3 さらば、阿呆
ここは異世界なので、あっちで提出した婚姻届とか、労使の契約書とか、そういうものの効力は無い。
そして今、私は彼らにとって無価値だと思われている──まあそれは多分事実だけども。
つまり上手く立ち回れば、このヒモにも劣る阿呆(男)との関係からも、ズルズルと続けていたくそブラックな仕事からも、これから降り掛かって来るかも知れない面倒事からもオサラバ出来る。
(よし、まずは落ち着こう)
ここでこの阿呆のように『ひゃっほう!』とか言い出したら足を掬われかねない。
私は笑顔を顔面に貼り付けたまま、奴の反応を待った。
「そーかそーか! お断り…──断るぅ!?」
時間差で私の答えを理解した夫は、目を剥いて叫んだ。
コントみたいなリアクションだな。
…いや、あの厭味ったらしい言い方で自分の望んだ答えが返って来るとは思わないだろ、普通。
「どういうことだよ! オレが養ってやるっつってんだぞ! そこは三つ指ついて頭下げるだろ、普通!」
ああ、しまった。
こいつの『普通』は私の普通と違うんだった。
しかし、私としてもこれだけは譲れない。
こんな不良債権とこれからも顔突き合わせて、しかも『お仕えする』立場で生活するなんて死んでも御免だ。
何が何でも、こいつらの世話はこの失礼極まりないご老人たちに押し付け──ゴホン、お任せしたい。
わめく阿呆から視線を外し、私はご老人に向き直った。
「すみません、私は巻き込まれただけなんですよね?」
「む!? …う、うむ」
ご老人がものすごく気まずそうに目を逸らした。
心配しなくても、先程の暴言を咎めるつもりはない。この先ずーっと覚えてる自信はあるけど。
「私は『主婦』だって話ですし、ここに居てもお役に立てることは何も無いと思うんですよね。何せ『主婦』だし」
大事なことなので2回言う。
多分ここは、お城とかそういう、身分の高い人が集まる場所だろう。
そこに『主婦』はどう考えても場違いだ。
「なので、巻き込まれただけの私は一般市民──ええと、平民として暮らしたいと思います。良いですよね?」
『市』という概念があるか分からないので言い直してみる。
「は!? いや、だが、勇者殿と知り合いではないのか?」
何故かご老人が狼狽える。
私は即座に首を横に振った。
「いいえ他人です」
「なっ!? お、お前、何言って」
「他人でしょ? だってこの世界であっちの世界の枠組みが通用すると思えないし。──通用するなら私はこの後あんたたち2人に対して慰謝料請求するけど」
素早く近寄り、ドスの利いた声で耳打ちする。
私が妻だと言うなら、後輩と夫の関係は不貞行為に当たる。当然、私は奴らの責任を追及することが出来る。
さて──この状況でこの阿呆はどんな結論に達するか。
(まあ分かり切ってるけど)
「…き、貴様のことなど知らん! どこへなりと行くがいい!」
夫は全力で目を逸らしながら芝居掛かった声で言い放った。
寝室では『お前が悪い』と無理矢理責任転嫁しようとしていたが、多少なりとも『浮気』の自覚はあったらしい。
…どうでもいいけど、台詞回しがどう聞いても悪党だな。
まあともあれ、言質は取った。私は笑顔でご老人に向き直る。
「──というわけなので、良いですよね?」
「う、うむ…」
「じゃあ、部外者で無関係の私はさっさと出て行きます。あ、今回の件を外で吹聴する気はありません。信じてもらえないだろうし。なので、ご心配なく」
あくまで笑顔で告げて、私はきょろきょろと周囲を見回した。
さっさと脱出しよう。
「外へはどこを通って行けば良いですか?」
ご老人がはっと我に返る。
「ま、待て! 其方は貴重な異世界人だ! 野放しにするわけには」
私は野犬か何かか。
「じゃあ元の世界に帰してくれます?」
「えっ」
「無理でしょう?」
そんな事だろうと思った。
「そちらの都合で勝手に連れて来られて『役立たず』と言われたも同然なんですから、後はこちらの勝手にさせてもらいます。だって私はただの『主婦』、ですもんね」
当たり前の口調で続ける。
「それにさっき、『良いですよね』って問い掛けに頷いてくれたじゃないですか」
「うぐ」
ご老人が思い切り言葉に詰まった。
職場の営業担当が言っていた。『契約を取れるかどうかは、相手からいかにこちらの都合の良い言葉を引き出すかに掛かっている。単語でも可』と。
…今考えるとこれ、ちょっとどころか大分アレな…犯罪っぽい匂いがするけど。
折角の知識だ、有効活用させてもらおう。
異世界からの召喚って聞こえは良いけど、要するにただの誘拐だし。犯罪者に遠慮は不要。
──ただし周囲に兵士っぽい男たちがちらほら見えることを考えると、状況次第で牢屋にぶち込まれる可能性があるので、変に刺激しないように、かつ速やかに脱出するのを優先する。
「では、失礼します」
私は軽く頭を下げて、この部屋唯一のドアに向かう。
目の前の人垣がざっと割れた。身なりの良い人々が探るように私を見ているが、物理的に引き留めようとはしてこない。しめしめ。
ドアノブは普通に回すタイプだった。日本語の辞書らしきものを『文官』と呼ばれていた中年男性が持っていたし、文化に多少なりとも共通点がありそうだ。
(…過去にも私みたいに『召喚』された日本人が居たのかもね…)
ドアを閉め、一本道を進む。
床は白っぽい石、壁は灰色っぽい石で、窓は無い。天井付近に等間隔に設置された照明が光源だ。
照明の光は炎ではないらしい。揺らぎもない、白い光。
よく見ると、ガラスの球体の中に収められた塊状の何が発光している。
「──ま、待ってくれ!」
背後から男性の声がした。
ちらりと見ると、立派な鎧に身を包んだ兵士のような男性がこちらに向けて手を挙げていた。
鎧の上にはマント、そして鎧自体も結構な装飾が施されていて、どうもかなり身分の高い人物のようだ。
その彼がカツカツと歩み寄って来るのだが──滅茶苦茶速い。競歩か。
「まだ何か?」
ここで逃げても地の利はあちらにある。口八丁か泣き落としで何とか丸め込もう。
そう決意して足を止め、振り返ると、男性はあからさまに表情を緩めた。
私の目の前に歩み寄り──見上げるとちょっと首が痛くなるくらい背が高いんだが。
「出口まで送ろう。道順が分からないだろう?」
胸の前に手を添える仕草は、こっちの世界の敬礼だろうか。
しかし声が良い。顔も良い。態度も良い。ついどっかの阿呆と比べてしまう。
(この人に失礼だな)
私はにっこりと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、助かります」
そうして歩き出すと、男性は自分から名乗ってくれた。
「私はこの国で騎士団長をしている、アレクシス・ウィルビーだ。君の名前は──いや、聞かない方が良いな」
おや。
「…市井に降りることを決断したのだから、今後我々と接触する可能性は、出来る限り排除した方が良いだろう」
…すごく常識人な気配がする。
「ご配慮ありがとうございます」
礼を述べるついでに、この国やこの世界について訊いてみよう。
「この…光を放っているのは、ランプですか?」
「ああ。『魔石ランプ』という。魔石に含まれる魔力を引き出し、魔蛍石──魔力に反応して光る鉱石に導入し、発光させるという仕組みだ」
うん、私には魔力とか魔石が何なのか分からんのだけども…まあファンタジーなやつってことか。
「魔力があるということは、魔法や…魔術? そういったものもあるのですか?」
「え?」
アレクシスは一瞬足を止め、その後すぐに頭を掻いた。
「…そうか。君は違う世界から来たのだったな。あまりにも落ち着いているから、こちらの世界の知識があるのかと…」
なるほど、傍からはそう見えたか。
私はにっこりと笑う。
「落ち着いているわけではないですよ」
「えっ」
「色々あって疲れすぎて、大袈裟に反応するのが億劫なだけです」
「………」
ブラック企業の社員ってそういうトコあるよね。
……あれ、私だけ?