かもめ亭

作者: 河鹿有海

長い人生のほんのひとコマを切り取って表現しました。

 

今後もいくつかの断片を繰り広げたいと思います。


ヒマつぶしに楽しんでいただけたら幸いです。

初夏

やわらかくてしょっぱい風が、かもめ亭ののれんを揺らす。

港町の居酒屋かもめ亭の開店時間は早い。おやつ時だ。早朝から港での働きを終えたオヤジたちが次々とのれんをくぐってやってくる。

常連のオヤジたちは気が荒くて男気が強い。けれど人情家でおせっかいだ。酒をあおりながら喧嘩腰に聞こえた口調が、実は失恋した男をなぐさめていた、というのはよくある話。小さな店から通りまでもれる大きな話し声は、店の前を走る国道のトラックにかき消される。

が、今夜のかもめ亭はお通夜のように静まり返っている。


「よっ! コンばんはー」


 常連が仕事を終えて、次々とのれんをくぐって店にはいるなり同じ反応をする。


「うっ――」


 出かかった言葉を飲みこんで立ち尽くす。表情は一様に怪訝だ。


「なによぉ、みんなして。お化けでも見たような顔をして」


かもめママの一人娘の凛が、カウンターの中に仁王立ちになって頬をふくらます。

カウンターをうめるオヤジたちは互いに顔をあわせると複雑な表情をした。

しんと重い空気を破るように年長者の源太郎が口火を切った。


「凛、おめえ……死んだんだろ」


すると次々と堰を切ったように他のオヤジたちも声をあげた


「そ、そうだ。おらあ、凛の通夜に行ったぞ」


「あんときゃ、かもめママがえらく泣きじゃくって。見ちゃいられんかったなあ」


「お、おれも通夜に行ったぞ。あんまりにもキレイな死に顔で……あ! わかった。あの通夜はドッキリだったんだな。まんまとやられたわけか」


 凛は困ったような表情を、かもめママにおくった。元気のいい女の子だけどそこはまだ高校生。語気の荒いオヤジたち相手に返事に詰まる。


「やい、凛。おじさんたちをからかっちゃいけねえよ。いつものようなイタズラなら笑って許してやるけど、死をネタにしちゃいけねえ」


「そうだ、そうだ」


 オヤジたちの声が大きくなった頃、黙って厨房でお通しの煮物を盛り付けていたかもめママが、やっと口を開いた。


「それがねえ……本当に死んじゃったのよ。ここにいるのは凛の幽霊なの」


ガタン!

いきなり道長が立ちあがった。百キロ近い体がよろけて入り口の引き戸に当たる。


「――逃げるな」


 年長の源太郎が凄んだ目で道長をにらんだ。

 道長は怖がりだ。去年の納涼祭の肝試しでは腰を抜かして動けなくなり、男衆数人に担がれて家に送られたという過去がある。源太郎に睨まれて泣きそうな顔で椅子に戻った。


「道ちゃん、おどろかせてゴメンね」


 凛が口をきいた。一同、シンと黙った。


「オジさんたちが知っているとおり、学校の帰りに自転車で国道を渡った時に撥ねられたらしいの。即死だったって。そのせいかな、撥ねられたって覚えもなければ痛みもなかったの」


「……」


 誰も口をきかず凛を見つめている。まったく幽霊には見えない。ちゃんと足もついていてお気に入りのピンクのサンダルをしっかりと履いている。スクエアカットした爪先には水色のペディキュアがのぞく。


「でね、ママが泣いている声で目覚めたの。みればあたしの写真にすがって泣いているじゃない?」


「あったりめぇだ。一人娘を失って悲しんでいたかもめは、葬式の間中見ていられなかったぞ」


 倉庫番の正俊がそう言って、かもめママに熱い視線をおくりながらコップ酒をあおった。


「……悪かったわよ、うっかり死んじゃって。でも自分が死んだって知らなかったもん。だからあたしの写真に黒いふちどりがある意味がわかんなかった」


 凛は喋りながらいつものように冷蔵庫からコーラを取り出した。プルタブに長い爪をかけるとプシュっと音がした。


「声をかけようとしたら、ママが『凛―、幽霊でもいいから出てきてよぉ』って何度も声を詰まらせながらいうから『なによ』って後ろから声をかけたら今度は『ぎゃあああ』って大騒ぎで。あたしの方がびっくりしたわよ」


 いつもは威勢のいいかもめママが、バツの悪そうな顔をして下を向いた。


「ママといろいろ話してわかったけど、あたしは死んで幽霊になったらしいの。成仏はできてないみたい。でもこの通り生きていた時と変わらないから店を手伝うわ、今後もごひいきに」


「あ……ああ」


 凛の明るい声に、オヤジたちが力なくうなずいた。道長だけが下をむいて箸袋を折りたたんで現実逃避をしていた。凛は大きく息を吸い込んだ。


「幽霊のいる居酒屋は嫌だって、店に来てくれなくなったら、憑りついちゃうからね」


「はいぃぃっ!」


 道長が背筋をのばして返事をした。





 かもめ亭の一人娘の凛は高校生、だった。肩の辺りでそろえた髪に血色のよい頬が健康的な少女らしさを演出している。かもめママゆずりの勝気な目もとが気風のよい姉御肌への成長をうかがわせる。

 勉強は苦手だったが、友達が多く学校は好きだった。けれど、もう学校へは行かれない。死亡届とともに生徒名簿から凛の名前は消えた。

 あんなに仲良くしていた友達と会えなくなって、凛は毎日がつまらなそうだった。窓に頬杖をついて空ばかり見つめていた。

 見かねたかもめママは、親友だった楓と桜にだけ連絡を取った。考えた末の電話だった。『はい』と明るい声が聞こえてきた時、受話器を握ったまま言葉に詰まった。幽霊になった凛が元気で退屈に過ごしていることを何て伝えたらいいのか迷った。


「凛のことでサプライズがあるから来てもらえるかしら」


 こんな曖昧な表現しかできなかったのに、早速その日の晩に二人は来た。文字通りのサプライズに、二人が凛のことを怖がったり嫌がったりしたらどうしようかと不安でたまらなかった。場合によっては警察か……悪魔祓い師をよばれるかもしれない。そうなったら凛は心傷ついて立ち直れない。母親として賭けだった。


「すっごーい! 触れるのねぇ」


「あたしも触らせて。幽霊に触るなんて生まれて初めてよ」


 二人とも凛の位牌にお線香をあげることさえすっかり忘れて、キャッキャと葬式以来の再会にはしゃぎまくっている。

 生きていた時と全く変わらない態度に、お菓子と飲み物を運んだかもめは嬉しくて涙ぐんだ。

 楓も桜も幼稚園の時からの幼なじみだ。体育館を2つも3つも重ねたような巨大倉庫がたちならぶ港町で一緒に育ってきた。好奇心旺盛な楓が、まるで昨日食べた新作ドーナツの感想を聞くような気軽さで質問してくる。


「ねえ、死ぬときってどんなだったの? 痛かった?」


「楓ったら――」


 楓をたしなめようとする桜に、あっけらかんと凛が答えた。


「それがさ。自転車で走ってたところを後ろから撥ねられたから、一瞬のことで痛みも何も感じなかったわよ」


「そりゃラッキーねえ。うちの親戚の叔父さんなんて病気で亡くなったけど随分と苦しんだって。どうせ一度は死ぬんだもの。楽なのがいいってば」


 ズケズケという楓にたいして桜は凛を心配して覗きこむ。


「あたし死んだ気がしないの。自分の通夜や葬式のことはまだ幽霊になっていなかったから知らないけど、今はこのとおり食べられるし飲めるし物にも触れる。もしかしてコレってドッキリで、あたしは死んだってみんなに騙されてるんじゃないかな、って思うのよ」


 凛は、口元をゆるませていたずらっぽく笑った。そして楓と桜の手土産のポテトチップスをバリバリと食べた。楓があきれた顔をしている。


「よく食べる幽霊ねえ。死んでからもこんなに食べるんじゃ、世界の食糧問題は深刻よね。大丈夫。ちゃんとお通夜、お葬式に参列したからほんとうよ。ドライアイスで冷やされていた体は冷蔵庫のこんにゃくみたいだったわよ」


「ふ、ふふ」


 遠慮しがちに桜が笑う。凛も「マジい?」と声を上げて笑った。

 けれど凛は気がついていた。幽霊になってからもポテトチップスを音をたてて食べられるし、コーラを飲んでゲップも出る。食事もするし、毎晩入浴もしている。

 ――でも何もかも感覚がない。

 味がわからない。熱い冷たいが感じられない。匂いがしない。――そう、五感がない。まるで自分と世界との間に得体のしれない空間があって、じかに触れることができないようなもどかしさ。だから存在が頼りなく感じられて、やはり幽霊になってしまったのかとたまらなく不安になる。

 黙ってしまった凛に何かを感じたのか、桜が明るい声で喋りだした。


「そうそう、凛の憧れの先輩が事故現場に花をそなえていたわよ」


「ほんとっ?」


 飛び上がるように立ちあがった凛に、桜は嬉しそうに見たことを伝える。


「学校の帰りにね。一人でお花屋さんに行って花束を買って、事故現場にお供えしていたのを見ちゃった」


「お花だったらクラスでもお金を出し合ってそなえたじゃない。部活の後輩の男子だってしてたよ」


 お花を供えることの何が特別なのかと、楓が言い返した。桜の口元がゆるむ。


「男の人が一人でお花屋さんに入るのって勇気がいると思うんだなぁ。ピンクやオレンジの大きな花束を抱えて歩くときも恥ずかしいと思うし。それに事故現場って先輩の家とは反対方向でしょ」


「――っ。う……うれしいぃ。あたし先輩に『ありがとう』って言ってくる」


 玄関に行きかけた凛を楓と桜があわててひき止めた。


「だ、だめよお。凛の姿を見たら先輩は卒倒しちゃうわよ」


「そうよ、『出たぁ、成仏してくれ』って拝まれたらどうするのよ」


 口ぐちに言われて凛はシュンとしぼんだ。幽霊はつらい。





 凛は昼食を終えると、店の掃除と仕込みの手伝いを始める。かもめママは買い物から帰ると厨房で凛と並んで料理を作る。

 包丁の持ち方すらなっていない娘に、野菜の切り方や調味料の順番等基本的なことから指導する。ちょっと口うるさいかな、と思う反省する時もある。


「今はうるさいと思っているかもしれないけど――」


 言いかけて口をつぐんだ。凛はフライパンから油がはねると騒いでいるので聞こえなかったと思う。よかった。そう思ったとたん、かもめママは喉がつまって涙腺がゆるむ。

 ――いつか料理の基本を習ってよかったって思うわよ。

 飲みこんだ言葉が熱く胸にささる。凛にいつかなんて、未来は来ない。何をしても未来につながることはない。

 けれどひょっとしたら、何十年も「今」が続くかもしれない。そうであってほしい。学校に部活、友人との付き合いにあけくれて、ほとんど家にいなかった凛。年頃の娘と一緒に過ごせなかった時間を、天はプレゼントしてくれたのかもしれない。複雑な想いがかもめママの心に影を作る。

 おやつの時間になるとのれんがかかり、かもめ亭の一日が始まる。

 カウンターに頬杖をついて、たまにはどこかへ行きたいな、とつぶやいた凛に源太郎は首を振った。


「凛が遊びたい盛りなのはよくわかる。そういう年ごろだ。けどな。死んだ人間が外で遊び歩いていちゃあいけねえ。普通の幽霊みたいに見えなきゃいいけど、凛はハッキリクッキリ見えるタイプの幽霊だ。残念だが、かもめ亭から出るんじゃねえ。テレビ局が来て大騒動になる」


 一段と日焼けした源太郎の顔は凄みが増して来て、ちょっと怖い。わかったわよ、と唇をとがらせて返事をかえした。


「なんだかインフルエンザで学級閉鎖になった時みたい……出かけられないなんてつまらないな」


 その言葉に居合わせた客たちが、口々に言う。


「話し相手にならおれたちがいるって。若くもないしイケメンでもないけど」


「そうだ、そうだ。けどこういう味のある男もいいもんだぜ」


 凛は返事をせず、苦いものでも食べたような顔で笑った。





 ある日、道長が友達を連れてきた。最近奥さんを亡くしたばかりの島本という。泡立つジョッキに口をつける間もなく、凛に頼みがあると言っていきなりカウンターに指をついた。


「凛ちゃんって幽霊なんだろ? 道長からきいたよ」


 凛を呼びよせると抑えた声を出した。すぐ横で道長が頭をかいている。


「わりぃ、どうしても島本が可哀想で凛ちゃんのことを教えちゃった」


 凛のうしろでかもめママが心配そうに覗きこんだ。


「いや、なんていうか……幽霊は幽霊同士っていうか……すまないっ。凛ちゃん、島本の奥さんに会ってもらえないだろうか。会って島本が言いそびれた言葉を伝えて欲しいんだ」


「……いいけど。どうせ幽霊だし。でもあたし死んでから他の幽霊に会ったこともないし、島本さんの奥さんがどこにいるかも知らないわよ」


「そこなんだ。四十九日が終わるまでは遺族の近くにいるらしいって聞いたことがある。だから島本の家に行ってみてくれないかなあ。もちろん送り迎えするよ」


 凛はかもめママをみた。かもめママは大きくうなずいた。かもめママだって凛を亡くしたのだから残された人の気持ちが痛いほどわかるのだろう。

 道長の運転する車で、島本と凛の三人が島本のマンションに着いた。

 まだ新婚一年目だそうだ。結婚してすぐに乳がんが見つかったけど、手遅れだったらしい。凛は高校生だから新婚一年目で死に別れる辛さはよくわからない。

 凛に特別な彼はいなかったけれど、憧れの先輩がいた。浅黒く日焼けした肌が眩しく、凛々しい顔立ちに一目惚れをしたものの告白する勇気はなかった。クラブ活動の先輩後輩として挨拶をかわすことが凛の精一杯だった。

 少し低めの大人の声で「おはよう」と挨拶をかわした日は、朝からデレッとした顔でウキウキ弾む凛だった。けれどもし先輩が卒業してしまったら、こんなふうに過ごすことはなくなるのかと思うと胸が締め付けられるくらい辛かった。だから死んじゃって二度と会えないのはもっと辛いのだろうと想像した。

 マンションのドアをあけると、咳き込むくらいに線香の匂いがこもっていた。きっと線香を欠かさず焚いているのだろう。

 島本の奥さんは――いた。

 ベッドの上に寝転がって、のんびりと猫と遊んでいる。

 島本は帰るなり線香に火をつけて手を合わせた。それを見て島本の奥さんはやや目をつり上げて煙を手で払う仕草をした。そして道長と凛に気づくと会釈をした。凛だけが会釈を返す。


「どう、かな?」


 島本がすがるように凛の顔を覗きこんだ。


「いますよ。ベッドで寝転んで猫と遊んでます。なんだかお線香が煙いみたい……ああ、猫が煙を嫌っているんだわ」


「ね、猫?」


「ええ、キジトラの大きな目をした猫です。尻尾がカギなのかなあ、短い」


 島本はホッとしたような泣きそうな表情になった。


「妻と猫はどんなですか?」


「普通に幸せそうにのんびりしてるけど?」


 ガクリと島本は膝をついた。「う、ううっ……うう」島本の口からうめき声が漏れる。床にポタポタと暖かい雫が落ちた。


「よ、よかった。あいつ最後の方は寝ていると苦しいっていつもベッドに座っていて……。楽になったんだなぁ」


 そう、死ぬと痛みから解放されるのは本当らしい。凛だってバレーで突き指をした指が、痛くもかゆくもなくなっている。


「猫は――野良猫で。うちに来た時は痩せていて死にかけていました。あいつは自分の体の痛みと闘うので精一杯だったのに猫の世話をして……だからおれは、あいつが病院に行っている間に猫好きな友人にあげちゃったんだ。でも猫はその日のうちに逃げて……で、国道で轢死体見つかって……」


 ベッドの上の奥さんは初めて知った事実に「まあ!」という形に口を開けたまま島本を見ている。


「あいつには本当のことが言えなくて。猫は飼い主が見つかったからって嘘をついたんです。そうすればあきらめて病気の体を無理させることがなくなるって」


 奥さんは腕を組んで頬を膨らませている。拗ねているみたいだ。凛がそのことを伝えた。島本は両手を床について頭を下げた。


「ゴメン。ゴメンね。ゴメンナサイ……で――ありがとう。おまえがいてよかったよ。短い間だったけど幸せだった、ありがとう」


 猫を抱き上げた奥さんはふわりとベッドから島本のよこに天女のように飛んだ。そしてニコッと笑って島本の頬に短いキスをすると、だんだん薄く透けて――やがて凛にもみえなくなった。

 凛をかもめ亭に送った後、道長は島本のマンションに戻ると行ってしまった。今夜は男二人で飲むらしい。悲しいのかおめでたいのかわからない。けど島本は奥さんは猫とともに成仏したのだと凛にお礼をいった。

 どうだった? と心配して待っていたかもめママに、凛がかいつまんで話すと居合わせた常連客が静かになった。

 源太郎の隣に座った浩介がコップ酒をクイッと煽った。浩介は東北から長距離トラックで、毎週港の倉庫にやってくる。


「凛ちゃん。いっそのことイタコになったらどうだい。餅は餅屋、霊は幽霊ってさ。で、アノ世の人と交信するのさ。死んだ人に会えるっていったらワサワサと人が来るぞ。店も売り上げアップでかもめママの老後も……」


 最後まで言い切らないうちに源太郎の平手が浩輔の頭をペシッと叩いた。


「なんてこと言うんだい。このバカっ」


 そんなやりとりを凛は笑った。


「実はあたしも考えたの。ほら、せっかく幽霊になったから何かできないかなって。学校も行けないし遊びにも行けないしヒマだし。でね、たまに来る大学教授の先生がいるじゃない?」


「おう、あの気障な連城先生か」


 連城先生はかもめ亭には珍しくスーツ着用の人だ。完璧な日本酒党で大吟醸しか飲まない。


「そしたらイタコになるには大変な修行をしなくてはいけないんですって。修行の中身を聞いたら、あたしには絶対無理だなーって思ったの」


「でもヒマなんだろ。部活でしごかれてると思ってやってみたらどうだい。それにちゃんとしたイタコになればパパにあえるかもしれん」


「うーん、そうかな。会えるかな」


 黙って聞いていたかもめママが、ずいと割りこんで来た。


「無理ムリ。だってあの人は凛がお腹にいる時から海の底で眠っているんだもの。お互いに顔さえ知らないのよ。ぜーったいっ、ムリ」


 かもめママの部屋に飾られた写真の中のパパは高校の制服を着ている。照れ笑いをした表情はあどけない。だから凛にはパパというよりクラスメイトのように感じる。卒業と同時に籍を入れて船乗りになり――まもなく遠い海の底に暮らしているパパ。浮上することは二度とない。

 パパのことをあまり話さないのは「思い出が薄まるから」というかもめママは、きっと今でもパパに恋をしている。




 

 朝から暑かった。

 熱帯夜が数日続き、台風が近づいていて湿った空気がまとわりついた。

 のれんをかけるとすぐに源太郎が現れた。


「やっぱりエアコンだよ。家でエアコンつけようとすると『お父さん一人のためにエアコンをつけるなんてもったいない、扇風機にして』ってリモコンを隠しやがる。生暖かい風を回したって気持ち悪いだけじゃないか」


「暑い夏は汗をかくから体にいいのよ。うちだって客商売だから店はエアコンをつけているけど家の中は扇風機よ」


 港で育ったかもめママも源太郎も声が大きい。凛は店に行こうと階段を降りかけた。


「おっと、メールだ。……うん? いまどこ、だとぉ?」


「シノちゃんから? 源ちゃんったら黙って出てきたの?」


 おお。とかもめに勢いよく返事をして源太郎は電話をかけた。娘のシノちゃんからメールをもらっても返事はいつも通話だ。源太郎にとって携帯電話は通話するためのものであって、メールなんて太い指先で小さなボタンを押すのは一苦労するだけだ、という。おまけに老眼がすすんで文字も見えにくいと悪態をつく。

 かもめ亭にいる、とだけ言って電話を切った源太郎は大きくため息をついた。


「全くうるさくて仕方ねえ。かあさんが死んでから小姑のように、どこへ行くの、飯は食ったのって、やかましいったら」


「――心配してるのよ」


「わかってるけど。娘が嫁に行くのが淋しいなんて二十五才までだ。シノみたいに三十近くて男っ気がないと逆に心配なんだよぉ」


 会話が二階に筒抜けで凛の耳に丸々届く。そんなことはないよ、シノちゃんには幼なじみのレンちゃんって恋人がいるよって教えたくなった。階段を降りかけた凛の耳に、今度はかもめママの声が届いた。


「わかるわよ。アタシだって同じよ。いつまでも成仏しない凛が心配だもの。そりゃ可愛い娘だもの。たとえ幽霊だって嬉しいけど、あの子の後々の人生を考えるとひき止めちゃいけない気がするのよ」


 階段を降りかけた凛の足が止まった。

港で育ったかもめは情が深いが湿ったことは苦手だ。人前で涙は見せない。強がったことを言いながら笑うけど、源太郎は長い付き合いだから知っている。

 今どきは大学くらい行かないと。と客で大学教授の連城に相談して、凛のために塾のパンフレットをとりよせていたこと。大学進学費用にと実家から嫁入りに持ってきた高級な着物を手放したこと。いつの日か、もしかしたら結婚した凛が一緒に住みたいって言いだすかもしれないじゃない、だから改築するためにね。と、そっとみせた貯金通帳……。

 行き場を失った未来をかかえて、かもめは一人で泣いたのだろう。かつて妻を事故で失った自分の過去と重なる想いに、源太郎はあたたかく見つめた。





 ボーーーボオオォ

 ゥイィィーン


 空気をゆらす低くて太い音に混じって、細く高くひねるような音が混じる。

 店の前の国道沿いには露天商が夕方からの商売に備えて、トウモロコシの皮を剥いたり、屋台に幕を張ったりと準備に追われて騒々しい。


「今日は港まつりね」


 この時間のかもめママは、まだすっぴんだ。今から化粧をしても店を開ける時間には汗で崩れてしまうので夏はしかたがない。

 ボーーーボオオォ

 ゥイィィーン


「凛は小さい時、汽笛の音が苦手だったわ。お化けが来るって泣き止まなかったのよ。だから船にのりこんで汽笛を叩き壊してやろうと思った。そうすれば凛が泣かなくてすむと思った」


 若い時のかもめならやりかねないと凛は苦笑した。


「汽笛を鳴らしている船のためにドックや倉庫があって、そこで働いているオジちゃんたちがかもめ亭に来てくれて、ママとあたしはご飯をたべることができた。それで倉庫から荷物を運ぶためにトラックがたくさん走って……そのトラックにはねられて死んじゃったんだけど、幽霊生活も悪くないよ。トラックの運転手さんは小さな子供がいたんだってね。あたしが死んじゃったから交通刑務所に収監されたって聞いたよ。かわいそう」


 凛の言葉にかもめの目がつり上がった。


「何言ってんだい。かわいそうたって生きてりゃまた会えるじゃないの。凛は死んじゃったのよ。幽霊になったうえに世間の目があるからって家に閉じこもってすごしている。まるで籠の鳥よ。あたしの凛はねえ、友達がたくさんいて家には寝に帰るだけの活動的な娘だった。かわいそうなのはこっちだよ」


「はいはい。そんなに怒ると体温上がるわよ」


 凛は立ちあがって冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出した。カラカラとコップに氷を入れる。

 開け放した窓からは、外の喧騒とともにしょっぱい風が押し寄せてくる。台風はそれて太平洋へ抜けていった。湿気がなくてガラリとした風が凛の長い髪をゆらす。

 いい天気だ。

 宇宙が透けてみえそうなくらい空が青い。


「ママ、あたしそろそろって気がする」


「――っ?」


「ほら。朝、窓を開けて今日はいいことありそうだなって思うときがあるじゃない? 根拠のない予感っていうか、そんな感じ」


「凛……」


「生きてた時には気づかなかったけど、世界ってきれいね。それに汽笛の音や大きなトラックの走る音、防波堤を打つ波の音……見るものも聞こえるものも、みんな大好きだったことに気づいたの。こんなステキな世界に生きていたのよ。――ありがとう、生んでくれてありがとう」


 氷をいっぱい入れたコップで麦茶を飲みながら凛が言った。そんな言葉を背中でうけとめながら、かもめママはベランダで洗濯物を干していた。

 今日も暑くなりそうだ。国道の向こうから熱風のような潮風が吹いてくる。こんな日は掃除洗濯を朝の涼しいうちに済ませるに限る。

 生んでくれてありがとう、だなんて親として最高にうれしい言葉だけどくすぐったい。くすぐったすぎて背中がかゆい。強がって振り向かずに、『うん、うん。あ、そう?』などと抜けた返事を凛に返した。

 濡れた洗濯物をたたんでパンパンと叩いて、ピッとしわを伸ばして干す。やがて洗濯物の籠が空になり、やっとかもめママは凛の座っている茶の間を振り向いた。

 ――誰もいなかった。

 飲みかけの麦茶が半分ほど残っていて、溶けかけた氷がカランと音をたてて崩れる音が静かな部屋に響いた。




おつきあいしてくださって、ありがとうございました。


よい一日でありますよう。