鮮血令嬢、皆殺す

作者: kiki




「みなさんが知っているように、魔法使いとは、生まれつき体に魔力と呼ばれる見えないエネルギーを満たした人間のことを言います。体内のエネルギーを認識し、出力の方法を脳内でイメージすることで、力を発することができる能力者たちです。もちろん、自分に適した属性の魔法に限りますが――」


 私は言われた内容を、カリカリとノートに書き込んでいく。

 一方で兄様と姉様は、退屈そうに聞き流していた。

 まあ、これは何度も聞いてきた内容だから、二人の態度も仕方ないんだけども。


「人が魔力を持つに至った原因は、数百年前にこの星に落下した隕石が原因と言われていますが、正確には解明されていません。ですが魔法使いの誕生と同時に、魔力を持った動物――いわゆる魔獣も出現したのですから、『信心豊かな人間への贈り物』や、『神が人類に与えた使命』と言った戯言は完全に嘘ですね。広めた愚者はくたばった方がいい」


「先生、宗教連中のこと嫌いだよな」


「別に彼らを嫌っているわけではありませんし、神も否定しません。ただ、研究者たちの検証を無視して自分たちに都合のいい風聞を広める彼らが気に食わないだけです」


「それを嫌いって言うんだと思うわよ……」


 苦笑いする兄様と姉様。

 私も愛想笑いを浮かべるしかなかった。


「ですがこの国において、魔法使いに魔獣と戦う責務があるのは事実です。やがて領主様からこの地を引き継ぎ、守らなければならないあなた達はなおさらに」


「わかってるよ。だから俺は早くこんな退屈な授業を終わりたいんだ」


「ジェイク、魔獣との戦いには知識も必要よ」


「とか言いながら、クレアも魔法が使いたくてうずうずしてるんじゃねえの?」


「うっ……」


 言いよどむ姉様を前に、兄様は勝ち誇った顔をしています。


「まったく、仕方のない子たちね。今日の講釈はここまで。あとは実戦訓練にしましょう」


「よっしゃあ! 早く行こうぜ先生!」


「魔法使いたるもの、やっぱり魔法を使ってこそ、よね」


「ふふふ。さっきまでは退屈そうだったのに、現金な子たちねえ」


 先生は部屋を出ていき、兄と姉も彼女を追いかける。

 そんな中、私は一人でゆっくりとノートと筆記具を片付けて、バッグに入れていた。

 ただののんびり屋さん――ならいいんだけど、実際はそんないいものじゃない。


 私は魔法使いになれなかった。

 我がミスティック家は魔法使いの家系では、高確率で子供にも魔法使いとしての素質が芽生える。

 というより、魔法使いは“先天性”がほとんどで、何かのきっかけで目覚める“後天覚醒者”は少数派も少数派。

 数万人に一人生まれればいいぐらいで、目覚めた人だってそのほとんどが偶然によるものばかり。

 期待して、目指すようなものではない。


 だから私は失敗作。

 このミスティック家において、どれだけ両親が、兄様が、姉様が優しくしてくれても――見えない壁がある。

 だって手の甲には、刻印が浮かんでいないから。

 隠そうとしたって、ひと目でわかってしまうから。


 鞄にすべてを詰めて、私は小屋から出た。

 屋敷のほど近くに設置されたこの場所は、私たちが魔法を学ぶために、両親が作ってくれた。

 外に用意された訓練所では、兄様と姉様が生き生きとした表情で魔法の訓練を行っている。


「行け、ファイアボォォォルッ!」


「そんなに気合を入れる必要は無いのよ。アイスバレット」


 手のひらをかざすと、火の玉や氷の針が飛んでいく。

 私には未来永劫、身につくことのない力だ。

 姉様は私の視線に気づくと、手を振ってくれた。

 振り返して、邪魔をしないようにそそくさとその場を離れる。


 じゃあどうして、魔法使いじゃない私が魔法使いの授業を受けてるのかって言うと――これはただのわがまま。

 期待しないとか言っておきながら、ミスティック家の人間ならいつか目覚めるかもしれないと、みっともなくしがみついているだけ。

 両親も兄も姉もみんな、『そうだね、訓練を続ければ魔法使いになれるかもね』と笑顔で社交辞令を言ってくれる。

 優しい。

 だから、私はみじめで。

 そんな優しさに甘えていると、自分がどうしようもなくゴミに思えて。

 それでもやめられないから、余計にみじめになる。


「ジュリエッタお嬢様」


 小屋から離れて町の通りに出たところで、金色の長い髪を揺らしたメイドが、優しく微笑み私を迎えた。

 彼女はアンジュ。

 私が小さい頃から面倒を見てくれている、専属のメイドだ。


「帰りましょう」


 たぶん彼女がいなかったら、私はとっくに潰れていたと思う。

 だから、こうして屋敷に戻るまでの短い時間も、私とアンジュは隣に並んで、手を繋いで帰るのだ。

 周囲から見て主従の関係だったとしても、私にとって彼女は家族だから。




◇◇◇




 魔法ができない分、私は他の分野に力を入れた。

 兄様たちが魔法の訓練をしている間、できるだけ多くの知識をみにつけるために、父様の書斎で本を読みふけったり。

 どこにお嫁に行っても恥ずかしくないように、炊事、洗濯、お掃除を頑張ってみたり。

 勉強や手先の器用さに関しては、たぶん兄様や姉様より上だと思う。

 それでもやっぱり、ミスティック家にとっては『そんなもの』なわけで。

 どれだけ頑張ったって、魔法が使えなければ意味なんて無い。

 そんな空気を、ひしひしと感じていた。


「乱切り、角切り、みじん切り……お見事ですわお嬢様、お上手です!」


「お掃除も完璧ですね。ほこり一つ残っていません!」


 アンジュはそれでも、私に自信をつけようと褒めちぎってくれる。

 ちょっとやりすぎじゃないかってぐらいだし、やっぱり魔法が使えないと――ってなるから、彼女の行動はあんまり意味は無いんだけど。

 でも、嬉しい。

 励まそうとして、元気づけようとして、私のことを考えてくれる人がいることが、純粋に、素直に。


「蜘蛛が苦手!? なんとキュートなのでしょうかっ! それはチャームポイントですよお嬢様っ!」


 いや、でもやっぱり褒めすぎだと思うけども。




◇◇◇




 そんなある日、私は父様に呼び出されて、こんなことを言われた。


「ロミオ殿との縁談の話が来ている」


 ロミオ様というのは、うちのお隣の領地を治める領主の息子。

 つまり次期領主。

 彼自身は魔法使いではないのだけれど、王様との繋がり強いとかで、ミスティック家より裕福で、領地も大きな貴族だ。


「次代の子供が魔法使いになる確率をあげたいという思惑もあるのだろう。だが我が一族としては、ジェイクやクレアを出すわけにはいかない。しかし一方で、隣人との関係を深めておくのは悪くない」


 思惑なんてどうでもいい。

 ミスティック家のため、役に立てる方法がそれぐらいしか無いのだから――私に断る選択肢なんて無かった。


「はい、お父様。喜んでお受けします」


「ありがとう。ジュリエッタはいい子だ。ロミオ殿も人格者として領民からの信頼も厚い。きっと……幸せになれるだろう。いや、なってもらわなければ困る。ジュリエッタは私たちにとって……天使のようなものなのだから」


 私は愛されていないわけじゃない。

 ただ、期待に応えられなかっただけ。

 わかってる。

 それは、今日までの十四年の人生で、痛いぐらいに。


 ロミオ様とは、何度か顔を合わせたことがある。

 とてもかっこよくて、優しくて、紳士的な男性だった。

 そんな人のお嫁さんになれるのだから、魔法使いじゃない私にとって、きっとそれは最上の幸せだと思った。




◇◇◇




 それから一ヶ月――わずかな時間で私は花嫁修業と嫁入りの準備を進め、あっという間に時間は過ぎていった。


「明日はいよいよ出発の日、粗相がないようにしなければ。ねえアンジュ、ドレスはどちらがいいと思います?」


 私は桃色と水色のドレスを交互に体に当てながら、アンジュに問いかけた。


「ジュリエッタお嬢様でしたらどちらもお似合いです」


「もう、アンジュはそうやっていつも私を甘やかすんですから。わかりました、ならこっちを選びます」


 ちょっぴり不機嫌風味に頬をぷくっと膨らまし、私は水色のドレスを手に取った。

 そしてお母様ゆずりの赤い長髪を揺らしながら、鏡の前でくるりと回る。


「私は本気で言っているのですが」


 しょんぼりと肩を落とすアンジュ。

 金髪碧眼の、その名の通り天使のように美しい彼女は、幼い頃から私専属のメイドとして常に側にいてくれた。

 けれどそれも今日まで。


「お嬢様は世界で一番、かわいい女性です」


 アンジュは私の背中にこつんと額を当てた。

 従者らしからぬむき出しの感情に、私の涙腺も緩みそうになる。


「アンジュは少し、私のことが好きすぎるようですね。そんな調子では、次の主に仕えるときに差し支えますよ」


「その時が来ないことを祈っています」


「もう、アンジュったら……出発はもう明日なんですよ?」


 アンジュは私より年上の女性で、昔からお姉さんみたいな存在だったのに――これじゃあどっちが姉なのかわかったのものじゃない。


「以前から甘えん坊さんの片鱗は見えていたけれど、まさかここまでとは思いませんでした」


 私はアンジュの頭を胸に抱きしめると、よしよしと頭を撫でた。

 彼女はそんな子供扱いを拒むどころか、むしろ腰に腕を回して胸にぐりぐりと顔を押し付けてくる。

 まるで匂いでもつけているように。


「そんな風にしなくとも、とうにアンジュの存在は私の胸に染み込んでいますよ。何があっても、どこに行っても、消えることはありません」


「お嬢様ぁ……」


「それに、今生の別れというわけではないのですから。あちらでの生活が落ち着いたら、必ずまた会いに来ます」


「約束ですよ……?」


「はい、約束です」


 私たちは小指を絡めて、契りを交わす。

 その翌朝、私は予定どおりにロミオ様の屋敷へと旅立った。

 アンジュは顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、私を見送ってくれた。




◇◇◇




 馬車で揺られること半日、私はロミオ様のお屋敷に到着した。

 ロミオ様の家は私の家よりずっと大きくて、もちろん領地だって比べ物にならない。

 けれど意外なことに、一人息子である彼自身は魔法使いではなかった。

 だから、顔も良ければ性格もいい、と結婚相手としては優良な相手なんだけど、その“魔法使いではない”という一点でお嫁さんが見つからなかったんだとか。


 一方で、魔法使いが多い我が家だけれど、実はあんまり裕福ではない。

 お父様とお母様は優しいから、お金を稼ぐのも、他の貴族とやり合うのも苦手なんだって。

 だから、魔法使いでなくとも家をここまで大きくした“やり手”であるロミオ様の家との繋がりを作っておくのは、将来のことを考えるとすごく大事なこと。

 一方でロミオ様としても、一応は魔法使いの血を継ぐ私なら、次の世代の子供が魔法使いになる可能性が高くなる――だから私を選んだんだと思う。


 馬車から降ると、執事が私をエスコートする。

 そして屋敷に入ると、大勢のメイドさんたちが私を迎えてくれた。

 正面には、茶色の髪をかきあげて、白い歯をキラリと輝かせながら爽やかに笑う、ロミオ様が立っていた。


「ジュリエッタ、よく来てくれたね」


 彼は私に歩み寄ると、両手をバッと大きく広げて、がしっと私を抱きしめる。

 私は少し怖くて、体に力が入ってしまった。


「緊張する必要は無いよ。俺たちは夫婦になるんだから」


 耳元でやけに甘い声で囁かれると、私の腕がぞわっと粟立つ。

 おかしいな、ロミオ様のことは結構好きだったつもりなんだけど。

 やっぱり、緊張してるのかな。


「は、はい……善処します」


 やっぱり体をこわばらせたまま、私はそう答えた。

 するとロミオ様はにこりと笑って、ようやく私を解放する。


「まずは君の部屋に案内しよう」


「あの……お義父様とお義母様は?」


「二人ならちょうど領地内の視察に行っててね、数日は戻ってこないんだよ」


「そうですか……」


 私は肩を落とした。

 まさか今日みたいな大事な日に、領主様夫妻がいないなんて。

 私って、あんまり歓迎されてないのかな。


 そのあと私は、与えられた部屋に案内された。

 内装を見れば、少なくとも私が嫌われているわけではない――ということはわかる。

 細かな彫刻が施された鏡台や、天幕の付いたベッドなんて、めったにお目にかかれるものではないから。


「しばらくくつろいでくれ。今日は歓迎パーティをしようと思うんだ。準備ができたら呼びに来るからね」


 そう言って部屋を出ていくロミオ様。

 言われるがまま、私はひとまず椅子に腰掛けて、「ふぅ」と息を吐き出した。

 荷物は部屋の隅に置かれていて、メイドが整理を手伝ってくれる様子もない。

 い、いや、仕事が雑ぅっ!

 別にそうしなきゃならないって決まりがあるわけじゃないよ?

 でも、普通は……ねえ? お付きのメイドとか、一人ぐらい用意されてると思ってた。

 だって、アンジュを連れていきたいって言った私に、『その必要は無い』って強めに返事したのはロミオ様の方なんだから。


 私、本当にここでうまくやっていけるのかな。

 家で花嫁修業は一通りしたつもりだし、ロミオ様自身は私にすごく優しく接してくれるけど……やっぱり、知ってる人がほとんどいない場所で暮らすっていうのは、とても不安で。

 早くもホームシック気味。

 でもしっかりしなくちゃ、家の未来がかかってるんだから!


「よっし、がんばるぞぉーっ!」


 立ち上がり、腕を天に掲げる私。


「失礼いたします――」


 そこにちょうど入ってきたメイドの女性。

 彼女は私の姿を見て固まっている。

 見られた私は、その体勢のまま、どんどん顔が熱くなってくる。


「……失礼いたしました」


 そしてメイドは、頭を下げて部屋から出ていってしまった。


「待ってっ! そのまま入ってもらって問題ないですから! その反応の方が恥ずかしいですからーっ!」


 慌てて呼び止めると、どうにか戻ってきてくれた。

 どうやら彼女が私のお付きのメイドみたいで、私の来訪が急だったものだから遅れてしまったんだとか。

 ……急?

 あれ、私がロミオ様のところに来るの、もう一ヶ月以上前に決まってたはずなんだけど。

 首をかしげる私だけど、メイドは何もしらないみたいで。


 小さな違和感に大きくなる不安を胸に抱えながら、私は窓の外を見た。

 ちょうど、誰かの乗った馬車が屋敷の前に到着したみたい。

 パーティを開くって言ってたし、その参加者なのかな。


 窓からその様子をじっと見つめていると、中から人が下りてくる。

 その姿をみたとき、私はぎょっとした。


 体は大柄。

 髪は色とりどりのオーロラ色。

 瞳はこの距離で見てもわかるぐらい真っ赤で。

 体にはびっしりとタトゥーが刻まれている。

 そのくせ、まるで聖職者のような白いローブを纏って、非常に優しげな笑みを浮かべているものだから、そのアンバランスさが余計に恐ろしさを際立てていた。


 その男性が、ふいに上を見上げた。

 二階の窓から見下ろす私を目が合う。

 彼は“にぃっ”――と、歯にも刻まれた模様を見せつけるように笑った。

 放たれる生ぬるい、絡みつくような感情が肌を這いずって、そこに生じるものが“好意による熱”とわかるからこそ、私は強い嫌悪感を覚えた。


「あ、あの……っ」


「どうかなさいましたか、お嬢様」


 とっさに目をそらした私は、メイドに話しかける。


「今、馬車からとても派手な男性が下りてきたのですが、一体誰なのでしょうか。パーティに参加する方ですか?」


「いえ、パーティと言っても、特に外から人を呼ばない質素なものと聞いております。お披露目のためのパーティは、領主様が戻ってきてから別に開く予定だと」


「じゃあ、今のは……ロミオ様を尋ねて……?」


 結局、それが誰なのかはわからずじまい。

 ただ一つはっきりしていることは――あれは、まともな人間じゃない。

 それだけだった。




◇◇◇




 陽が傾いてきて、空がオレンジに染まる頃、パーティの準備が出来たと執事が部屋に呼びに来た。

 私は彼に先導されながら、屋敷内の食堂に向かう。


「待たせてしまったね、ジュリエッタ。さあ、ここに座って」


 待ち受けていたロミオ様が、私に手を差し伸べてエスコートしてくれた。

 やけに背もたれの高い椅子に腰掛けると、彼は正面に座る。


「シェフにとびきりの料理を作ってもらったんだ。このあたりで取れる食材では最高級のものを使ってね。今日は他の人の目もない、思う存分楽しんでくれ」


 確かに、目の前に並んでいる料理は豪華そのもの。

 もし実家で見たら、よだれを垂らして両親に諌められるところだった。

 でも今はそれどころではなくて――


「ありがとうございます、ロミオ様。ですが、その方は……一体……」


 私から見て左側、食卓の端に置かれた椅子に腰掛け、一足先に食事にありつく男性。

 彼は、私が馬車から下りてくるのを目撃した、タトゥーまみれの男だった。


「美味しいですねえ、お肉。とっても芳醇な命の味がします。これを噛み潰していると、いかに自分が獣畜生よりも優れており、彼らを救うべき存在なのか実感できる。こちらの野菜も素晴らしい。領地内の農奴が作ったものでしょうから、この屋敷で私が食べているということは、農奴よりも自分が上だということです。救わなければ。ああ、救わなければ……!」


 誰に話しかけられるわけでもなく、ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、ひたすら食べ物を口に運ぶ男。

 しかしロミオ様は言います。


「気にしないでいいんだ。ほら、せっかくの料理が冷めてしまうよ。俺も食べるから、一緒に食べよう」


 あれを見て、気にせずにいられる人間がこの世に存在すると言うのだろうか。

 やっぱりおかしい。

 あの人はロミオ様の友人なの?

 個人的な親交で、私には関係ないから、『気にしないでいい』と言っているの?

 それなら納得できないわけじゃないけど――ううん、やっぱりおかしいよ。


「あの、ロミオ様っ!」


「ごぉちそおうさまでしたぁっ!」


 私が意を決してロミオ様に問い詰めようとした瞬間、その男はバチンッ! を手を叩いて立ち上がった。

 私はびくっと肩を震わせて彼の方を見る。

 目が合うと、彼は赤い瞳をぎょろりと大きく開いて、首を傾け、歯をむき出しにして笑う。

 その体勢のまま、男はパチパチと手を叩きはじめた。


「ブラヴォーですよロミオ君、とても素晴らしい食事でした!」


「恐縮です」


「しかし……あれですねえ。甘味が足りないと、私の舌が救いを求めています」


「その必要が無いとおっしゃったのは教祖様ですよ」


「オオゥ! そうでした! そうでしたねぇ! 食後のデザートがあるから必要ないと言っていたのでした! 私としたことが、あまりに食事が美味すぎて忘れてしまっていましたよぉ! アハハハハハッ!」


 ロミオ様の口調から――二人の関係が友人などではないと、私は気づく。

 二人の間にあるのは上下関係(・・・・)だ。

 それに“教祖”って、やっぱり宗教に関連する人?


「ンッンー、しかし、困ったことに最後の晩餐はまだ始まっていないようです」


「勧めたのですが」


「君からの救いだったのにねえ。優しい子です、ロミオ君は。そして悲しいすれ違いだ、なぜ救いの手を差し伸べられて、それに気づけなかったのか! 本当に……うっ、ううぅ……悲しいなぁ……っ、ひぐっ……えぐっ……」


 急に泣き出した……!?

 演技とかじゃなくて、本当にボロボロ涙を流してる。

 何なのこの人、おかしいよ絶対に。どうかしてる!


 そして男は、泣いたままゆらゆらと私に近づいてくる。

 私は椅子から立ち上がり、後ずさりながら彼と距離を取った。


「ジュリエッタ、逃げる必要は無いんだ」


「ロミオ様、何なんですかこれはっ! どういうことなんです!?」


「どうもしない。教祖様は悲しみながら、優しさとともに君に近づいているだけじゃないか」


「違いますっ! 何かするつもりなんですね……来ないでっ、私に近づかないでえっ!」


「はぁ……仕方ないなあ。俺はできるだけ優しくしたかっただけなのに」


 ロミオ様が私の方に近づく。

 前には例の男が。後ろにはロミオ様が。

 私の逃げ場は、ちょうど横にある火の付いた暖炉ぐらいしかない。

 もちろんそこに飛び込めるわけもなく、万事休す――私の足はそこで止まってしまった。


 そうしているうちに、ロミオ様は私を羽交い締めにした。

 そして男は、相変わらず泣きながら私に近づいてくる。

 気持ち悪さと恐怖に、私は首を横に振ることしかできない。


 ああ、私、殺されちゃうんだ。

 お父様、お母様、お姉様、お兄様、そして――アンジュ。

 ごめんね、約束守れなくて。

 もう一度会うって……会いたいって……思ってたけど――


「うくっ……は、あ……ふぅ。困ったことに、世界には救われなくてはならない人が多く存在します。けれど救済は難しいのです。誰もが救われることはありません。私も、できるだけ多くの人を救いたいとは思ってるのですが、中々そううまくはいかないもので……破壊と再生。それは往々にして、再生の方が困難なものですから」


 男は両手で私の頭に触れた。


「であれば――どうしたらいいと思います? 救われない人がこの世に多く存在するのは忍びない。そう……そうなんですよ。気づきました? 気づいてしまいましたぁ?」


「やだ……やだ……誰か、助けて……っ!」


「そう、私! ミイィィィッ! 私ならば! 私だけが! この世界で破壊によって人々を救うことができる! だから天使を手にしなければならない! 永遠に私が救済者としてこの世界に君臨するために――だから――だからぁっ、その礎になってください。ネ?」


 彼の手が熱を帯びるのを私は感じた。

 魔法使いの体内に存在する“魔力”は熱を持っていると聞いたことがある。

 だから、平熱が普通の人よりも高いんだって。

 そう――この男は、魔法使いなんだ。


救済(カニバライズ)

 

 バチンッ! と視界が白く弾けて、私の体はびくんと跳ねた。


「あ、ぎゃあぁぁあああああああああああああっ!」


 まるで脳みそをそのまま引きずり出されるような、壮絶な痛み。

 私は泣き、叫び、狂乱するように頭を振り回して、痛みから逃げようとする。

 けれど無駄だった。

 どこに行こうとしても、意識はそこにあるのに、苦痛だけは消えてくれない。

 全身から汗が噴き出して、たぶん……失禁もしてたと思う。


「はっ、あががっ、あ、が……ぎ……」


 痛みは少しずつ落ち着いていって、私が悲鳴をあげなくなったところで、――様が私を解放した。

 ぺたりと床にへたりこむ。

 すると、目の前の男が私の顎を持ち上げ、顔を近づけた。

 そして、気持ちの悪い裏声で言う。


「ワタシ、ジュリエッタ! ロミオ様のお嫁さんなの! でも急に家族もアンジュもいないお家にいくのは不安……立派なお嫁さんになれるかしら。ウフフッ!」


 全身に汗を浮かべた私の肌に、ぞわりと鳥肌が立つ。


「どうです、うまくできていますか? ジュリエッタ――いえ、“ノーネーム”さん。必要無いことではありますが、私はやはり形から入りたいタイプなので」


 彼が何を言っているのか、そもそも何をされたのか、私には理解できない。

 ただ――私の中に、どうしようもなく大きな喪失感があった。


「そんなわけで――今日からは、私があなたです(・・・・・・・)


 にこぉっ、と全身全霊で笑う男。


「わけのわからないことを……私はっ……あ、あれ……? わ、わたしっ……」


 反論しようとした私だけど――言葉が出てこない。

 私があなた。

 あなたが私。

 なら、私は誰なのか。

 自分の名前を口にしようとしても、一切頭に浮かんでこない。


「もはや誰だかわからない。違いますか。仕方のないことです、なぜなら私は“ジュリエッタ”でもあるから。覚えていますよ。幼い頃の思い出も、両親と交わした言葉も、好きな食べ物、好きな場所、好きな音楽、そして――好きな人」


 薄っすらと、彼の言葉で私は理解しはじめた。

 さっきの頭痛。

 救済(カニバライズ)という名の魔法。


「おやおや、いけませんねえお嬢様。あなたはメイドに――」


「返してくださいっ! それは私のものです!」


 私は声を荒らげながら、男に掴みかかります。

 ですがうまく立ち上がれずに、床に手をついてしまいました。


「私とは誰ですか? “私”を奪われたあなたは、もはや何者でも無いはずです」


「だ、だから、それを返してっ! 私から私を奪わないでぇっ!」


「もう戻りませんよ、永遠に」


 悪びれもせずに、男は言った。


「そんな……」


 絶望が私の胸を満たす。

 しかし今となっては、なぜこんなに悲しいのか、苦しいのか、それすらもわからない。


「ですが心配には及びません。ですよねえ、ロミオ君?」


「はい、救済ですからね。一刻も早く、彼女を苦しみから解放してあげないと。おい、誰かいるか?」


「はっ!」


「彼女を屍棄淵(ゲヘナ)にでも捨ててこい!」


 入ってきた二人の兵士が、私を掴んで無理やり立ち上がらせる。

 そして強引に、引きずるように連れて行こうとしている。

 私はもちろん暴れて、喚いて、抵抗した。


「離してっ、離してよぉっ! いやだっ、私を空っぽのままにしないで! 返してっ、返してえぇぇええええっ!」


 兵士の腕を振り払い、がむしゃらにロミオ様に掴みかかろうとする。

 すると彼は薄ら笑いを浮かべて、こちらに人差し指を向けた。


「どうして君は、与えられた優しさを無下にするんだい?」


 彼の指先から、小さな石が、猛スピードで放たれた。

 ロミオ様は魔法使いじゃないはずなのに――でもこれは、間違いなく魔法だ。


「いぎっ!?」


 私は肩を貫かれ、血を流しながら倒れました。


「連れて行け」


 今度こそ、抵抗する力は残っていない。


「いや……やだあぁ……! う、うああぁああああっ!」


 子供のように駄々をこねる私。

 ロミオ様も謎の男も、もはやそんな私を一瞥することもなかった。


「それで、天使は見つかったのですか」


「ええ、おかげさまで。もっとも事前情報通りですので、“奪う”必要があったかと言えば微妙なところですが」


「どうせ価値のない命ですから、問題はありません。次は天使の確保ですね、早速手配します」


「ふふ、そうですね。平和でハートフルな帰省(・・)を始めましょうか! 大好きなんですよぉ、私、そういう平和な日常ってやつが! 救済に満ちている、そこに私が入り込むことで……オゥッ、オォウッ! これがさらなる救済ですかぁっ!」


 部屋から出ると、そんな二人の会話すら遠ざかっていく。

 そのまま私は、治療もされずに麻袋に詰め込まれ、馬車に乗せられた。




◇◇◇




 意識が朦朧としている。

 ぼんやりする世界の中で、私はがたがたという揺れだけを感じていた。

 拘束された状態で蒸し暑い袋の中に詰められているから、すでに私は何度か嘔吐している。

 気持ち悪い。

 傷がぐじゅぐじゅで、お腹がぐちゃぐちゃで、頭がずきずきで、縛られた腕もしびれている。


 屍棄淵(ゲヘナ)は確か、死体捨て場だったと思う。

 おぼろげだけど、そのあたりは残っている。

 いらなかったのかな。

 墓に埋葬するほどでもない、どうでもいい死体が投げ捨てられる場所。

 そこには深い深い大地の裂け目があって、いつの間にか、自然とそこに処分するようになったらしい。

 おかげで、異臭は漂うわ、屍肉を狙う魔獣はうろつくわで、普通の人は近づこうとしない。

 そんな物騒な場所が――えっと、――家とか、――様の、領地の近くにある。


 馬車で揺られること一日。

 私は痛みで眠ることもできず、体は弱っているのに気絶もできず、屍棄淵(ゲヘナ)まで生きた状態でたどり着いてしまった。


「うわ、くっせえ」


「漏らしてんだな。仕方ねえよ、あんだけ長時間閉じ込められてたんだ」


「こうなっちゃミスティック家のご令嬢もおしまいだな」


「最初から終わってたろ。魔法使いじゃないんだからな」

 

 誰かに命じられ、私をここまで連れてきた傭兵らしき二人。

 彼らは私を袋から出すと、それぞれ腕と足を掴んで、屍棄淵(ゲヘナ)の近くまで運ぶ。

 ぼやけて見える空の色は灰色。

 太陽は隠れて見えない。

 空の色も鬱屈としていて、あたりの空気もどんよりと重くて、今の私に馴染むようだ。

 そう、馴染んでしまった。

 私の体はとっくに死に寄り添われていて、XXのいる生者の世からは、とうに離れている。

 

 ――誰?

 

 もはや助けを求める気力すら残っていない。


 ――誰に?

 

 無駄だと知っているから、無意味だと気づいてしまったから。


 ――何が?

 

 でも、それでも求めてしまうのは……たぶん私が、その人のこと、好きだったからなんだろうな。

 今となってはわからないけど、胸に開いた大きな一番大きな穴は、たぶん、その人のいた場所だ。


「せーの……っ!」


「よっと!」


 私の体は虹の軌道を描いて、裂け目の中に堕ちていく。

 虹の根本はどんなに探しても見つからないから、きっとこの軌道にも終わりがない。

 それぐらい、ひゅるりひゅるりと私は堕ちて、


「ぎゃぶっ!」


 衝突して死ぬと思ったのに、柔らかな何かにぶつかって、骨が折れるだけで生きてしまった。

 またもや、苦痛の中で。

 異臭が濃くなる。

 目すら開けられないぐらい空気が淀んでいる。

 だらりと伸びた腕、その指の先がぬるりとした何かに触れた。

 軽く動かすと、今度はごつごつざらざらしたものに、次はぐちゅりぬめりとしたものに。

 それが、腐敗して、土に還る途中の“死体”だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 首を傾ける。

 虚ろな視界でも、ごく近いものだけは見える。

 腐った顔。

 だらりと伸びた緑色の舌。

 流れる紫色の眼球。

 意外なことに、意外と“赤”は少なかった。


「へ……えへへ……」


 それが私の末路だと思うと、不思議と笑い声が漏れる。

 視界を戻す。

 上を見る。


 太陽は見えない。

 けれど空が遠いことはわかる。

 でも届かないかな、と思って手を伸ばした。


「キュイイィィイイッ!」


 甲高い鳴き声が聞こえて、くちばし(・・・・)がぐぱっと開いて、私の腕を噛みちぎった。

 屍肉を漁る魔獣。

 そんな彼らも、本当は生きた肉の方が好きなようで。

 私がそこにいることに気づくと、別の個体がやってくる。

 ばさばさ、ばさばさと群がって、その鋭いくちばしの先端で、私のお腹をつんつん突く。

 もはや痛みなんて消えていた。

 とても寒くて、意識も薄れていて、そんな中――引きずり出される(ハラワタ)を、

私は他人事のように眺めていた。

 

 

 

◆◆◆




「お嬢様……お嬢様……」

 

 アンジュは、屋敷で意気消沈していた。

 最低限の仕事はしているが、それ以外の時間はメイドに与えられた控え室で、椅子に座ったままうつむくばかり。


 本当はついていきたかった。

 というか、最初はそのつもりだった。

 嫁入りの時に、お付きのメイドを連れそうことは、そう珍しいことじゃない。

 だから今回も――と思っていたのに、それをロミオが拒んだのだ。


「早く帰ってきてください、お嬢様……」


 そんなにすぐジュリエッタが戻ってくるはずがないことを知りながらも、願わずにはいられない。

 そうして沈んだまま、時間が過ぎ去るのを待っていると、


「いたっ」


 急に、手の甲に痛みが走った。

 そのまま手は熱を帯びて、継続的に焼けるような感覚が襲ってくる。


「な……どうして……?」


 見てみると、そこには魔法使いであることを示す、刻印が浮かび上がっていた。

 それが意味することは――アンジュが、後天覚醒者だったということ。

 同時に、彼女の頭には自らの使う“魔法”と、その“覚醒条件”が流れ込んでくる。

 

「……そんな」


 手の甲を見つめながら、ひとしずくの涙が、頬を伝う。


「そんな、ことって……」


 力の覚醒条件は――“愛する者の死”。

 ちょうどその瞬間、弔うに値しない(・・・・)死体が捨てられる星の裂け目、屍棄淵(ゲヘナ)の底で、ジュリエッタが命を落としたのだ。


「お嬢様……お嬢様あぁぁ……っ!」


 膝から崩れ落ち、アンジュは嗚咽を漏らす。




◇◇◇



 

 時を同じくして、ミスティック家の屋敷の手前に、一台の馬車が止まった。

 そこから下りてくるのは、ド派手な格好をした不気味な大男。

 

「ただいま! お父様、お母様!」


 彼は媚びた裏声で、屋敷から出てきた二人に声をかけた。


「ジュリエッタ、早かったじゃないか」


「ウフフッ、寂しい寂しいと泣いていたら、ロミオ様が許してくださったのヨ。どうカシラ、驚いた?」


「あ、ああ……」


「その、ロミオ様が許してくださったというのは……」


「安心してお母様、婚約破棄ではないわ。一時的に戻ってもいいと言われただけヨ。ウフフフフッ」


 父と母は戸惑いながらも、娘の帰還を喜ぶ。

 なおその戸惑いの中に、彼が“ジュリエッタではない”という疑念は含まれていない。

 そう、少なくともその場にいる全員から見て――彼はどこからどう見ても、ジュリエッタでしかないのだ。

 そこに、ちょうど訓練から戻ってきた兄のジェイクと姉のクレアも加わり、屋敷の玄関はにわかに騒がしくなる。

 

 屋敷の中にいるメイドたちは、二階の窓からその様子を眺めていた。


「ついこの間出ていったばかりじゃない。本当は魔法使いじゃないからって愛想を尽かされて、追い出されたんじゃないの?」


「ふふふっ、だったら面白いよねー。ますますミスティック家での居場所が無くなっちゃうんだから」


「……こら、二人ともっ」


 ひそひそとジュリエッタの悪口を言うメイド。

 魔力をもたない彼女に対し、陰口を叩く従者も少なくはなかった。


「何よ、別にいいじゃない。アンジュが聞いてるわけでもないんだから」


「だから、いるのよ。そのアンジュがっ」


「うげっ」


 背後からぬるりと現れたアンジュから逃げるように、メイドたちは散っていく。

 だから当のアンジュは、それどころではなかった。


「……ああ、お嬢様。あのような、醜い、男に」


 ただ一人――アンジュだけには、ジュリエッタを名乗るその怪物の“正しい姿”が見えていたから。

 ふつふつと湧き上がる殺意。

 だが同時に、その姿を見た瞬間にわかった。


『あれは普通じゃない』


『あれは人であって人でない』


『逆らうだけ、命の無駄だ――』


 教祖はふいに顔をあげた。

 アンジュと目が合う。


『そこにいたんだね』


 彼は大げさに口を動かしながら、声が届かないことを理解しながらも、彼女に語りかける。

 ジュリエッタに対してそうしたのと同じように、心の奥底から“愛”を込めて。


『世界でただ一人の、私の娘――』 


 ぞくりと、アンジュは意識を失いかねないほどの寒気を感じた。


(あの男は、私を探している――)

 

 それを知り、すぐさま走り出す。

 手近な部屋に走り込み、その窓を開いて二階から飛び降り、屋敷からの脱出を図った。

 裏庭で洗濯物を干していたメイドの奇異の視線を無視して、塀をよじ登り、敷地から出ていくアンジュ。


 一方で玄関では、アンジュの脱出を察した教祖が、親指をガリガリとかじりながら一人つぶやく。


「どうしてお父さんの愛を受け止めてくれないのですか。君は私の天使なのですよ? 娘は父親にもぐもぐ食べられるために生まれてきたんでちゅから、ちゃんと、ちゃんとお行儀よく三指立てて玄関で待ってるべきでちゅよ。ねえ、天使ちゃん。天使ちゃあぁあああああああんッ!」

 

 彼が叫ぼうとも、囲むジュリエッタの家族たちは異変に気づかず。

 そしてその叫びに呼ばれたかのように、止まった馬車から白いローブの男が二人、姿を現す。

 教祖は二人の方を見て、親指から流れる血で汚れた口で命じた。


「迷える天使を救ってあげて♪」


『はい、教祖様っ!』


 二人の男は、その指示が至上の歓びであるかのように満面の笑みを浮かべ、アンジュを追って屋敷の裏へと駆け出した。

 その動きは、並ではない。

 明らかに戦闘のプロ――それは同時に、二人が魔法使いであることも示していた。




◇◇◇




 教祖には、いくつかの想定外があった。

 そのうち最大の誤算は、アンジュがすでに魔法使いとして目覚めていたことだろう。


「はっ、はっ、はっ……ふっ!」


 そして、その力が身体能力の向上を伴うものだと知らなかったこと。

 無論、プロである追っ手二人に比べれば拙い動きではあったが、アンジュには“周辺の地理を知っている”という大きなアドバンテージがある。

 振り切って、追いつかれて、隠れて、やり過ごして、また振り切って――そんな繰り返しは、夜を経て一日中にも及んだ。

 そしてアンジュはたどり着く。

 目的地。文字通りの終着点(・・・)

 彼女は終わりを求めてここに来た。

 ジュリエッタが死んだのならば、自分が生きる意味など無いと。

 そして理由はわからないが、あの男がジュリエッタを殺してまで自分を狙っているのならば、最大の復讐は自分が終わることである、と。


「なぜ教祖様の救いを拒むのです?」


「あなたが救われれば、より沢山の人が救われます。なぜならあなたは天使なのですから!」


「黙れえぇッ! 私が天使とかどうでもいいの。あなたたちは私の大事なものを――私の天使を奪った、その時点で対話なんて無意味なのよ!」


「何をおっしゃっているのですか天使様。ジュリエッタ様なら生きています。あなたにも見えたでしょう、教祖様に重なってジュリエッタ様の姿が!」


「見えるもんですかっ! 私に見えたのは、醜くておぞましい悪魔のような男の姿だけよっ!」


 追っ手二人は、困った表情で顔を突き合わせる。


「なぜ見えないんだ?」


「血の繋がりが成す御業なのか」


「天使だからか?」


「ああそうだ、天使様だから。さすが天使様! やはり! やはり真の救済にはあなたの力が必要なので――」


 聞くに堪えない。

 アンジュは彼らを無視して、自らの意思で屍棄淵(ゲヘナ)に飛び込んだ。


「お待ち下さい、天使様っ!」


「天使様あぁぁぁあああっ!」


 何やら声が聞こえるが、全く後ろ髪をひかれることは無かった。

 アンジュは重力に導かれ、奈落の底に落ちていく。

 恐怖は無かった。

 むしろ、ジュリエッタのいない悪夢のような世界から離れられることに対する安堵しかない。

 こんな悪い夢は終わるべきだ。

 夢に対する現実が存在しなくて、このまま全てが消えて無くなったとしても、そっちの方がずっといい。


 そしてアンジュの体は、死体のクッションの上に叩きつけられる。

 強い衝撃で内臓を損傷し、さらには突き出した骨が体に突き刺さる。

 それでも死ななかった。

 ジュリエッタの場合は“幸運”だったが、彼女の場合は魔法使いとしての能力覚醒も関係しているだろう。


「う……あ、は……」


 うつ伏せになって、痛みに体をよじるアンジュ。

 普通、身を投げて死に損なった人間は、そのあまりの苦しみに自分の選択を悔いるものだが、彼女は違う。

 痛みの中でも、少しずつジュリエッタに近づいているような気がして、口元には笑みが浮かんでいた。

 少しずつ、少しずつ、命が削れていく。

 穴の空いた肺で呼吸するたびに、魂が流れ出ていくのを感じる。

 それでも痛いものは痛いので、体はどうしても動いてしまって――伸ばした手が、誰かの手に触れた。


「……っ!?」


 アンジュは、その感触を覚えている。


「お嬢……さま……?」


 最期の力を振り絞って、顔をあげる。

 そこにあったのは、体を食い荒らされ、顔も半分ほどが削られた、無残なジュリエッタの亡骸だった。


「おぉ……あ、お……うああぁ……お嬢様ああぁ……お嬢様あぁぁああ……!」


 彼女がその刹那に感じたのは、今までで最も強い喪失感。

 愛らしい顔はぐずぐずに崩れ、抱きしめた体はめちゃくちゃにかき混ぜられ、もはや絶対に愛すべき日常は戻らないのだと知ってしまった。

 その喪失が――己の命の喪失よりも大きく、アンジュの心を満たしていく。


「どうしてですかあっ! どうして……お嬢様が……こんな、目にいぃ……!」


 彼女は体が血肉で汚れることもいとわずに、その体を抱きしめた。

 そして崩れた顔を愛おしく手のひらで撫でて、想いをぶちまける。


「誰よりも、頑張ってたじゃないですかぁ! 知ってるんですよ、私は。お嬢様が、魔法使いの才能は無くても、誰よりも……この世界の誰よりも魅力に溢れていて、だから、誰よりも幸せになるべき人なんだって……なのに、なのにいぃっ!」


 瞬間、彼女の激情がぴたりと止まった。

 そして天啓でも受けたように、「はっ」と顔をあげる。


「……ああ、そうか。そう、ですよね。運命、なんですね、きっと。こうして、私とお嬢様がまた会えたことは……こうするべきだっていう……神だから、誰だか、知りませんけど」


 震える唇。

 正しい選択はわかった。

 けれどそれは――アンジュのうぬぼれでなければ、きっと残酷な方法だ。


「私のすべてはあなたのために」


 それでも、アンジュは、自分の命よりも価値のあるものを見つけてしまった。

 そのための手段があるのなら、“ジュリエッタの死”というトリガーで目覚めてしまったのなら――


「命も、この魔法も、すべてを……」


 アンジュはジュリエッタの死体と口づけを交わす。

 体や心だけではない。

 魂すらも、絡ませ合うように。




◆◆◆




 とくん。とくん。


 心臓の音がした。


 とくん。とくん。


 とてもとても、優しい音がした。


 とくん。とくん。


 それが私の音だと気づくまで、少し時間がかかってしまった。

 なぜだか、自分の音とは少し違うような気がしたから。


 むくりと体を起こす。

 ずるりと誰かの体がこぼれ落ちる。

 メイド服を着た、金髪の女の人だった。

 誰かはわからないけど、自然と彼女の頬に手が伸びる。


「つめたい……」


 女性はすでに息絶えている。


「……?」


 私の目から、雫がこぼれ落ちた。

 どうしてこんなに悲しいんだろう。

 わからないけど、その顔を見ていると、とても胸がぽかぽかする。

 きっととても優しくて、慈悲深い素敵な女の人だったんだろうな。


 続けて、私は自分の胸に手を当てた。

 心臓の鼓動がそこにある。

 おかしいな、確か私、死んだはずなんだけど。

 無いはずのものがたくさんあって、首をかしげるばかり。

 全身を流れる、この覚えのない“熱いもの”もそうだ。

 私はなぜか、漠然と、その存在が何なのか気づいていた。


「魔力……」


 つぶやく。

 手の甲には、紫色の禍々しい刻印が浮かび上がっていた。

 軽く意識して、力を込めてみる。

 ブチブチと皮膚を突き破って、私の体ほどある、骨で出来た竜の“口”のようなものが現れた。


死神(タナトス)


 口は大きく開かれて、屍棄淵(ゲヘナ)に満ちる死体を喰らい始める。




◆◆◆




「ストーンプレッシャーッ!」


 ロミオが手をかざすと、緑色の肌の人型魔獣――ゴブリンの頭の上に、直径2メートルほどの岩が浮かび上がる。


「グギャアーッ!」


 ゴブリンはその岩に押しつぶされ、絶命した。


「お見事です、ロミオ様! もう完全に魔法を使いこなしてらっしゃる!」


 “狩り”に同伴する執事が拍手しながら言った。


 ここはロミオの屋敷のほど近くにある森の中だ。

 人里にも近い位置にあるが、最近は下級魔獣が徘徊するようになっていた。

 ロミオは“魔法使い”としての実績作りも兼ねて、ここに狩りにやってきたというわけである。

 

 彼は誇らしげに、「ふっ」と笑みを浮かべる。


「地属性の魔法使い……ありふれた能力ではあるが、俺の魔力は先天性(・・・)の連中よりも遥かに高い。しかも“魔獣の撃破”によって成長するタイプの魔力だ。成長が早いのも当然だな」


 魔法使いにはそれぞれ、成長のための条件がある。

 人助け、人殺し、はたまた単純に戦うだけで成長したり、あるいは食事を通して成長してみたり――種類はさまざまだ。

 その中でも、“魔獣殺し”は、条件のゆるさの割に成長速度が速いため、魔法使いとしての適性が高い方と言われている。


「ですが驚きました、まさかロミオ様が後天覚醒者だったとは」


「……まあな」


 ロミオの魔力は、あの“教祖”によって目覚めさせられたものだった。

 彼は死者を蘇らせる“天使”の力の持ち主を探させる代わりに、その覚醒条件をロミオに教えたのである。


「ミスティック家の領地もほどなく俺が手に入れる。これで誰もが、俺をこの国随一の大貴族として認めることだろう! はははははははっ!」


 高笑いが森に響き渡る。


「ロミオ様あぁぁっ!」


 女の叫び声が、それを遮った。

 ロミオと執事が声の主に視線を向ける。

 そこにはロミオの屋敷で働くメイドが、顔を真っ青にし、息を切らして立っていた。


「いきなり何だ。魔獣でも現れたか? なら俺が魔法で直々に退治してやろう」


「そんなものじゃないですっ! 巨大な……とても大きな化物が領内に現れて!」


 今、まさに魔獣を倒したばかりで自信に満ち溢れたロミオは、なおも笑みを崩さない。

 自分の魔法ならそれでも太刀打ちできると思っているのだ。


「すでに領内の魔法使いたちが集まって抵抗を始めているのですが……」


「現場に案内しろ」


「一刻も早く協会に連絡して、援軍を呼ぶべきかとっ!」


「案内しろと言っている! まさか俺に倒せない魔獣がいると思っているのか!?」


「い……いえ。わかりました、それでは……」


 メイドの案内で、まずは森を出るロミオ。

 だがそれ以上の先導は必要無かった。

 視界を遮る樹木が無くなった瞬間、すでにそれ(・・)は見えていたからだ。


「何だ、あれは……」


 ワイバーン、キマイラ、ゴーレム、ベヒーモス――“巨大な魔獣”に関する知識はロミオにもあった。

 しかしその姿は、彼の知識にあるどの魔獣とも一致しない。

 メイドが“化物”と呼ぶ理由も、すぐさま理解した。


「骨でできた……あれは、“蜘蛛”なのか……?」




◆◆◆




 沢山、食べた。

 私の力を蓄えるのに、ちょうどいい死体がいくらでもあったから。

 ちっともお腹はたまらないけど、魔力だけは増えていく。


 “死体喰い”。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

 たぶん、それが魔法使いとしての私が成長するための条件。

 そういう意味では、屍棄淵(ゲヘナ)で目覚められたのは幸運だったのかもね。


 そして私は這い上がった。

 食らった死体は体の中に蓄えられているから、もちろん皮膚を突き破って出てくる“骨”だっていくらでもある。

 それを爪に変えて、壁に突き刺して、あの高い高い崖を登りきった。


 それから少し時間を使って、私は自分がなにをやるべきか考えた。

 覚えていることはほとんどない。

 けれどあのロミオとかいうやつと、変な男は覚えてる。

 たぶん、私から“奪った”のはあいつらだ。


 記憶は曖昧で、大事なところが抜け落ちて、すうすう風が通り抜けて冷たい。

 けれどそれよりもっと奥に、ぐつぐつ燃えたぎっている何かがある。

 そいつが私に告げてくる。


『殺しましょう』


『――を奪ったあいつらを、みな殺してしまいましょう』


 すごく純粋で、色の濃い、憎しみだった。

 私自身もロミオってやつに恨みはある。

 それに、もっと強くなりたいとも思うから、断る必要なんて無かった。


死神(タナトス)! とびきり大きくて、とびきり強い姿で、あいつらを皆殺しにしましょうっ!」


 物事を“念じる”ときっていうのは、声に出した方がやりやすい。

 私がそう叫ぶと、腕だけじゃなくて、全身の色んな部分から、バキバキッ、ブチブチッ、ぐちゅぐちゅって、突き破って骨が出てくる。

 骨と骨が組み合わさって、形作るのは“一番恐ろしいイメージ”。

 屋敷よりも高くて、畑よりも広い、八本の、鋭く剣のような“脚”を持った蜘蛛。

 そうなると、私はもはや付属品で。

 いわゆる魔獣の“アラクネー”みたいに、上の方にちょこんと乗っているだけ。

 けれどその体を操っているのは、間違いなく、私の意思だった。


 慣れない八本の脚。

 でも実際に動かしてみると、思ったよりも簡単に操ることができた。

 どすん、どすんと乗せた地面を砕きながら、お馬さんよりもずっと速く、私はロミオの屋敷を目指す。


「ふふふふっ、風が顔に当たって気持ちいいですっ!」


 気分は最高。

 いつになく体には命が満ちていて、わくわくが溢れていて。

 たぶん私が失った人生でも、こんなに最高な気分のことは他に――


『お嬢様』

 

 他に――あった気がするから、二番目にハッピー!

 あっという間に屋敷の近くの町に到着すると、人々が怯えながら私を見上げてる。

 でもとりあえず(・・・・・)、あの人達には興味は無い。

 ロミオはどこ?

 ねえロミオ、どこにいるの?

 あれは……違う。

 あっちも違う。


「ふふふふっ。ねえロミオ、どうしてあなたはロミオじゃないの?」


 人々を見下ろしながらそんなことをしているうちに、私は屋敷の前にたどり着いた。

 まだロミオの姿は見えない。

 ひょっとして、このお屋敷の中に引きこもっているのかな。


 私は前脚を一本、ぶおんと振り上げた。

 そこに力を集中させ、さらに巨大化させる。

 それは屋敷よりもさらに大きな、刃というよりは天を貫く柱のようになって、特に小細工なんて必要なく、振り下ろすだけで十分な威力があった。


 ずどんっ!


 ただの一撃で、屋敷は見事に真っ二つ。

 けれどロミオはいないから、私は続けて脚を振る。


 ずどん、ずどん、ずどんっ!


 何度も叩いてリズムを取るうちに、少しずつ楽しくなっていくる。

 ずどんずどんとパーカッション。

 きゃあきゃあぎゃあぎゃあと、屋敷の中からメイドのコーラス隊。

 ボーカルの私は、それに合わせて詩を唄うの。


「乱切り、角切り、みじん切りっ♪ お見事ですわお嬢様っ♪ お掃除も完璧っ♪ ほこり一つ残っていませんっ♪」


 誰から聞いた詩だったのか。

 わからないけど、胸が躍る。


「これは……新種の魔獣か!?」


「なんなのあれ、上には女の子がついてる」


「疑似餌か……土に潜り込んで、少女の姿で人を惑わす魔獣かもしれんな」


「そんなものがどうして地上に!」


「わからんが、俺たちで倒すしかないだろうっ!」


 気分良くお屋敷を叩いていると、後ろが少し騒がしい。

 そこには魔法使いっぽい三人組が立っていた。

 火や氷を放って私の邪魔をするので、後ろ足でぶちゅんぶちゅんと潰しておいた。

 そしたらあっさり死んじゃって、勿体ないから、私は脚の先端を口の形に変えて、その死体を食べて処分する。

 ふふふ、だってお掃除は得意なだからね、私。


「んー、ロミオはまだでしょうか。早く出てきてほしいんですが」


「お……お前は……」


 すると、ついに待ち望んだロミオの登場。

 彼は蜘蛛のてっぺんにいる私を見て、怯えた表情で震えていた。


「ジュリエッタだと……!? なぜ生きているっ、お前は屍棄淵(ゲヘナ)で死んだはずだろうっ!」


「死んだはずが生き返ったんです。そして生き返ったら、魔法使いになってました」


「生き返ったら……魔法使い……? まさか、それが……死んで蘇ることが条件の、後天覚醒者……!?」


「さっそく殺してもいいですか?」


「そうはいくか! 俺だって魔法使いになったんだ! とっておきの一撃を――アーススピア、連続投射ッ!」


 ロミオの周囲に、人ほどの大きさをした尖った岩がいくつも浮かび上がり、私に向けて飛んでくる。

 私は前脚を一薙ぎして、それを全て粉々に砕いた。


「なんだと。俺の、最強の魔法が……」

 

「じゃあ、もう殺していいですよね?」


「や、やめ――ごぶっ!?」


 岩を砕いた前脚で、ロミオの腹を刺し貫く。

 私はそのままのっしのっしと全身して、まだ無事だった建物の壁に、尖った先端ごとロミオを突き刺した。


「ご……あ、う……」


 彼は口とお腹から血を流しながら、ガクガク震えている。


屍棄淵(ゲヘナ)でね、私、鳥に食べられたんです。生きたまま、ずるずるって中身が引きずり出されて。もう痛みとか無かったんですけど、すごく気持ち悪くて、ムカムカして。同じことしたいなって思ってたんです」


「こ、ころし……」


「本当は死体が一番ですけど、食べてるうちにどうせ死にますよね」


「ぐ、ぎゃあぁぁぁああああああああっ!」


 まずは腕からぱくりと一口。

 もぐもぐ噛んで、飲み込んだなら、次は左の腕をぱくり。

 今度は足を、次はふくらはぎ、その次は太もも。


「ひがっ、あががっ! し、しにっ、な、んで……しななっ……があああっ!」

 

 徐々に食べると、ロミオが苦しむ時間が増えてとても楽しい。

 あれだけ血が出てショック死しないのは不思議だけれど、面白いからどうでもいいよね。

 四肢が消えてトルソーみたいになったなら、次は中身を味わう番。

 ずるずると引きずり出して、ぐちゃぐちゃと咀嚼して。

 体が軽くなったなら、最後は頭も開いて、中身からいただきます。


 と言っても、私自身が食べるわけじゃないし、死体なんて食べたらお腹を壊してすぐに吐いてしまう。

 食べるのはあくまで、死神(タナトス)の私。

 死神(タナトス)の胃袋は無尽蔵で、食いしん坊だから、いくらでも食べてくれる。


「……」


 ロミオは死んだ。

 沈黙して反応も無くなってつまらなくなったら、最後はひょっと上に投げて、ごくんとひと飲み。


「ごちそうさまでした」


 手を合わせて、私は魔法を解除する。


「よっと」


 高い場所から見事に着地。

 自分に10点満点をあげてから、周囲を見回す。

 人の姿は無かった。

 みんな逃げちゃったらしい。

 領主が死んだっていうのに、薄情な人たちだなあ。


「まあ、ロミオは殺せたし、もうここはどうでもいいですね。次はどこに行きましょうか。どこに行けば、あの男と会えるでしょうか」

 

 私は数少ない記憶を頼りに、町を離れる。

 強い殺意を、胸に抱いて。




◇◇◇




 ――と、かっこつけて森に入ってみた私だけれど、


「こちら、少女を一人保護した。体は血で汚れているが傷は無いようだ」


 早々に応援として呼ばれた魔法使いらしき女性に捕まってしまった。

 彼女は手のひらに乗せた水晶――たぶん通信用の魔法が込めてあると思う――に話しかけている。

 女性はどうやら私が町から逃げてきた被害者と思ってるようで。

 このまま誤魔化して、逃げてしまおうと思う。


「魔獣は消えたと報告を受けている、が――また出現しないとも限らない。私はこのまま、少女を連れて本部に戻るつもりだ。町の方は頼んでいいか? ああ、助かる」


 ん、町には戻らないんだ。

 だったらこのまま付いていけば、誰にも気づかれずに逃げられるかも。


「少女の名前? あー、それだな、聞いてみる」


 女性は一旦会話を止めると、私に尋ねる。


「君、名前は?」


「……」


 黙り込む私。

 名前……うーん、名前かあ。

 そう言えば、あの男が私から奪った名前を言って――


 ――。


 ああ、そっか、それは無理なんだ。

 私はもう私じゃないから。

 だったら、他の何かを使うしかない。


 えっと、知ってる名前……名前……ロミオとか?

 いやそれはおかしいでしょ、さっき殺したばっかりの領主の名前を使うなんて。

 あの男の名前は知らないし、あと残ってるのは……えっと――


「わからないのか?」


「……アン、ジュ」


 誰のものかはわからないけど、そんな名前が浮かんできた。


「アンジュか、わかった。教えてくれてありがとう」


 女性は私の頭を撫でると、再び水晶と話し始めた。

 一方で私は、自分で言っておきながら、その名前がしっくり来ていなかった。

 たぶん自分の名前じゃないから、それも仕方のないことだけど――もっと違う理由がある気がする。


「アンジュ……私は、天使(アンジュ)……?」


 そして女性に手を引かれながら、私は森の出口を目指す。

 教祖と呼ばれていたあの男を、殺すために。




鮮血王女、皆殺すのパイロット版のような立ち位置の作品です。

これを書いた時点ではあちらを書く予定は無かったのですが、連載のお話頂いたあとに「これをベースにしようかな」と考え鮮血王女の方が生まれました。

実はこちらの作品だとロボット物のように巨大兵器同士が戦う予定でした。

鮮血王女の方でもその名残がちらほらと残っています。