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1 修羅場発生は突然に



 ──これは一体どういう状況だろうか。



 平日の真っ昼間。


 自宅寝室のドアを開け放った状態で、私は内心呟いた。


 目の前には、ダブルベッドの上、こちらを睨み付けて来る男女。

 どちらも見知った顔だ。何せここは私の自宅アパートである。


 男は私の配偶者、つまり夫。

 そして女は──いっそ知らない人間であって欲しかったが、まあある意味予想通りと言うか、私の職場の後輩である。


 学生時代から付き合っていた私と夫は、社会人になって3年目に結婚した。

 式にはお互いの職場の同僚を招待したので、当然、この後輩も笑顔で式に参列していた。

 とても可愛らしく、愛嬌があり──()()()の噂が絶えない後輩である。

 どっちが先に手を出したのか知らないが、こういう状態になっても驚きはない。むしろ納得してしまう。


(『女らしさ』って点では、まあどう考えても、私が勝てる要素、無いし)


 身長はそれなり、体重はそこそこ、()()()()

 結婚式のために伸ばしていた髪は、式が終わったら即座にばっさり切った。


 黒髪ロングからベリーショートになった結果、出勤したら未成年の男──少年と間違われて守衛さんに止められたのは今でも職場の伝説となっている。私服通勤だからと思ってスラックスにパーカーにマスクで出勤した私も悪いのだが。


 以来、それなりに見た目に気を遣って仕事をしてきたつもりではある。


 …が、ここ数ヶ月は自分の身なりに目を配る余裕は無かった。


 社会人5年目。担当する仕事が増え、当然の如く労働時間も増えた。

 それなのに給料が変わらない。おかしいなと思って調べたら、給与に『固定残業代』なるものが含まれていた。

 これは残業を見込んで最初から給与に色を付けておくもので、うちの会社の場合、月の残業が40時間までは、定時上がりの人間と給与が変わらない。


 …最初から把握しておけ?

 まあ確かにその通りだ。言い訳はすまい。


 とにかくそれで精神を削られているのと同時期に、夫がぽつぽつと仕事を休むようになった。


 頭が痛い、下痢気味、めまい、疲れが取れない…理由は色々あって、最初はとても心配した。

 病院へ行くよう勧めたが、『休めば治る』の一点張り。正直私にも余裕がなかったので、無理に連れて行くこともなかった。


 ──おかしいと気付いたのは、先月のこと。


 その頃既に夫が仕事を休むのは常態化していて、私も感覚が麻痺していた。


 体調不良だと言うので、家事も全て私がこなしていたのだが──ある日仕事から帰ると、寝室の匂いが変わっていた。

 聞けば、連日寝汗をかいてシーツが汚くなったので洗濯をしたのだという。

 だが──寝室に充満するきついフローラル系の香りの洗剤や柔軟剤は、()()()()()()

 洗濯機にその匂いはついていなかった。シーツは乾いていたし、恐らくコインランドリーにでも行って来たのだろうが──


 …()調()()()で休んでいた人間が、わざわざコインランドリーまで行ってシーツの洗濯などするだろうか?


 フローラル系のきつい匂いは苦手だと言って、その日から私はリビングのソファで寝るようになった。


 夫は全く気にする素振りもなく、むしろ以前より生き生きとし始めた。──相変わらず、仕事には行かなかったが。


 私の給料がそこそこ良かったので、食べる分には困らなかったのもダメだったのかも知れない。



 ──そして、今日。



 忘れ物を取りに一時帰宅した私は、玄関にそれはそれは可愛らしい女物の靴があるのを見付けた。


 瞬間思ったのは──ホントにこんなことってあるんだなぁ。


 自分でもびっくりするくらい冷静なまま、静かにドアを閉め、階段を上がりながらスマホの録画機能をオンにして、ノックも無しに寝室のドアを開けたのがつい先程のこと。

 だって自宅だからね。


 ベッドの上に居るのが夫だけではないことを確認し、開口一番、口にしたのは『寝室で真っ昼間から何やってんの?』である。

 多分今までで一番平坦な声だった。


 そして今に至るわけだが──解せないことが一つ。



「大体、お前は前からオレを馬鹿にして──!」

「そうよ! だからダーリンは体を壊しちゃったのよ!」


「………」



 …何故、浮気された側が責められているのだろうか。


 あと、『ダーリン』って真顔で呼ぶ人、初めて見た。


 ──とりあえず。



「まず服を着ろ」



 こんな場面で上半身裸の人間と話をする趣味は無い。

 私が淡々と言い放つと、ようやく自分たちの状況に気付いた2人がギョッと目を見開いた。


「さ、最っ低! ヒトの裸をじろじろ見るなんて!」


 いや、最低なのは他人の家で他人の夫とベッド・インしているお前だと思うが。

 …何だか表現が古臭くなってしまう。


 遠い目をしている私の目の前で、夫と後輩がもたもたと服を着る。

 どうやらお互い、下は履いていたようだ。



(…これで『肉体関係は無いから浮気じゃない!』って主張しだしたら本物の馬鹿だな)



 服を着ている間に、向こうも少々冷静になったらしい。何やら目配せして頷き合っている。


「……で、いつからのお付き合いなのかお聞きしても?」


 この阿呆が身内だと思いたくなくてわざと丁寧な口調で訊ねたら、夫は何故かふんぞり返った。



「は? 何言ってんだ。彼女はオレの看病に来てくれただけだ。やましい事なんぞ何も無い!」

「そうよ! 独りで寂しく寒い思いをしてるみたいだなって、温めに来てあげただけよ!」



 真正の馬鹿はここに居た。


 上半身裸で温め合うとか、一昔前のファンタジー小説じゃあるまいし。


 ──なお現実の雪山で遭難した時にそれをやったら、外側を包む衣類が足りないと間違いなく凍傷からの凍死コースなのでここに申し添えておく。


(…久しぶりにファンタジー読みたいな…スカッとするやつ)


 私が思考を明後日に飛ばしている間、阿呆(男)と阿呆(女)はなおもぎゃんぎゃんわめいている。

 曰く、体調不良の夫を気遣わないお前が悪い。

 思いやりが無いのをフォローしてあげただけ。

 家事もろくに出来てないくせに。

 料理下手なんですってねー。カワイソ。


(うるせェ)


 気遣って『病院行ったら?』とか言っても断ってたのはお前だ。

 誰も手前ェのフォローなんか頼んでない。

 フルタイム残業増し増しで働いて毎日料理して片付けして掃除して、これ以上何をやれと?

 油脂大好き濃い味限定の夫の好みに合わせてたら肥満と高血圧まっしぐらだから、結婚した時『せめて平日は薄味にしよう』と約束したはずだが?


 様々な言葉が脳裏に浮かび、喉の手前で消える。

 私は思ったより疲れていたらしい。喋ることすら億劫だ。


 私が黙っているのを反論できないだけと誤認しているのか、阿呆2人の主張はただの暴言と化している。



 …ところでこれ、録画されてるっていつになったら気が付くんだろうな。



 胸の前に持ったスマホのレンズは、今なお2人の姿をバッチリ映しているはずだ。

 浮気の証拠にはならないかも知れないが別の罪状で訴えることが出来そうなくらい、聞くに堪えない罵詈雑言が飛び出している。


 ──アレだ。名誉棄損ってやつだ。



「──だから、お前はさっさと出て行け!」



 何が『だから』なのかさっぱり分からないが、夫がドヤ顔で指を突きつけて来る。

 後輩は口元を隠しているが、クスクス笑っているのが丸分かりだ。


 …メンドクセェな。



「出て行くとしたら、そっちだけど」


「は?」


「この部屋の賃貸契約者は私。家賃払ってるのも火災保険料払ってるのも私。もっと言えば、ここ最近の水道光熱費含めた生活費、全部私負担」



 阿呆2人が虚を突かれた顔になる。


 …いやお前、仕事してないのにどうやって生活が成り立ってると思ってたんだよ。


 ちゃんと病院に行って診断書貰って休職してたら、傷病給付金なり何なり貰えたかも知れないけど…コイツただただ欠勤してただけだしな。

 まあその体調不良さえ、浮気相手とイチャつきたいがための嘘って可能性が高いけど。


(……何か、疲れたな……)


 いや待て、落ち着け、と今更慌てだす夫の姿に、どっと疲れが押し寄せて来る。



 ──()()()()



 不意に、そんなことを思った。


 今まさに自宅に居るのに、本気で、心の底から、『帰りたい』と思った。


 だからだろうか。




「………え?」




 床に奇妙な模様が見えたと思ったら、次の瞬間、私は見知らぬ石畳の上に立っていた。



「おお…」

「せ、成功か?」



 周囲を取り巻く、変わった服装の人間たち。


 呆然と周囲を見渡す、阿呆2人。




 ──これは一体どういう状況だろうか。




 本日2度目の呟きは、見知らぬ天井に響くことなく、喉の奥で消えた。




始まりました、初の『異世界転移』系作品です。

もはやメジャーなジャンル、テンプレな展開ですが、お楽しみいただければ幸いです。


この作品は基本、週末更新となります。何話更新できるかはその週にどれだけ書けたかによりますのでまちまちですが…気長にお付き合いくださいませ。



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