第三十二夜 おっちゃんと『クール・エール』
翌日、翌々日とマサルカンドには雨が降った。雨の日に外に出るのが躊躇われ、宿屋でごろごろしていた。
三日目に雨は上がった。冒険者の店に朝食を摂りに行く。
宿屋でも言えば飯を出してくれる。だが、味が合わなかった。冒険者の店にある酒場のほうが、値段は少し高いが、美味しい食事が出る。
昼食に浅蜊の煮付をガーリック・トーストに載せて食べる。クロリスが寄って来た。
「おっちゃん、ちょっと頼みがあるんだけど、頼まれてくれないかしら」
クロリスが頼み事をして来たのは初めてだった。きちんと釘を刺しておかねばと思った。前の街で頼まれるままに仕事を引き受けていたら、大変な事態になった。
「仕事の話なん。おっちゃん、気の向いた時に香辛料を採りに行くのが合っているんよ。それ以外の仕事は正直、したないな。断ってもええ?」
クロリスが決まり悪そうに答える。
「仕事の話じゃないの。頼み事みたいなもの」
何事にも、付き合いは大事だ。目立たなく生きていくつもりだが、誰とも関係を絶って生きていけるほど世間は甘くない。
「なんや、気になるな。話すだけ、話してみい」
クロリスが手招きして、密談用の個室スペースに移動した。
「実はね。冒険者ギルドでストックしている。『クール・エール』が残り少ないのよ」
「それ、まずくないか。『クール・エール』は、火山で戦う冒険者の必需品。『クール・エール』が切れたら冒険者がダンジョンに行けんくなる。下手したら暴動が起きるで」
クロリスが困った顔でお願いしてきた。
「そうなのよ。ここの冒険者にとって『クール・エール』は必須。そこで『クール・エール』を納めているマスケル商会に催促に行ってもらえないかな」
クロリスの態度が解せなかった。
「別に、マスケル商会に行く状況はいい。けど、おっちゃんじゃなくて、冒険者ギルドの職員が行ったほうがええんちゃう。顔見知りのほうが話が早いと思うけど」
クロリスが曖昧に笑って答えた。
「まあ、そこはそれね。色々あって、色々ないというか、どうしても『クール・エール』が欲しいというか。仕入れ先が代わったりしても問題ないようにとか、なんとか、かんとか」
ピンと来たので確認する。
「『クール・エール』の納入に関する契約が、冒険者ギルドとマスケル商会にあるんやな。マスケル商会から安く仕入れる代わりに、他の店からは買わない契約やろう。マスケル商会が少々遅れたぐらいで契約は切れん。それでも、『クール・エール』は欲しい、というところか」
クロリスが半笑いの表情で「ええ、まあ」と明言を避ける。おっちゃんは推理を述べる。
「だが、契約には冒険者からの買い取りは決まりがなかった。それで、冒険者に『クール・エール』を仕入れさせ、冒険者ギルドに卸させる。ギルドは、冒険者が持ち込んだから仕方なく買い取った態度を装うっちゅうわけか。あこぎやなー」
クロリスが笑顔で手を合わせて喜ぶ。
「さすが、おっちゃん。飲み込みが早くて、助かるわ。冒険者ギルドを助けると思って、お願いしていいかしら」
断ってもいいが、引き受けてもいい仕事に思えた。この仕事、おそらく評判を気にする一般冒険者は、引き受けたがらない。冒険者ギルドと大口の取引をするマスケル商会は、かなり大きい商会だ。
この仕事は普通に成功させれば、マスケル商会の面子を潰す。失敗すれば冒険者ギルドからの評価を落とす。どっちに転んでも悪い影響がある。賢しい冒険者なら敬遠する仕事。
普通の依頼を受けず、採取一本で行っているおっちゃんは違う。マスケル商会に嫌われて悪評が流れても、仕事に影響はない。冒険者ギルドから多少は使えない奴と思われたほうが静かに暮らせる。
失敗しても成功しても、どっちでもいい。
(問題は、クロリスが恩に着るタイプかどうかやな。貸しても返さないタイプだと、やりづらいな)
腕組みしてクロリスをじっと見る。クロリスが合わせた手を頭上に挙げて頼んできた。
「おっちゃんは交渉事が得意じゃないけど、それでもええなら、どうにかしたる」
「そう言ってくれると、助かるわ」
マスケル商会に足を運んだ。マスケル商会では『クール・エール』が手に入らない未来は見えている。でも、売ってくれなかった事実を積み重ねる態度は大事だ。
マスケル商会は商人たちが集まる商人地区に拠点を構えていた。黒レンガ造り三階建の建物がそうである。敷地は冒険者ギルドの三倍はあり、使用人は百人近くが働いている。入口で用件を伝える。
「冒険者ギルドの使いで来ました。『クール・エール』早く納品してください」
マスケル商会の番頭なのか、頭が禿げ上がった四十くらいの身なりが良い男性が、対応に出てきた。
番頭は澄ました顔で答える。
「マスケル商会の番頭のピエールといいます。生憎、『クール・エール』を積んだ船の入港が遅れておりまして。出荷できない状態です」
「わいは、おっちゃんや。そうは言うても、倉庫には何樽かはあるでしょう。それ、出荷してくださいよ」
ピエールがツンとした態度で拒否する。
「倉庫の分はすでに売約済みでして、お売りすることはできません」
「嘘やな」と直感的に思った。だが、商人と「売れ」「売らない」のやり取りをする行為は賢くない。
おっちゃんは怒った振りをした。
「もういい。なら、蔵元から直接、買います。蔵元は、どこですか」
ピエールが見下した顔で答える。
「シバルツカンドです。醸造元はエメリア醸造になります」
シバルツカンドは知っている。ここより北西に三百㎞ほど行ったところにある寒い街だ。
「え、そんなに、遠くに行かないと、ないの」
「『クール・エール』はマサルカンドでは造られていない輸入品なのです。ですから、船が入港しないと、どうにもならないんです」
おっちゃんは啖呵を切った。
「なら、陸路で運んだるわ」
陸路では運べるわけがない。地図は知っている。シバルツカンドから港を経由しないとテンシャン山を迂回して運ばなければならない。そうなれば輸送距離は優に九百㎞を超える。安い『クール・エール』なら、運んでも元が取れない。
ピエールは、おっちゃんを木っ端冒険者だと侮ったのか、冷たい態度で応じる。
「陸路で運んでも運べないこともないですが、難しいと思いますよ。運べるならどうぞ、としか、いいようがありませんが」
「どうぞ」の言葉を聞いた。ここには、もう用がない。
おっちゃんが背を向けた。背後からピエールが冷たい言葉を投げかける。
「クロリス嬢にお伝えください。いくら催促されても、船が入荷しないと『クール・エール』は手に入らないと。毎度毎度、やって来る冒険者を断るのも大変なのです」
おっちゃんはマスケル商会を後にした。マスケル商会ではなく、他の商会にも話を持って行った。どの商会も『クール・エール』は売れない、の態度を採った。
「売り惜しみが半分、在庫が本当にないところが半分やな。在庫が不足しているのは事実のようや。マサルカンドは、これから夏や。夏の暑い時季に『クール・エール』を飲むのが庶民の娯楽や。お得意さん向けにとっておきたい態度は商人でなくてもわかる。だが、ピエールの態度は癪に障る。おっちゃんの意地を見せたろ」
おっちゃんはシバルツカンドまでの地図を買い、エメリア醸造の場所を調べた。知りたい内容を確認すると、担ぎ紐を買い、その日は安らかに眠った。