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第三十七夜 おっちゃんと秘密の取引

 三日後の夜。おっちゃんは『冒険者ギルドと海賊の取引を認める許可書』と『マサルカンドの郊外の位置を記した場所にバネッサが一人で来るように書いた手紙』を作成する。


 おっちゃんは冒険者ギルドを出る前にクロリスに封をした手紙を預ける。

「明日になったら、バネッサが取りに来ると思うから、渡してあげて」


 クロリスは、なんの疑いもなく受けとってくれた。夜遅くに港で待っていた。

 荷揚げ夫に変装した手勢を連れてバネッサが現れた。荷揚げ夫の変装は殺気立っているので一目瞭然だった。


 イゴリーの姿を探すが、イゴリーの姿はいなかった。


 バネッサが心配そうな顔で訊ねる。

「本当に『クール・エール』が届くんでしょうか」


「心配は要らないよ。なにごとも計画通りよ」


 時間になる。二枚の三角帆を揚げた全長五十mの貿易船一隻が洋上を進んで来た。港に貿易船が入港すると、荷揚げ夫の殺気が高まった。


 横目でバネッサを見ると、緊張していた。演技かどうかは、わからない。


 貿易船が港に接岸すると、水夫が縄梯子を降ろした。

「だんな、お待ちかねの塩水です」


「大いにご苦労。ミネルバさん、荷物を確認して来るので、ここで待っていてください」


 おっちゃんは縄梯子をすいすい上がって船倉に下りた。

 樽の臭いを嗅ぐと、磯の香がした。樽に剣で穴を空けて舐めると、海水の味がした。


 わざとらしく大きな声を出す。

「間違いないこれは、上等な塩水だ」


 外が騒がしくなる前に『瞬間移動』を発動させた。二番目に港がよく見える場所に移動する。

 一番目の場所を選ばなかった理由は、イゴリーがいなかったからだった。イゴリーは、きっと港が一番良く見える場所にいる。


 二番目に港が良く見える場所から『遠見』の魔法を使って貿易船を観察する。

 貿易船の周りでは、次々と武器を手にしてバネッサの手勢が貿易船に乗り込んでいた。だが、三分もすると、下りてきてバネッサに何か報告する。


 バネッサが鬘を投げ捨て、何かを叫んでいた。


「ころあい良しやな」

 おっちゃんは『飛行』の魔法を唱える。空を飛んでマサルカンド郊外に移動した。


「さて、これでバネッサはんがここに来れば、作戦は成功やな」


 一時間もしない内に、馬の疾走する足音が聞こえてきた。


 馬には変装を解いたバネッサが一人で乗っていた。

「おや、お早いお越しで。それで、塩水は、どうでしたか」


 バネッサは馬を下りて、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「おっちゃん、どういうつもりだ」


「どうもこうもありません。密輸は、なかった。おっちゃんは塩水を持ち込んだだけですわ。塩水は税金が掛かりませんから、密貿易にはなりません。誰も損しません」


 バネッサが剣を抜いた。

「まあ、落ち着きなさい。ここから本題です。どうです。バネッサはん、あの塩水を『クール・エール』に変える気は、ありませんか」


 バネッサが険しい顔で叫ぶ。

「何を考えている」

「言葉通りです。おっちゃんが塩水を『クール・エール』に変える。バネッサさんが『クール・エール』を押収して手柄にする。二人とも万万歳や。もっとも。密輸品の『クール・エール』を渡す条件ありますけど」


「なんだと、言ってみろ」

「冒険者ギルドが海賊から『クール・エール』を密輸するのを、認めて欲しい。おっと、勘違いしたら、あきませんよ。おっちゃんは誓って密輸をしていません。バネッサはんがおっちゃんを罠に嵌めようとするまではね」


 バネッサが鋭くおっちゃんを見据えて凄む。

「拒否したらどうするつもり」


「あんまり良い選択肢とは思えませんね。そん時は、マサルカンドからバックレますわ。おっちゃんは信用のない冒険者やさかい、どこに行っても同じ待遇や。その点、バネッサはんは違います。地元で築いた信用があります。失うと痛いと違いますか。盗賊の世界って、狭いでっしゃろ」


 バネッサは黙った。剣を下ろしたりしなかった。

(もう、一押しか)


「良く考えてくださいよ。盗賊ギルドとして、悪い話ではないでしょう。きちんと冒険者ギルドと海賊が許可を取って、マサルカンドで仕事をする。盗賊ギルドは分け前として、『クール・エール』二百樽の内の八十樽を得る。バネッサはんは密輸の現場を押さえた手柄を手にする。誰が損しますか」


 怒りの形相で、バネッサが怒声を上げる。

「なら、なぜ、最初からギルドを通して『クール・エール』を物納しない」


「海賊が陸で勝手に商売しているのを、気に入らなかったんでしょう。面子を汚されたと思ったギルドがあの時点で八十樽で妥協するとは思えません。普通に話したら、半分以上を寄越せってなるか、最悪、認めないでしょう」


 バネッサの無言の態度が、おっちゃんの推測が当っている事実を示した。

「まあ、おっちゃんにも、以前は信用できるビジネス・パートナーもおらんかった。でも、今は違う。バネッサはんがおる。だから、こうしてビジネスの話ができるんですわ」


 バネッサがぎろりと目を剥いて、怖い口調で言い放つ。

「脅迫するの」


「脅迫かどうか、知りません。今回の件は必要な、ただの手続きだと思っています。商売と言うもの、出し抜く未来もあれば、出し抜かれる結果もある、そんなものです。おっちゃんはバネッサさんを出し抜いたなんて内容は、思っていませんけどね」


 バネッサは黙った。バネッサは頭の悪い女性ではない。

「さあ、決断の時です。お互いにプラスになる取引をするのか、おっちゃんにゼロ、バネッサはんにはマイナスの取引をするのか、決めてもらいましょう」


 バネッサが悔しそうに下を向いて剣を仕舞った。

「わかった、取引に応じるわ」


 決断は早かった。

「賢いバネッサはんなら、そう言ってくれると思っておりました」


 おっちゃんはバネッサに近づいて。お手製の許可書を渡した。

「手間を取らせないよう、こちらで冒険者ギルド宛の許可書を作っておきました。サインをお願いします。本当なら、盗賊ギルドのマスターのサインが欲しいんやけど。バネッサはんのサインでもええですよ。バネッサさんは、それなりに地位がある人みたいやから」


 おっちゃんからペンと契約書を受け取ると、バネッサは投げやりにサインした。


 おっちゃんはサインを確認してから、バネッサに声を掛ける。

「ありがとうね、バネッサはん、ほな。さっきの港で待っていて、本物の荷物を運ぶから」


 おっちゃんは『飛行』の魔法で冒険者ギルドに寄った。


 職員を呼ぶと、クロリスが出てきた。

「なんや。まだ起きておったんか」


 クロリスがいつもと変わらぬ笑顔で答える。

「きょうは、夜勤なんです」


「そうか。なら、一つ頼まれてくれるか。この書類をギルド・マスターに渡しておいて。大事な書類やから保管は厳重にね」


「なんの書類ですか」

「『クール・エール』に当分は困らなくなる書類よ。ほな、頼んだで」


『飛行』の魔法で港に帰った。まだ貿易船が停泊していた。

 おっちゃんの姿を見ると水夫が愚痴った。


「旦那ひどいですぜ、急にいなくなって。あのあと、刃物を持った男たちが乗り込んできて肝が縮む思いでしたぜ」


「御免な。ちょっとした行き違いよ。誤解は解けた。さあ、船も沖に出して、もう一働きよ」


 水夫が貿易船を沖に出した。おっちゃんは空に向かった『火球』の魔法を唱える。

 暗い夜空に大きな火花が散った。ほどなくして、同じような貿易船が近づいてきた。


 先頭にはポンズの姿があった。海賊と水夫は海水が詰まった樽を海に投げ込む。代わりの『クール・エール』の入った樽を載せる。荷を積んだ貿易船を港に戻すとバネッサたちが待っていたので、そっくり積荷を渡した。


「ほな、取引が終わったので、おっちゃんは家に帰りますわ」


 おっちゃんが宿屋に着く頃に、日が昇ってきた。

「いい天気や。『クール・エール』問題も解決したし、気分良く寝れそうや」


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