第八十夜 おっちゃんと忘れられた存在
アンディが立ち去ったことで、ラップカンドとの交通が復活した。街の生活に必要な品が入ってくる。ラップカンドとシバルツカンド間を行き来する護衛の仕事も下級冒険者に入るようになった。
アンディが、なぜ急に巨大化したかは、謎となった。
「街の危機が去って、ええ感じやね。物流は回復した。林業ギルドから定期的に収入も入ってくる。春までは、のんびり過ごせそうやね」
おっちゃんは干鱈を肴に、エールを飲む。おっちゃんは幸せな時間を過ごしていた。
数日後、ビクトリアが浮かない顔でやってきて、密談スペースに、おっちゃんを誘う。
「話があるんだけど、いいかしら」
おっちゃんは気楽に答えた。
「ええよ、何」
ビクトリアは真剣な顔で、おずおずと伝えた。
「冒険者の『炎の剣』って知っている?」
『炎の剣』なら知っていた。『氷雪宮』を攻略に来ている上級冒険者の集団だ。
「知っているよ。強そうな人たちやね。現在のシバルツカンドのトップ冒険者やね」
「『炎の剣』によって『氷雪宮』が攻略される可能性が出てきたわ」
ダンジョン・マスターが倒されると、ダンジョンは機能を停止し、廃業となる。ダンジョン・マスターが生き残っても、攻略されたダンジョンはダンジョン・マスターが自主的に閉鎖するのが一般的だった。攻略されたダンジョンのモンスターは、どのみち失職する。
勤めていたダンジョンが攻略される。おっちゃんにも経験があった。勤めていた職場がなくなる時のなんとも言えない寂しい感情は、理解できた。
おっちゃんは、ビクトリアを慰めた。
「そうかー、遂に来たか。でも、ダンジョンは、いつかは攻略される日が来るもんやで。就職活動は大変かもしれんが、気を落とさんと。次を探しや」
ビクトリアが浮かない顔で、力の抜けた声で話す。
「ダンジョン・マスターである『氷の女王』は自然の化身。倒されても次の冬には復活するわ。『氷雪宮』も、次の冬には再生する。どの道、宝珠を勝手に持ち出して、私はもう帰れないけど」
おっちゃんは、ビクトリアが何を心配しているのか、わからなかった。
「そうなん。だったら、何が問題なん?」
ビクトリアが真剣な顔で静かに伝えた。
「『氷雪宮』には『夏の精』が封印されているのよ。冒険者が『氷の女王』を倒して『夏の精』の封印が解かれたとするわ。冒険者が現れた『夏の精』を倒さなければ、真冬でもランサン山脈は暖かくなるわ」
「暖冬いう奴か」
「そんな生易しいものではないわ。もっと、暑くなるわ。『氷雪宮』は雪と氷を溜め込む性質があるの。『氷雪宮』は前年に降った雪でできているわ。去年は大雪だったのよ。『夏の精』が解放されれば、『氷雪宮』が溶けてシバルツカンドを飲み込む大雪崩が発生するわよ」
驚愕の事実だった。
「なんやて。大雪崩発生の可能性を、街の人間は知っているんか」
ビクトリアが晴れない顔で、やんわりと忠告した。
「誰も知らないと思うわ。でも、『夏の精』の存在を知らせても、冒険者を止められるとは思えない。おっちゃんは、この街を、すぐにでも去ったほうがいいわ」
ビクトリアは席を立った。
「えらい話になったで」
ニーナ、ルーカス、ヘルマン、グスタブ。ベルケに『夏の精』について聞いた。誰も『夏の精』の存在を知らなかった。
おっちゃん魔術師ギルドに行き、お金を払って、書庫を使わせてもらった。
『夏の精』の関する記述は、古い物語の中にのみ存在した。
昔話によると、大昔のシバルツカンドは暑すぎて生活できない場所だった。原因はシバルツカンドに夜にも太陽が出ていたためだった。
もう一つの太陽は『夏の精』と呼ばれていた。シバルツカンドに古の氷の巨人がやって来る。古の氷の巨人は、鎖を掛けて『夏の精』を空から引きずり下ろした。結果、夜は冷え、シバルツカンドに冬が生まれた。
「昔話にだけある、いう状況が気になるの」
他に『夏の精』に関する記述はなかった。おっちゃんは『夏の精』の話の要約を書き写す。要約を、そっと懐に入れた。
雪崩についても調べてみた。雪崩については色々な研究があった。だが、街を飲み込むような大雪崩については記述がなかった。
「雪の街だけあって、雪崩についての研究はそこそこあるようやな」
深夜の酒場で張り込むと、分不相応な高級品を注文する猟師が現れた。
そっと近づいて、「『森の魔女』さんですか」と聞くと猟師は頷いた。
猟師は邪険に答えた。
「今度はなんの用? 私は貰った金貨を消費するのに忙しいんですけど」
「お忙しいところ、すんまへんな。『夏の精』って、御存知ですか」
「ああ、もう、面倒臭い。実際に見てきたらいいわ」と『森の魔女』が突き放すように口にした。
視界が一瞬、ブラックアウトした。
明るくなった時には、おっちゃんは酒場と別の場所にいた。白い地面がどこまでも続く空間だった。
彼方が歪んで見えた。空間には大きな物体が浮かんでいた。空に浮かぶ物体は真っ赤に燃える巨大な二頭身の存在だった。
大きさは全長で百m。目鼻のある向日葵のように丸い顔を持ち、人間のような手足がついている。『夏の精』だった。『夏の精』は幾重にも白い鎖で巻かれ繋がれていた。『夏の精』は気持ちよさそうに眠っていた。眠っているだけだが、強い圧迫感を覚えた。
もっと、近づいて見ようとした。今度は視界が眩く光った。気が付くと、酒場だった。
『森の魔女』は、すでにいなかった。窓からは明るい朝日が入ってきていた。
「おはようございます」と給仕の青年が眠そうな顔で挨拶してきた。
「ここにいた猟師さん、知らん」
給仕の青年が首を傾げた。
「昨日の夜から店に出ていましたけど。おっちゃんは、そこで一人で飲んでいましたよ」
「そうか」と答えた。
(夢やない。あれが『夏の精』か。あれは、『炎の剣』でも倒せんぞ。なんとかせんとシバルツカンドは滅びる)
作戦一・『炎の剣』を強化して『夏の精』を倒させる。
(無理やな。生半可な武器では通用せん。『夏の精』の強さは『暴君テンペスト』に匹敵する。それに、物語の中でも『夏の精』を倒せるような記述はなかった)
作戦二・『氷雪宮』の側について冒険者と戦う。
(ないな。ダンジョン・マスターである『氷の女王』は強い。『氷の女王』を倒せる冒険者に、おっちゃんが敵うとは思えん)
「となると、作戦三か」
作戦三・冒険者が『夏の精』を解放した場合、再封印する。
(難しいが、『夏の精』が封印されている以上、封印する方法はあるはずや)
おっちゃんは頭を抱えて、ひとりごちる。
「もう、それにしても、なんで、こんな面倒ごとばかり起きるんやろう。おっちゃんは静かに暮らしたいだけやのに」
街にいる人間で『夏の精』の脅威について知る人間は、おっちゃんだけ。おっちゃんが動かねば、危機は現実のものとなる。シバルツカンドを見捨てる選択肢は、おっちゃんの頭にはなかった。