オーブ村? どこそれ。ベッドを下りて窓に歩み寄った。


「なに……これ」

 

 外には貧し気な家が散在している。遠くまで畑が広がっていて、そのさらに向こうには富士山を二つ並べたような形の高い山。しかも二つの山はいただきから煙を吐いている。あんな山、日本にはない。眠っている間に、どこに連れてこられた? おばあちゃんは今、どうしている?


「おばあちゃん……」

 

 少し立っていただけなのに、痩せて筋肉がなくなっている身体は立っていられず、その場でへたり込んだ。奥さんらしい人が私を抱えて立たせ、ベッドに寝かせてくれる。

 とにかくおばあちゃんのことが心配だ。

 

 しかし何回朝を迎えても事態は変わらない。自分が夢を見ているのではないと受け入れるまでに数日かかった。心は激しく波立っていたけれど、身体はすこぶる快調だ。


『お前は一人でどうにかして生きることになるけれど、健康な体でやり直せる』


 おばあちゃんが言っていたのは、こういうこと? おばあちゃんは、なぜこんなことができた?

 数日間、この考えを繰り返し、やがて納得できないまま受け入れた。

 どうやったのかは全くわからないけれど、これはおばあちゃんが私を生き続けさせるためにしてくれたことだ。とりあえずそれだけは無理やりのみ込んだ。

 

 それからの私は、生きることと、この世界に適応することに全力を注いでいる。今度こそ健康に生きたい。

 私は忙しく身体を動かすことで不安を忘れることにした。


 ◇ ◇ ◇

 

 畑でインゴさんとエラさんの夫婦に保護されてから二ヶ月が過ぎた。

 毎日、夫婦から様々な生活の知恵と技術を教わってきた。電気、ガス、水道が存在しない暮らしは、起きている時間の大半を食べるために使う。娯楽や教養に費やす時間なんてない。薪を燃やして煮炊きをし、広い畑をクワで耕して収穫する。使う水は全て井戸から桶で汲み上げる。


 日本にいたときはマッチさえ使ったことがなかった。そんな私がかまどの薪に火をつけるのにどれだけ苦労したことか。アウトドア好きでもない限り、金属製の火つけ棒ファイヤースターターを試してみたらきっとわかる。乾燥させたわらを使っても、薪が燃える前に藁の火が消えてしまうのだ。

 

 日の出と共に起き、粗末な食事で延々と働く。陽が落ちる前に帰宅する。日に二回の食事は自給自足。私は全身に筋肉が戻りつつある。今日は畑で青菜とニンジンと豆を収穫した。

 この世界に来たのは春の終わりの五月で、今は七月。夏だ。湿度が低くてカラリと暑い。


「おなか空いたなぁ。肉を食べたい。よし、今日も鳥を狩って帰ろう」


 おばあちゃんは『できる限りの餞別を持たせる』と言っていた。餞別とは『魔法』と『魔力』のことだった。私の脳に、学んだ覚えのない魔法の知識が大量にある。その知識を試したら魔法を使えた。今は少しずつ魔法を使えるようになっている。


 パニックと落ち込みからは完全に立ち直った。落ち込んだり悲しんだりしていてもおなかは空く。何もしない私が一日中働いている夫婦から食べ物を分けてもらう申し訳なさが、私を奮い立たせてくれた。

 

(働こう。働かずに食べさせてもらうわけにはいかない)


 そう決めるまで時間はかからなかった。

 こちらに向かって鳥が飛んでくる。鳥を見上げながら体内で魔力を練る。十分に魔力を練ってから指先に魔力を集めて鴨ほどの大きさの鳥を狙う。親指と人差し指でピストルの形を作って、空気を高速で発射した。


 鳥が空中で動きを止めて、ドサッと落ちてきた。

 動物を狩る罪悪感は、もう薄れた。肉を食べたかったら自分で狩らねばならないし、夫婦にとって肉は年に数回しか食べられない貴重なものだと聞いた。

 居候の私は、お礼を兼ねてせっせと野の鳥を狩った。夫婦には石を投げて狩ったということにしている。

 私が今使ったのは風魔法だ。ちなみに私を保護してくれた夫婦は魔法を使えない様子。

 

 働こうと決めてからは心が落ち着いた。痩せてしまった体で一日中畑仕事と家事を手伝い、倒れ込むようにして眠る毎日だ。毎晩へとへとになってベッドに横になるけれど、寝る前にやることがある。脳内に収められた魔法関連の知識を調べることだ。


『火魔法』の呪文を選んで唱えると、指先にロウソクほどの火が灯る。最初は消し方がわからず大慌てしたが、「消えろ」と念じれば火は消える。

 五種類の魔法の知識はあったものの、どれも最初はささやかな事しかできなかった。

 

 火魔法では、ろうそく程度の火。水魔法では、澄んだ水を大さじ一杯分くらい。風魔法では、弱々しい風を操ることが。土魔法では、握りこぶしほどの穴を掘ることができた。

 その他に変換魔法もあった。

 どうやらこれは珍しい魔法で、祖母は変換魔法が一番得意だったらしい。おばあちゃんから貰った知識と記憶を探ると、いろいろ面白い使い方ができそうな魔法だった。



 毎日魔法の練習をこっそり重ね、腕は着実に上がっている。この知識と技術を夫婦に披露していいかどうかがわからないから、二人にはまだ何も見せていない。

 さて、もうすぐ日が暮れる。仕留めた鳥を土産にさっさと帰ろう。この世界の空には月がない。夜が来れば、外は真の闇になる。


 帰りながら昼間の出来事を思い出した。夫婦の息子さんがやってきたのだ。息子さんは見知らぬ私が同居していることに驚きながらも、両親に「話がある」と切り出した。だから離れた場所の畑まで行ったのは私だけ。

 家に戻ったら旦那さんは家の前の畑で働いていて、奥さんは台所で豆を煮ていた。


「ただいま帰りました。西の畑から青菜とニンジンと豆を収穫してきました。それと、鳥もついでに」

「おかえり。おお、よく太ったジュジュだ。マイ、ありがとうよ」

「マイは本当に狩りが得意ね。ありがたいわ。肉を毎日食べられるなんて、夢のようよ」


 エラさんが嬉しそう。二人とも五十代で、私の親世代。エラさんの野鳥を解体する手際が素晴らしい。

 今日狩った鳥を食べられるのは数日先。血抜きして羽をむしって、内臓を抜いて、数日置く。肉を熟成させるためだ。今夜は既に下処理してある鳥で具沢山スープと(あぶ)り焼きだ。

 ランプの心許ない明るさの下で夕飯を食べていたら、エラさんとインゴさんが二人して改まった感じに話を始めた。


「とても言いにくいことなんだが、マイに話さなきゃならないことがある」

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