第七十八夜 おっちゃんと氷塊(後編)
おっちゃんは冒険者ギルドに戻り、ニーナを捕まえて聞いた。
「ビクトリアはんって、いる?」
ニーナは困惑した顔で酒場を見渡した。
「今朝、見た気がするけど、今はいないわね」
「どこに行ったか、わかる?」
「さあ」とニーナは困った顔で首を傾げた。その後に、思い出した顔をした。
「そういえば、ビクトリアさん、様子が少し変だったかもしれない。なんか、浮き浮きしていた。何か良いことがあったのかしら」
おっちゃんは、悪い予感しかしなかった。エールと保存食を買って厩舎に向かい、金貨を渡して馬を借りた。
馬に乗って『ランサン渓谷』に向かった。『ランサン渓谷』に横たわる氷塊が見えてきた。
氷塊の前に青いローブを纏った人物がいる。青いローブを纏った人物の足元には直径三mほどの光る魔法陣があった。
(何か、しようとしている。何が起きているんや)
魔法陣が消え、大きな風が起こった。地響きがして大地が揺れ、氷塊が動き出した。氷塊の上にあった雪が落ちた。落雪により、青いローブを纏った人間が飲み込まれそうになる。
青いローブを着た人間が、宙に浮かんで回避した。
「ビクトリア。アンディに何をしたんや」
青いローブを纏った人物が空を飛んでやってきた。おっちゃんの前でフードを外した。相手の年齢は二十代後半。白い髪をした、透き通るような白い肌の女性だった。
「ビクトリアか」と尋ねると「そうだけど、あんたは誰?」と棘のある声が返ってきた。
「わいは、おっちゃん、冒険者や」
ビクトリアは眉間に皺を寄せて、忌々しそうに言い放った。
「悪いけど、今は忙しいの。後にしてくれる?」
氷塊が動きを止めた。氷塊は人の形をしていた。三百mの巨人が、そこにいた。
ビクトリアが空に飛び上がる。強風に煽られてビクトリアの体が揺れた。それでも、ビクトリアが巨人の顔の高さまで飛んだ。ビクトリアが『拡声』の魔法を使って叫んだ。
「宝珠の中に戻りなさい。アンディ」
アンディは顔の周りを飛ぶ虫でも払うかのように軽く手を振った。アンディの手は当らなかったが、風圧でビクトリアが飛ばされた。ビクトリアがそのまま、渓谷の壁にぶつかった。
ビクトリアの落下に備え、ビクトリアに『落下減速』の魔法を掛けた。ビクトリアから何か光る物が零れ落ちた。ビクトリアも落下してきた。
ビクトリアの体は、おっちゃんの魔法により、高さ三十m地点から減速を始めた。光る物体は減速できず、地面に落ちた。
おっちゃんは馬を走らせて、ビクトリアの許に急いだ。気を失ったビクトリアを馬の背に乗せ、『接着』の魔法で馬とビクトリアを固定した。
ビクトリアが落とした物体も、回収した。物体は大きな珠だった。だが、珠は落下の衝撃で欠けており光も消えていた。
馬を走らせて現場を離れ、アンディから大きく距離を取った。『接着』の魔法を解除した。
ビクトリアを馬から下ろして介抱する。一分ほどでビクトリアは目を覚ました。
「大丈夫か。何があったんだ」
ビクトリアが青い顔で切迫した声を上げた。
「宝珠は、宝珠はどこ」
「これか」と、おっちゃんは欠けた珠を見せた。
「あーーっ」と、ビクトリアが大きく叫んで項垂れた。
(なんや、悪い予感しかせんぞ)
ビクトリアが何も言わないので促した。
「ここにいても、しゃあない。啄木鳥亭に戻るで。それまで、話を整理しておいて」
無言のビクトリアだが、馬に乗った。啄木鳥亭に馬を走らせた。
啄木鳥亭に着くと、ビクトリアを伴って密談スペースへ移動した。
ビクトリアから先に口を開いた。ビクトリアは強張った顔をして静かに訊いてきた。
「どこまで知っているの」
「ビクトリアはんは、人間に化けた『氷雪宮』の女官やろう」
ビクトリアの体がビクッと震えた。おっちゃんは言葉を続けた。
「そんでもって、イサクに騙されて、アンディの入った宝珠を持ち出した。ここまでは、わかっている。おっちゃんにとって、ビクトリアはんが人間でないとか、起きてしまった事件は、どうでもええ。問題は、アンディをどうするかや」
ビクトリアは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「宝珠が壊れた以上、アンディをどうにもできないわ。私も『氷雪宮』に戻れなくなった」
(やりづらいな)
「なら、アンディは、これからどうなる」
「テンシャン山にいる仲間のところに戻ろうとすると思う」
「最悪やな」
『ランサン渓谷』からテンシャン山までに行くには人間の作った道がある。歩きやすい道を進めば、当然、シバルツカンドを通過する。アンディが小さな人間の街を避けてくれる保証はない。
誰かが飛び込んでくる音がした。冒険者の慌てふためく声がした。
「巨人だ。巨人が『ランサン渓谷』に出た。でっかい氷の巨人だ」
最初は誰も取り合わなかった。だが、三人目の報告者が入ってくると状況は変わった。
突如、現れた巨人の報告に、酒場は騒然となった。領主の館から老執事がやって来て、ルーカスが領主の館に呼ばれた。
おっちゃんは一縷の望みを懸けて、欠けた宝珠を持って森の魔女に会いに行った。だが、森の魔女には会えなかった。