29.5 閑話 幻獣の毛皮
「じゃあまた、3日後に」
「ええ」
お邪魔しました、と丁寧に頭を下げ、ユウが店を出て行く。
完全にドアが閉まったのを確認し、私はそろりと動き出した。
「………はあああぁん……!」
青灰の毛皮に顔を埋めると、もっふん、と未知の感触が顔面を包み込む。
「あああああ……」
何と言うか、言葉にならない。
光沢を帯びた明るい青灰という色合いも、どんなに体重を掛けても余裕で受け止めてくれそうな毛の密度も、初めての経験だ。
何より、この保温──と言うか、調温性能。かなり分厚いのに、顔を埋め続けていると不思議と涼しい。一体どうなっているのだろう。
胴体部分の毛皮に左頬を全力で擦り付けながら、横に置いてある尻尾の毛皮に手を這わせてみる。サラリとした手触りに、全身に鳥肌が立った。
ユウ曰く、洗って乾かしただけの毛皮。つまり安定化処置も防腐処置も施していない、ほぼ生の毛皮だ。
櫛を通してもいないのに毛玉一つ無いこの艷やかさ。一日中撫でていられるし、首に巻いたら気絶するんじゃないだろうか。
これにきちんと処置を施したら、一体どれくらいの値に──いや、まだこれは借り物で、買い取りも出来ていないのだけど。
「…くうっ!」
思い切り気合いを入れて、顔と手を毛皮から引き剥がす。
もはや毛皮から離れることが苦行だ。一回触れたら絶対虜になる。
何とか呼吸を整え、私は改めて毛皮を見た。青み掛かった艶が眩しい。
「…何か変な魔法でも掛かってるんじゃないでしょうね……」
触れようとする右手を左手で引き戻し、一歩後退って呟く。そうでもないとこの引力は説明がつかない。まるでヤバい薬のようだ。
……これが、あと16匹分、ある。
「……ベッドの敷きパッド…いえ、ソファーカバー…防寒用マント…」
用途はいくらでも思い付く。ただし、変なところに使ったら触れた人間が動けなくなりそうだ。ベッドとか、多分そのまま昇天する。
…それもまた本望…
「──じゃなくて!」
全力で頭を振って、その妄想を振り払う。
私は素材屋だ。こんな上質素材を売ってくれるというのなら、相応しい相手に届けるのがプロというもの。貯め込んでいる場合ではない。
(まずはちゃんと加工してもらって…いえ、納品先を決めるのが先? これを劣化させずに加工できる職人が居るかどうかも…)
一応、加工職人に心当たりはある。職人通りに住む頑固親父──もとい、ベテラン職人のグラッド。ただ彼は昨年引退宣言をしていたし、弟子も居ない。かと言って、他の職人に任せるのは不安がある。
…だって、普通のウルフの毛皮すらガッサガサにして納品するんだもの…。
「…私一人で悩んでても仕方ないわね」
本当は頼りたくないけど。本っっ当に不本意だけど!
この分野で一番頼りになりそうな人に相談しに行こう。ついでに買い取り資金もせびろう。どうせ『ウチに納入しろ』って言うだろうし。
毛皮を帆布で包んで小脇に抱え、突撃したのはこの街一番の高級服屋『湖面のさざめき』。王家の礼装も手掛ける、正真正銘の高級店だ。
「お邪魔するわよ」
入った途端、店員が嫌な顔をする。私の格好がこの店に相応しくないのは知ってるわよ。この程度で顔に出るとは修行が足りないわね、ハッ。
内心鼻で笑っていると、顔見知りの副店長が声を掛けて来る。
「いらっしゃいませ、マリア様。本日はどのような御用件で?」
納品予定のお品物は無かったはずですが?と笑顔で嫌味を飛ばして来る。そうそうこれくらい上品にやらないとね──って本名を呼ぶんじゃないわよ。それ死ぬほど嫌いなんだから。
「素材屋のカーマインとして、新素材の商談に来たのよ」
「…新素材?」
私が囁くと、副店長はピクリと眉を跳ねさせる。この男も『副店長』なんて肩書きだけど、本職はデザイナーだ。気にならないはずがない。
「要らないなら別の店に行くわ。そうね…『暁の空』とか」
最近頭角を顕している新興の服屋の名前を出すと、副店長は眉を顰め、少々お待ちください、と奥へと引っ込んだ。
程なく、早足で戻って来て軽く目礼する。
「店長がお会いになるそうです。こちらへ」
案内に従ってバックヤードに入り、さらに奥、店長室へ通される。中では、目をキラキラ──いや、ギラギラと輝かせた若い女が待っていた。
「待ってたわ! 新素材──」
「ゴホン!」
「──っと、や、約束も無しに店に来るなんて不躾じゃなくて? マリア」
副店長の咳払いで、ハッと前のめりになっていた体勢を戻す。
…しかしこの2人、揃いも揃って…。
「呼ばれたくない方の名前をわざわざ出してくるってことは、この商談は破談で良いのね? 残念だわオフィーリア」
「ま、待って! 謝る! 謝るから、カーマイン!」
私が踵を返そうとした途端、態度が崩れた。こちらに向けて必死で叫ぶ萌黄色の目には、涙が浮かんでいる。
…これじゃ私が虐めてるみたいじゃない。
「……はぁ」
溜息をついて、ソファーに座る。副店長が慣れた手つきで紅茶を淹れ始めた。
『湖面のさざめき』の店長、オフィーリアは、代々この街の様々な高級店を経営するホワイトウッド家の一人娘。副店長のルドルフはホワイトウッド家の執事も兼任する多才な男で、実質、オフィーリアのお目付け役だ。
「で、で、何を手に入れたの?」
このように、オフィーリアは服飾関係の新素材に目がない。ルドルフも毎回苦労していることだろう。
「これよ」
私はローテーブルの上でそっと帆布の包みを広げた。丁度内側──皮の面が上になり、オフィーリアが眉を顰める。
「…ウルフの毛皮? そんなのありふれて──ちょっと待って」
皮の内側を見ただけで種族を言い当てるのは流石だ。悔しいが、その観察眼には毎回驚かされる。
顔色を変えるオフィーリアの前で、私はゆっくりと毛皮をひっくり返した。青い煌めきが目に刺さる。
オフィーリアとルドルフが息を呑んだ。
「……うそでしょ……」
「これは…」
この表情が見れただけでも来たかいがあったわね。
少しだけ満足していると、オフィーリアが震える手で毛皮に触れた。ふかあ…と、その手がゆっくり埋没して行く。
「…幻獣の毛皮…」
「お嬢さま、私も触れても?」
「ええ、良いわ」
ルドルフに胴体部分の毛皮を渡し、自分は尻尾部分の毛皮を手に取って、オフィーリアは夢見るように呟く。
「…まさか、素材の状態のものにお目に掛かれるなんて…」
「ってことは、これは幻獣の毛皮に間違いないのね?」
オフィーリアの家は高級志向の様々な店を代々経営しているので、貴重な素材にも詳しい。子どもの頃、『うちにはあの『幻獣の毛皮』もあるのよ!』とドヤ顔で自慢されたこともあった。その彼女が言うのだから、間違いないだろう。
私が訊くと、オフィーリアはハッとこちらを見た。
「マリ──カーマイン、これはどこで?」
「秘密よ。まだ公に出来ないわ」
これがこの辺によく出る『ウルフ』の毛皮だって知ったら気絶するでしょうね……いや、全力で人を雇って狩りに行くかしら、この子の場合。
ここぞという時は財力と権力を惜しみなく使うタイプだから、行動が読めない。
「ちなみにこれと同じものがあと16匹分あるんだけど、買取価格を決めかねてるし資金も足りないし処理できる職人もまだ探せてないの」
言った途端、オフィーリアとルドルフの目がギラリと輝いた。
「ウチだったら未加工の毛皮でも、ポーラウルフの2倍、いえ、3倍の値段で買い取るわ。それを基準に貴女のところでの買取価格を決めて頂戴。あ、今前払いするわね。──ルドルフ」
「承知致しましたお嬢さま。加工処理に関してはグラッドに声を掛けましょう。実物を見せれば必ず応じます」
……わあ……。
あれよあれよという間に、毛皮の買い取り体制が構築された。