5 喋る黒ネコ
翌朝の目覚めは大変快適だった。
そこそこ硬さのあるマットレスにそれなりの重さのある羽毛布団、何より寝返りを打っても落ちる心配のない広いベッド。これで快眠するなという方が無理な話だ。
…昨日まではベッド兼用でもないただのソファの上で寝てたからね。気が付いたら毛布被って床の上で丸くなってるとか、ざらだったし。
あと、あの阿呆を起こしに行く必要が無いっていうのも大きい。
会社行ってなかったくせに、朝起こさないと文句言って来てたんだよあいつ。
しかも優しーく、起きるまで、5分刻みくらいで何度も起こしに行かなきゃならない。
…何であんなのに気ィ遣ってたんだろうな、私。
起きる気があるなら自分で起きろよ。朝の時間は貴重なんだよ。
──ともあれ、つまり今日からはとても快適な朝を過ごせるということで。
「……お?」
何の気なしに洗面所の鏡を覗き込み、私はぴたりと動きを止めた。
「…んー……?」
首を傾げると、鏡の中の人物も同じように首を傾げる。
そりゃそうだ。私が映ってるんだから。
これで鏡の中の人が私じゃなかったら怖すぎる。
…まあこの世界、そういうことが起こってもおかしくなさそうだけど。
問題は、
「…私、いつ髪染めたんだろ…?」
黒だったはずの髪が、紺色に変わっていた。
あと、目の色も茶色味のある黒から緑色に変わっている。
試しに髪を引っ張ってみたら痛かったし何本かブチブチ抜けた。ああ…貴重な地毛が。
(…そういや10円ハゲは治ったんだろうか)
ストレスですねーと診断された側頭部の10円ハゲはそのまま残っていた。
残念だ。とても残念だ。髪と目の色変えるついでに治してくれればいいのに。
…いや、これからは多分今までのストレスとは無縁でいられるはずだから、今後に期待しよう。
なお目の色の方はカラーコンタクトかと思ったが、異物感は無いしじっくり見てもレンズらしきものは見えなかったので、指で眼球に触れるのはやめておいた。どう考えても痛いもんね。
さて、総合すると。
「ワオ、ファンタジー」
この一言に尽きる。
あれか。現地の食べ物を口にしたらそこに染まるとかそういう感じか。
今頃あの阿呆2人もファンタジーな色合いになっているのだろうか──いや、考えるのはやめよう。頭が痛くなる。
とにかく、こうやって見た目が変わったのはとてもありがたい。
今後あの連中が私を探そうにも、『黒髪黒目の主婦』はもう居ないってことだし。
ついでに名前も変えてやろうか。今なら出来る気がする。
私は上機嫌で着替えに手を伸ばし──今日まずやるべき事を認識した。
──服を買おう。
特に下着。
とりあえず今の宿にもう1泊することにして、今日は必要な物の買い出しと街の探索をすることに決めた。
宿の受付でその手続きを済ませ、パンとスープの朝食をいただいた後、私は街へ繰り出す。
宿代が高いのは分かってるんだけど。これから身元不詳でも快く泊めてくれてそれなりに安全で今より安い宿を探してたら、他のこと出来なくなっちゃうし。
元々貰ったお金だし…何より、安全には代えられない。
──まあ、そのお金にも限りがあるわけで。
……服もだけど、仕事も探さなきゃなー…。
「…………働きたくない……」
おっと本音が。
我ながらおどろおどろしい声が出た。
ちらりと周囲を見渡すと、一番近くに居た上品なご婦人と目が合い──ものすごいスピードで去って行かれた。
その奥の老紳士も、私と目が合う前に視線を逸らし、目の前の店に入って行く。
あっという間に、周囲から人が消えた。
ちょっとショックだ。
《……くくくくく……》
どこからか笑い声が聞こえる。
しかし、聞こえそうな範囲に人影は無い。居るのは、店の屋根の上に座っている真っ黒いネコくらいだ。
…ネコだよね? 何かすっごいこっち見て笑ってるけど。
「…」
私が胡乱な目で見返していると、ネコっぽい生き物は大きく伸びをして、軽やかに地面に降りて来た。
《ようオネーサン。随分お疲れみたいだな》
「ネコが喋った」
いや、正確には喋っていない。だって口が開いてない。
なのに何故か、頭の中で若い男の声がする。
(何というイケメンボイス)
私が感動していると、ネコは不思議そうに首を傾げ──合点がいったというように後脚で立ち上がり、前脚をポンと打った。
え、何その動作可愛い。
《あんた、昨日王城で召喚されたやつか。日本人だろ?》
「えっ」
言い当てられてドキリとする。このネコおかしい。いや、喋ってる時点でおかしいけども。
私がじり、と後退りすると、まあ待て待て、とネコは落ち着き払った態度で制止してきた。
《心配しなくて良いって。この街で使われる魔法はな、俺たちケットシーには筒抜けなんだよ。で、俺は昨日、アレクシスのやつがあんたを城から送り出してるのを城壁の上から見てたわけ》
彼らは『ネコ』ではなく、『ケットシー』というらしい。
しかし行動が、もう完全に、
「ストーカー?」
《いーや、ただの野次馬》
どっちもどっちだと思うが。
私が半眼になると、黒ネコもとい黒ケットシーは金色の目を細めてにやりと笑った。
《俺はケットシーのルーン》
「ル〇じゃないんだ」
思わず呟く。
いやだって、喋る黒ネコとか完全に美少女がミニスカセーラー服姿で戦うやつに出て来るアレじゃないか。
…まあこっち、多分オスだけど。目も金色だけど。額に特徴的なハゲも無いけど。
《あれ、あんたそっち世代? 殴る蹴るで戦う白いのと黒いのから始まる世代じゃなくて?》
月の女神様の名前だけで通じてしまった。
しかも別の作品まで出して来てる。
…え、ここ異世界だよね? 普通にあっちのアニメが放映されてるとか…ないよね?
「近所のお姉さんがそっちのファンだったの。で、すっごい熱心に布教されたの。漫画を」
あと、私の地元だけかも知れないけど、放送時間の問題もあった。
…私、休日は昼まで寝てるタイプだったんだよね。
結果、白いのと黒いのはリアルタイムで観ることが出来ませんでしたとさ。マル。
なおミニスカセーラー服の方はお姉さんが原作漫画を貸してくれて、そこからズルズルと沼に引き込まれた。決定打はマスコットキャラクター──と言うか、主人公の相棒がネコだったことだ。
私、ネコ好きだから。顔面をネコの腹に埋めて深呼吸したい派だから。
…あの阿呆がネコアレルギーだったから、結婚しても飼えなかったけどさ…。
「でも、何で知ってるの? あっちのアニメ」
直球で訊いたら、ルーンは何故か得意気に胸を張った。
《それはまあ、俺がケットシーだからだな。まあ何でも知ってるわけじゃないが、色々と知ってるぜ》
理由になっているような、なっていないような。
※本文中に何かどっかで聞いたことあるようなアニメ作品の話が出て来ますが、現実とは関係アリマセン。ファンタジーなので。
…ちなみに私はどっちも好きです(コラ)