PART8 邪龍はかませ(前編)
数週間前──王国辺境にて。
邪龍の出現報告を受け、王立騎士団は一個中隊を討伐に派遣。
その中にはジークフリートの姿もあった。
屈強な精鋭を集めた中でも、彼の強さは頭一つ抜けていた。それゆえ頼られることも、疎まれることもあった。
だが今回ばかりは話が違った。
鎧袖一触。邪龍と接敵した数分後には、騎士団は壊滅状態となり。
ジークフリートは自分から、撤退する際の時間稼ぎとして残る道を選んだ。
味方の背中が遠ざかっていく。
痛みに痺れる右腕に力を籠める。
ジークフリートは岩場に身を隠しつつ、深く息を吐いた。
「…………」
ベルトにストックしていた試験管を一本引き抜き、密閉用のコルクを指ではじいた。
支給された回復用ポーション──教会の聖女に祝福を受けた聖水、服用者に活力を与え、傷をいやす効果を持つ──をぐびりと飲む。霊薬が胃に落ちる。身体の芯がカッと熱くなり、効果を実感する。最後の一本だった。
回復魔法が使えれば魔力が尽きるまで体力を回復させるが、生憎そうはいかない。
(騎士の身体を癒すためだけの液体薬。ないよりはマシだが、これで打ち止めか)
王国騎士は魔法を使えない庶民の集まりだ。
入団条件をクリアした騎士見習いは教会に赴き、聖女から祝福を受ける。この祝福が一定の魔法は無効化し、騎士を国家を守る守護の盾として完成させる。
人によって適性はまちまちだが、聖女の祝福は時がたち、騎士の技量が上がるにつれて強力なものになっていく。最上位の大隊長クラスにもなれば、広域魔法は一括で無効化できるという。
そういう意味では、既に戦術級魔法のほとんどを弾けるまでに至ったジークフリートの才覚は抜きんでたものだった。
(オレは、ここで死ぬのだろうか)
その彼が、自身の死を明瞭に予感していた。
遠征軍は壊滅した。ジークフリート以外の騎士は鎧を砕かれ、四肢を裂かれ、屍と化して地面に転がっている。生き残りはたった今後方へ撤退していった。ジークフリートは最後の戦力として殿を、つまりは、時間稼ぎの捨て駒としてここに残ることを選んだ。彼が自分でそれを選び、同僚たちは忸怩たる思いで引き下がっていったのだ。
(見込みが甘かった。邪龍──単なる翼竜種ではない。まさしく、神秘を帯びた質量そのものだ)
帰った仲間たちの報告を受けて、今度こそ騎士団の中枢、大隊長クラスの騎士が動くだろう。剣の一振りで大都市を両断できると謳われる豪傑揃いの彼らならば大丈夫、とジークフリートは安堵した。
だが仲間たちが無事に帰るためには、自分が時間を稼がなければならない。
「いくか」
傷まみれの大剣を構え、岩陰から飛び出した。
辺境の赤土を両足で踏みしめ前を見据える。山道をまっすぐ駆け抜けた先に、黒い山があった。
『
信頼できる同僚が斃れた。
指導してくれていた恩師が斃れた。
屍山血河の中、迫りくる死を実感しながら、必死に足掻いた。
『
全てはこの邪龍によるもの。
翼が広がる。視界一杯を横に埋める巨大な翼だった。
無言で剣を構え、思い切り振りぬく。飛翔した斬撃が邪龍の顔に当たった。渾身の一撃。
『
白い煙が噴き上がる。その向こう側に、邪龍の金色の瞳が爛々と輝いていた。
無傷。舌打ちをして横の坂道を一足に駆け上がる。
「こっちだぞ、邪龍!」
巨体に似つかわしくない俊敏な動作で、邪龍が地面を滑った。
ジークフリートは背後から突き付けられた死神の鎌を感じながら、必死に木々の間を走る。
しばらく走れば切り立った崖があった。行き止まり。地図は頭の中に入れていた。崖に背を預け、ここで邪龍を迎え撃つ腹積もりだった。
振り向く。
既に邪龍はそこにいた。
『
翼が森を薙ぎ払っていた。一挙一動で地形が塗り替えられる。
漆黒のうろこには傷一つない。仲間たちの攻撃が全くの無為であったことを今さら理解した。そして、己の攻撃もまた同じだった。
四つ足を地面に食い込ませ、邪龍の口元から光の奔流が漏れる。
聖女の祝福がまるで意味を成していなかった。魔力ではない、純粋な高熱の放出。対魔法戦闘のエキスパートは、純粋な暴力の前にまったくの無力だった。
(……なんだ、これは)
間近で見れば嫌というほどに分かった。
位階が違い過ぎた。ジークフリートは自身の矮小さに愕然とした。
存在の密度が違うと言い換えてもいい。だが引き下がるわけにはいかない。己が引きつけなければ、仲間たちが安全に撤退できない。
震える両腕でなんとか大剣を構える。
『
邪龍がひときわ巨大な雄たけびを上げた。
山そのものが鳴動する。風圧と音圧だけでジークフリートの身体は鎧ごと吹き飛ばされそうになった。
(オレはここで死ぬな)
ルーキーとはいえ、いくばくか修羅場の経験はあった。だから分かった。
(ここで死ぬ。ならせめて、意味のある死に方をさせてもらう!)
身体に活を入れ、大剣を大上段に振りかぶった。
その時。
「────
真横から突如激突した流星が、邪龍の巨体を吹き飛ばした。
「……は?」
目を白黒させ、コンマ数秒でフリーズから回復し、慌てて流星の出所へ視線を向ける。
少女がいた。
地面に届かんとする優美な黒髪をはためかせ、不敵な笑みを浮かべて。
マリアンヌ・ピースラウンドが、そこにいた。
「ドラゴンもまたいで通る、ならぬ"ドラゴンをまたいで通る美少女天才悪役令嬢"とかいいですわね。名乗る二つ名としては
その長台詞は、強烈な突風にかき消され、ジークフリートの耳には届かなかった。