2 『勇者()』と『せいじょ』と『主婦』
要するにこれは、ファンタジー小説にありがちな『異世界召喚』というやつらしい。
人間──見た目は人間っぽいので、多分──は中世ヨーロッパに現代のテイストを混ぜたような『いかにも』な服を着ているし、剣やら杖やらを持っている者も居る。
何より、空気が違う。
どう表現したら良いのか分からないが、こう…突然海外に降り立った、みたいな。
匂いだけでなく、温度や湿度、それ以外の何かも、つい先程までの自宅の空気とは異なっている。
…あのきっついフローラル臭がなくなったからそう思うだけかも知れないけど。
周囲を観察していると、いかにも身分の高そうなマントを羽織ったご老人が阿呆2人に近付き、まず夫に手を翳した。
ウォン、とテレビの電源を入れた時のような奇妙な音がして、ご老人の前に白く輝くパネルが浮かぶ。
…え、あれ日本語?
反対側から見ているので逆文字だが、どう見てもアルファベットや未知の言語ではない。
群衆が大きくどよめいた。
「異世界言語だ!」
「やはり、成功か!」
「文官! 訳せ!」
ご老人の声に、神経質そうな中年男性が弾かれたように駆け寄る。
分厚い本をめくり、すぐに目を見開いた。
「この字は…勇者、勇者です!」
(えっ)
「なんと!」
「素晴らしい!」
人々は歓声を上げているが──
…厳密には、『勇者』じゃなくて『勇者()』なんだけど。
何なの? 突っ込み待ちなの?
確かに『()』だけじゃ読みようがないけどさ。
私が呆然としていると、ご老人は後輩に手を翳す。
現れたパネルには、『せいじょ』と書いてあった。平仮名で。
「この字は!?」
「は、はい!」
本のページをめくるのに、暫く掛かる。
やがて中年男性は、首を捻りながら言葉を絞り出した。
「ええと…『せいじょ』と読むようです…ね」
「せいじょ…──『聖女』か!」
ご老人がとても都合の良いように解釈している気がする。
しかし男性も言い方が上手い。責任逃れの見本として教科書に載ってもおかしくないんじゃなかろうか。
──などと考えていたら、ご老人がドスドスとこちらに近付いて来た。
鼻息荒くこちらに手を翳す様は、正直ちょっと気持ち悪い。
また変な音がして、身体の中を何かが通り抜けたような気がした。
──鑑定魔法。
そんな単語が頭を過ぎる。
そっと顔を上げパネルに表示された文字を見ると、そこに書かれていたのは、
「……………『主婦』、ですね…………」
中年男性が呟いた途端、空気が凍った。
「……今、何と言った?」
「は、はい。その文字は『主婦』である、と申し上げました」
「何かの間違いではないか?」
「いえ、この本にもしかと載っております」
「──そんなはずがあるか!」
ご老人がキレた。
「これだけの金と魔力と労力を注ぎ込んで、勇者、聖女と共に召喚された最後の1人が『主婦』だと!? 貴様、私を謀ってただで済むと思うなよ!」
「う、嘘ではありません! 陛下の鑑定魔法には、確かにその文字が出ております!」
「私の魔法が間違っているとでも言うつもりか!?」
いや、多分間違ってない。
だって主婦だしな。
正しくは大黒柱兼主婦だけど、結婚した女性は働いていようといまいと『主婦』って呼ばれるもんな。
…何でだろう、言っててもの悲しくなってきた。
ご老人に食って掛かられた男性が青くなっている。
まあまあ、と割って入ったのは、でっぷり太っ──ゴホン、ふくよかな男性だった。
「たった一度の召喚魔法で、勇者と聖女が喚べたのです。結果は上々でございましょう。この女性は恐らく、余った魔力で引っ張り込まれただけではございませんかな?」
取り成し方が上手い。
…あの時一瞬床に浮かんだ模様、私を中心に広がってたような気がするのは黙っておこう。
何かこいつら、キナ臭い。…小説の読み過ぎだろうか。
ともあれ、それでご老人は納得したらしい。
「ううむ…そうかも知れんな。ならば仕方あるまい」
私から視線を外し、阿呆2人へ歩み寄る。
──その時唐突に、私は気付いた。
自分が浮気したくせに『嫁が悪い!』と大上段から言い放つその神経は、確かにある意味『勇者』だ。
そして『せいじょ』は多分、『聖女』ではなく『性女』──異性を惑わす魔性の女、的な意味ではないだろうか。
そう考えると、『勇者』の後に変な記号がついていたのも、わざわざ『せいじょ』と平仮名表記になっていたのも納得できる。
だって『性女』なんて単語、無いもんな。
「──異世界よりよくぞ参られた、勇者殿、聖女殿。我ら一同、心より歓迎しようぞ」
よくぞ参られたも何も、そっちが勝手に召喚したんだろうが。
私は内心で悪態を吐いているが、夫の受け止め方は違った。
「オレが…勇者?」
「左様。我が血筋に代々伝わる鑑定魔法は、相手の本質を見抜くもの。それにより、貴殿は勇者であることが分かった」
ご老人が自信満々に頷くと、夫は『ゆうしゃ…』と呆然と呟き──
その目がギラリと輝いた。
「──そうか! オレが勇者か!」
ガッツポーズを取り、天井に向かって叫ぶ。
「こういうのを待ってたんだよ! オレの輝かしい人生はここから始まるんだ!」
背中がむず痒くなるような台詞の後、何故か勝ち誇った表情でこちらを見る。
「よう、主婦。お前が頭を下げて『誠心誠意勇者様のために尽くします』と誓うなら、養ってやらんこともないぞ」
「やだダーリン、やっさしーい。そうよねー、勇者と聖女には仕える人が必要だものねー」
…そういえば、この阿呆2人ともネット小説とか読んでるんだっけ。
適応力があるのは良いが、ちょっとはこの状況を警戒した方が良いと思う。
──いや。
(…これ、考えようによってはチャンス…?)
既に私の中で、この阿呆(男)と離婚するのは決定事項だ。
今までの金銭的に私に依存した状況下では、交渉が難航するのは目に見えていた。
しかし今、奴は自分が『勇者』だと舞い上がり、生活の保障があるとも言われていないのに私を『養ってやってもいい』と言っている。
つまり、今後の生活は私が居なくとも盤石だと思い込んでいる。
一方で私は『主婦』だと判定されたので、多分ここでは必要とされていない。
…なるほど?
「ほら、さっさと頭を下げろ。こんなに寛容なのは今だけだぞ?」
阿呆がニヤニヤと促して来る。
──その顔、『勇者』というより『小悪党』だな。
私は笑顔で応えた。
「お断りします」