前へ次へ
36/548

第三十六夜 おっちゃんと化かしあい

 バネッサが去ってから五日が経った。相変わらずマスケル商会は『クール・エール』を冒険者ギルドに卸さなかった。やむを得ず、おっちゃんは『瞬間移動』を使って、毎日『クール・エール』を運び続けた。


 さらに五日後。おっちゃんが昼食を摂っていると、クロリスがやって来た。

「おっちゃんにお客さんよ。アゴニー商会のミネルバさん」


 密談スペースに行くと、ミネルバが待っていた。

 ミネルバは二十歳後半の女性だった。身長はおっちゃんより頭一つ低い。目はくりっと大きく青い瞳をしていた。ミネルバは金髪でカールの掛かった金髪を肩まで伸ばして、品のよい赤いワンピースを着て、白い手袋をしていた。


 おっちゃんは正面に座った。するとミネルバは、控えめな態度で切り出した。

「アゴニー商会のミネルバと申します。今日は折入ってお願いがあってきました。私どもにも『クール・エール』を売っていただけないでしょうか」


 声を聞いて、一発で確信した。

(なんや、バネッサか、変装して何しに来たんや)


 姿形は変わっている。声の調子も変えている。だが、隠そうとしても隠し切れない剣呑な空気を、ミネルバは持っていた。


 おっちゃんは『シェイプ・シフター』。色なモンスターや人間に姿を変えるモンスターである。バネッサの変装は完璧かもしれない。だが、変装の完成度の高さは、人間レベルでは、だ。


 生まれついての変装の達人、その道のプロで生きてきたおっちゃんには敵わない。『シェイプ・シフター』に変装で勝とうとする態度は、マグロを相手に競泳で戦いを挑むようなもの。勝負する前から結果は見えている。


 おっちゃんがバネッサの目的がわからずに黙っていると、バネッサは滔滔と語り出した。

「実は家の父が騙されて『クール・エール』の大量の取引を請け負ってしまったのです。この取引を履行できないと、家は損害賠償に取られ、私は娼館に売られかねません」


「そ、それは大変やな」


 バネッサは目に涙を溜めて懇願する。

「お願いです。どうか、私どものために、『クール・エール』二百樽を売っていただけないでしょうか。価格は一樽につき金貨十枚をお支払いします。どうか、『クール・エール』を売ってください」


 おっちゃんは腕組みして、考え込むふりをした。

(ハッハーン、バネッサの魂胆(こんたん)は、読めたで。いくら調べても、証拠が出ん。なら、偽の取引を持ちかけて、現場を押さえよう、いう腹やな。仕事熱心な子やけど、おっちゃんを騙そうとは笑えんな)


 おっちゃんは芝居に付き合うと決めた。できる限り深刻な表情を心懸ける。

「そんな、無理や。いくらなんでも、二百樽なんて、そんな量はないよ」


「なら、いくらなら用意できるんでしょうか」


 港に入港している貿易船の姿を思い出す。

(貿易船の規模からして、一隻に『クール・エール』を積んで八十樽くらいか。海賊船が何隻ぐらい拿捕(だほ)したか知らんが、一隻いう事態はないやろう。五隻拿捕して四百樽か。もう半分は売ったとして、在庫が二百樽くらい。なるほど、バネッサは全て海賊船の在庫を吐き出させたいわけか)


 迷っている演技をする。

「そやね、でもねー、二百樽は無理やろうな。でも、一樽で金貨十枚かー、どれくらい、いけるかなー」


 しばらく迷っているふりをしてから結論を出す。

「この場ではなんとも言えんな。後で、連絡するから、ちょっと待って」


 バネッサが涙を拭きながら応じる。

「わかりました。でも、もう取引まで時間がないのです。あまり待てません」


「大丈夫、おっちゃんがなんとかしたる。大船に乗ったつもりで待っていてな」


「わかりました。色よい返事を期待しています」


 バネッサは帰った。おっちゃんは昼飯に戻った。

 冒険者が一人、近づいて来た。冒険者は、おっちゃんの向かいに座ると、「おっちゃんと同じものと」を注文した。


 声に聞き覚えがあるので顔を上げた。相手はいつか浜で助けたポンズだった。


 ポンズはおっちゃんにしか聞こえない声量で話した。正面にいる相手にしか聞こえない話し方は一般人のものではなかった、盗賊や犯罪者あるいは海賊が持つ独特の話法だった。

「おっちゃん、俺を覚えているか? 覚えているなら、スプーンで合図してくれ」


 スプーンを軽く皿にぶつける。

「ありがとう。ところで、おっちゃんは『クール・エール』を取り扱っているそうだな。よかったら、俺たちの『クール・エール』を買ってくれないか、買う気があるのなら、スプーンで合図してくれ」


 ポンズはどうみても商会の人間ではない。それに、マサルカンドでは『クール・エール』を買いたい人間はいても、売りたい人間は一種類しかいない。海賊だ。


(これ、とんでもない事態になりよった。嘘から出た真やな。断ろうか。でも、待てよ。バネッサの話からするに海賊は大量に『クール・エール』を持っているはずや。これが手に入ったら、冒険者ギルドが、めっちゃ助かるな)


 盗賊ギルドに目を付けられているのなら、危険な話ではある。だが、成功すれば冒険者ギルドは大いに助かる。おっちゃんも荷運びをしなくてよくなる。


(やるか。おっちゃんを騙そういうバネッサと馬鹿にしたマルセル商会への返礼や)


 おっちゃんは再びスプーンを皿にぶつけた。


「わかった、ありがとう。詳しい条件は後で教える」


 おっちゃんは席を立って、宿屋に戻った。

 宿屋に戻って、夜になる。おっちゃんの隣の部屋から壁をノックする小さな音が聞こえきた。小さな音はいつまでも続く。


 壁を一回、叩くと、音は止んだ。しばらくすると、おっちゃんの部屋のドアの下から、一枚の紙が入ってきた。

「数量は二百。価格は全部で金貨百枚。代金は後払いでいい」


(持っている数量は、バネッサの読みどおりやな)


 おっちゃんは紙を燃やした。おっちゃんは手紙を二通したためる。


 一通目

『おっちゃんは盗賊ギルドに目を付けられている。そこで、二隻の船を用意して欲しい。一隻には、何も知らない貿易船に塩水を積んだ八十樽を載せて来てくれ。それを三日後の晩の深夜に入港させて欲しい。盗賊ギルドに掴ませる。もう一隻は洋上で待機してくれ。作戦が上手く行ったら合図する。今度は入港した貿易船を、こちらから洋上に出す。その貿易船に『クール・エール』八十樽を積み込んで欲しい。残りの百二十樽については後日にしてくれ。なお、この手紙は証拠が残らないように処分して欲しい。あと、もう一通は盗賊ギルドの手に渡るようにしてくれ』


 二通目

『貿易船を一隻、用意して欲しい。何も知らない貿易船に『クール・エール』八十樽を載せて来てくれ。それを、三日後の晩の深夜に入港させて欲しい。残りの百二十樽については、後日にしてくれ、なおこの手紙は証拠が残らないように処分して欲しい』


 今度は、おっちゃんの側から、壁を小さくノックした。返事のノックがあったのを確認する。

 隣の部屋のドアの前に行き『透視』の魔法を唱える。ドアの向こうにいる人物はポンズだった。ポンズだと確認できたので、二通の手紙を、そっとドアの隙間から入れた。


 翌朝、おっちゃんはアゴニー商会に出向く。おっちゃんが来たと知らせを受けるとミネルバの格好をしたバネッサが出てきた。おっちゃんは商館の片隅で密談をする。

「金貨十枚を出すなら『クール・エール』八十樽は用意できそうや」


 バネッサが心底、嬉しそうな顔をする。

「本当ですか」


「三日後の深夜に貿易船が入港する『クール・エール』は、その中や」


「ありがとうございます」とバネッサは涙ぐんだ顔で何度もお礼を述べた。


 おっちゃんは帰りに港を見学して、港がよく見える一番の場所と二番目の場所を記憶する。


前へ次へ目次