49.5 閑話 勇者殿と精霊馬
49話の少し前、騎士団長のアレクシス視点、勇者()サイドのお話です。
「勇者殿が、精霊馬に乗りたいそうです」
朝から文官長のケネスに呼び出され、一体何事かと思ったら、深刻な顔の彼から発せられたのはそんな言葉だった。
「そうか」
私が頷くと、ケネスは一瞬胡乱な顔をした後、眉を寄せる。
「…精霊馬ですよ? 貴方の──騎士団長の騎馬でしょう?」
「本来は先代勇者の騎馬だ。当代の勇者が乗りたいと言うのなら、明け渡すのが道理だろう」
精霊馬はこの国に2頭と居ない特殊な馬だ。今でこそ騎士団の馬と認識されているが、本来は『果樹の勇者マサオ』の愛馬。彼の死後国に引き取られ、精霊馬に許された者──主に騎士団長が乗っていたに過ぎない。勇者が望むなら、勇者に引き渡すべきだ。
もっとも──当代の勇者が精霊馬に認められるかどうかは、全くの別問題だが。
「勇者殿は、乗馬の心得があるのか?」
乗りたいと言うのだから、腕に覚えがあるのだろう。そう思ったが、ケネスは首を横に振った。
「…いえ、全くの未経験だそうです」
「………は?」
意味が分からない。それなのに何故いきなり精霊馬を要求するのだ?
精霊馬は普通の馬よりずっと体格が良いため、乗馬経験のある者でも乗るのに難儀する。私はそれなりに身長があるから自力で乗れるが、勇者殿は──失礼ながら背が高いとは言えない。まして、ついこの間小耳に挟んだ話では、召喚当初と比べてもかなり太っ……ふくよかになっているという。
ある程度体力がなければ乗馬は難しいのだが…経験者でなければ分からないか。
「…未経験でも、乗ることだけなら出来るでしょう」
既に頭痛がしている顔でケネスが言う。
「試しに乗せてみろ、ということか?」
「精霊馬は人の言葉を理解しているのでしょう? 貴方が説得すれば大人しく乗せてくれるのではないですか?」
確かに精霊馬は複雑な指示も理解しているようだが、だからといって全ての命令に従うわけではない。従うかどうかは当の精霊馬次第──ああ、だから『説得しろ』なのか?
「簡単に言ってくれる」
「相手は勇者殿です、無碍にするわけにもいきません」
思わず呟いたら、ケネスが何とも言えない表情で呻いた。
あの勇者殿と聖女殿は、城の賓客エリアでひたすら贅を尽くした生活をしていると聞く。機嫌を取って国に貢献してもらおうという意図は分かるが、どうも空回りしている気がしてならない。
以前、勇者殿が剣術を学びたいと言うから騎士団から指導が上手いと評判の者を派遣したが、3日と持たずに暇を出された。『オレにはその剣術は合わない』と言われたらしいが、指導に当たった騎士曰く、『剣術云々以前の問題』だという。
指導を素直に聞く気もなく、根気も観察力も基礎体力も足りない。派手な剣の振り方ばかりを求め、基本の型の重要性を理解しない。それではどんな武器でも駄目だろう。
聖女殿はきちんと教師について魔法を学んでいるようだが、成果は芳しくない。
というのも、教師が色香で籠絡され、練習がまともに進まないらしいのだ。魔法師団の隊長が『団内で聖女の教師役の争奪戦が起きている』と嘆いていた。
確かに女性らしい身体つきで、華やかな顔立ちをしていると思う。しかし、争奪戦が起きるほどのものだろうか。そう言ったら、魔法師団長に『お前も聖女様と話をすれば分かる』と深刻な顔で返された。
…とりあえず、魔法師団長も籠絡されていることが分かった。
「無碍にするもなにも、恐らく精霊馬はそんなことを考慮してはくれんぞ。俺の言葉を聞き入れてくれるとも思えん。気に入らなければ勇者だろうと蹴り飛ばすだろう」
「そこを何とかするのが主人の役目でしょう」
「主人ではない」
「え?」
ケネスに胡乱な目で見られ、私は渋面を作った。
「あれの主人は『果樹の勇者マサオ』ただ一人。私は乗せてもらっているだけだ。その証拠に、私はあの精霊馬の名前を知らん」
「…は? 名前を知らない? 冗談でしょう?」
「いいや、本当だ」
実際に私はかの馬の名前を知らない。主人と認められれば精霊馬の方から名乗ってくれる──そう先代の騎士団長から聞いたが、彼も精霊馬の名前を知らなかった。『果樹の勇者マサオ』がそう言っていたという、ただの口伝だ。…彼の冗談だったという可能性もある。
「ならばどうやって指示を出しているのです?」
「普通の馬と同じように動作で指示に従うし、名前が分からなくても声を掛ければ話を聞いているようだ」
「…それは本当に大丈夫なのですか…?」
「今まで問題なかったのだから大丈夫だろう」
実際そうなのだから心配も今更だ。私が首を横に振ると、ケネスは眉間に深いシワを寄せた。…そのうちそのシワが固定されそうだな。
「…とにかく、勇者殿は精霊馬に乗りたいそうです。まともに乗れずとも、貴方が手綱を引くなり何なり、適当に体裁を整えてください」
「…分かった」
城の連中は勇者殿のご機嫌取りに必死らしい。
巻き込まれる精霊馬が少々不憫だが…ここは先代勇者の愛馬として、我慢してもらおう。
「──そういうわけなので、済まないが当代の勇者殿を乗せてやってくれ」
いつものように精霊馬の全身をくまなくブラッシングをした後に事の経緯を説明すると、精霊馬は人間のように目を細めてこちらを見た。
──ブルルッ…。
「そうか、了承してくれるか」
ホッとして首筋を撫でると、精霊馬は深く息を吐く。前足の蹄で小さく地面をかく仕草は、普通の馬のようで可愛らしい。体格は大きいが、存外可愛いところもあるのだ。
「──騎士団長」
若いメイドが足早に歩み寄って来た。確か、勇者殿と聖女殿の専属メイドだ。
「勇者様がいらっしゃいます。準備はよろしいでしょうか?」
「ああ。精霊馬にも言い聞かせていたところだ」
私が頷くと、メイドは一瞬ホッとして、すぐに真面目な表情に戻った。
「くれぐれも、粗相のないようお願いいたします」
「任せておけ」
──ブルルッ。
程なく、足音を立てて勇者殿がやって来る。土が露出している鍛錬場に一瞬眉を顰めるが、好奇心には勝てなかったようだ。そのまま鍛錬場を横切り、少し離れたところで立ち止まって精霊馬を見上げる。
「おお…」
腰が引けているように見えるのは気のせいだろうか。
「お待ちしておりました、勇者殿」
「あっ、ああ」
私が一礼すると、勇者殿ははっと我に返ってこちらに向き直る。…暫く見ないうちに、本当に太ったな。『成金太り』と陰口を叩かれるわけだ。
「精霊馬にお乗りになりたいとのこと。こちらがその精霊馬ですが、乗馬服などの準備はよろしいですか?」
「ああ、もう着ている。見れば分かるだろう」
「…?」
少々不機嫌になった勇者殿の服を、改めて確認する。やたらと装飾が多いが、大元の形は確かに乗馬服のようだ。ここまで派手だと、馬に装飾を玩具か食べ物だと勘違いされそうだが…精霊馬だから大丈夫か。
「…精霊馬よ、頼むから勇者殿の服を食い千切らんでくれよ」
一応、こっそり囁いておく。精霊馬がフンと鼻息を漏らした。それを了承と取って、私は勇者殿に向き直る。
「──大変失礼いたしました。では早速、こちらへどうぞ」
「うむ」
どことなくビクビクと近寄って来る勇者殿を精霊馬の横へ案内し、まずは目を合わせて首筋を撫でてもらう。精霊馬は片目でちらりと勇者殿を見たが、拒否する様子はない。
ならばと早速勇者殿を精霊馬に乗せようとするが、これが思った以上に大変だった。
まず、身長が足りないので鐙に足が届かない。これは予想済みたったので用意していた踏み台を使ってもらったが、いざ鐙に足を掛けても、そこから上に行けない。その体重を持ち上げられるほどの筋力がないのだ。
勇者殿が精霊馬によじ登ろうと格闘している間、精霊馬はじっとその場で待っていた。こちらが申し訳なくなるくらい献身的に、うっかり勇者殿が首筋に爪を立てても悲鳴一つ上げずに。
そのうち体力が尽きたのか、勇者殿は額に脂汗を浮かべて踏み台に座り込んだ。
「…無理だ。デカすぎる」
「では…」
まずは普通の馬で練習しましょう、そう提案しようとしたのだが、勇者殿はメイドにキッと視線を向けた。
「…仕方ない。あれを持って来い!」
「承知しました」
呆然としている間に、メイドが3段式の踏み台──というか、脚立を持って来た。本来は城の庭師や修理工が使っているものだ。一体どこから…。
「こちらでいかがでしょう?」
メイドが涼しい顔で精霊馬の横に脚立を設置する。精霊馬がギョッとしているように見えるのは気のせいだろうか。
「うむ!」
勇者殿は満足そうに頷いて脚立を登り、あっさりと精霊馬に乗った。途端、精霊馬が耳をぱたんと後方に伏せ、険しい表情になる。私はすぐに斜め前に回り、精霊馬の首筋を撫でた。
「すまない、こらえてくれ」
──ブル…。
囁くと、精霊馬が少しだけ大人しくなる。
勇者殿は上機嫌で周囲を見渡し、高いな、と笑顔を浮かべた。
「──よし、このまま村の見回りに行ってやるか!」
「!?」
私は驚いて勇者殿を見上げた。精霊馬も振り返って勇者殿の顔を見ている。…冗談…ではなさそうだな…。
どう止めようか思案していたら、すすす、とメイドが近寄って来た。
「勇者様。本日はこの後、国王陛下との会食の予定が入っております。それに、その乗馬服もまだ仮縫いの状態です。下々の者に勇者様の雄姿をお見せになるのであれば、準備が整ってからの方がよろしいかと」
「おお、そうだな!」
勇者殿はすぐに意見を翻した。
「騎士団長よ! 準備が整ったら、私が精霊馬に乗って村を巡視してやろう! その時はお前も付き合え!」
「──承知しました」
随分と尊大な態度だが、勇者殿に反論することは許されていない。
私は丁寧に一礼した。