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2話 黒い牙 (3)



 ――エンティラを出ておおよそ十時間ほど。

 それだけの時間をかけてようやくブラント達は一先ずの目的地である湖に到着した。

 カムイ大樹林の入り口付近とは取って代わり、草木もだいぶ生い茂りモンスターとの遭遇も比較的多くなる。現にナイトゴブリン一体とゴブリン二体との戦闘以降、数にして十体のモンスターと戦闘をこなしていた。

 その十体の詳細は、ゴブリンが三体、インポスツゥリーが七体となっている。

 インポスツゥリーとは一見ただの小さな木である。一七〇センチほどの大きさで、やせ細った細い枝に葉が二枚程度しか生えていない不健康な木である。

 普段は周りの木のように動くことはなく、モンスターの中でも比較的に温厚な部類に入る。人を見かけたといって襲う事はほとんどないため、冒険者ギルドから討伐依頼を出されることはまずない。

 ただインポスツゥリーの葉には回復作用があることからポーションに使用され、その葉もまた部位証明として報酬が支払われている。一つの部位を銅六枚が報酬となっている。

 現段階での臨時報酬はナイトゴブリン一体で銅貨五枚、ゴブリンが五体で銀貨一枚と銅貨五枚、インポスツゥリーが七体で銀貨四枚と銅貨二枚。それに加えて、ナイトゴブリンが持っていたメイスが一つ、ゴブリンが持っていたナイフが二つ。合計で銀貨六枚に銅貨二枚、そこに剥ぎ取った武器の買取り分プラスアルファ。

 目的地に向かう道中で、既にまずまずの報酬が約束された。


「それでは今日の所はここで野宿をしましょうか」


 十時間ほど歩いている訳で、空はうっすらとオレンジかかり日が傾き始めていた。これ以上は進んでも仕方がないとブラントなりに考えて提案したのだ。

 湖はそれほど大きくはなく、直径四キロほどの丸い湖であった。

 ほとんどの冒険者はこの湖付近で野宿するようで、今も湖の周りで数組の冒険者が野宿の準備をしていた。そのせいもあって湖付近は比較的に草が短く、木も伐採されたのか見晴らしがいい。絶好の野宿ポイントといえよう。

 返事を聞き終える前にブラントは、マジックポーチから二つのリュックを取り出し、その内の一つをアリアに渡す。


「あ、はい。野宿は初めてなので、私は何をすればいいですか?」


 そう質問された所でブラントもまた野宿の経験はさほどない。

 本職のギルドに入ってから数度、本当に数える程度の経験であり、それも熟練者がいての野宿である。そのためブラントが主体で野宿をするのは初めてのことだ。

 過去の野宿をブラントは思い出す。

 まずは何をするにしても火が必要である。食材の調理に必要なのは言うまでもないが、その他にもモンスターに警戒を与え遠ざける役割がある。

 それ以外だとテントがあると便利だが、それは人数が揃った場合だけ使える。理由としては少数でのパーティーだと周囲の見張りに限界があり、急に襲ってきた時にテントの中だと反応が遅れ対応ができないケースがある。そのため少数のパーティーでは寝袋、または毛布にくるまって夜を過ごすのが一般的であるが、そもそもそのような理由から少数での野宿はあまり好まれていない。


「それでは私と一緒に木の枝を取りに行きましょうか。目に見えている場所に落ちているので、荷物は置いといても大丈夫そうですね」

「分かりました」


 そして二人は近くの木に近寄り枝を拾いにかかる。

 辺りをきょろきょろして枝を見つけると飛びつくように拾うアリアの姿を、ブラントはそっと盗み見る。その姿はどこかあどけない少女のようでブラントは笑みをこぼす。

 明確にはいつからか分からないが、アリアの様子が少し変だとブラントは感じ取っていた。喋りかけてもおどおどしたり、そのくせ時折ではあるが傍に近寄ってきたり、表情も仕草もころころ変化させていた。

 そんなアリアに対し不信感とまではいかないが、大きな疑問をブラントは感じていた。

 もしかして恋心? そうブラントの頭に一つの答えが出た事もあったが、それは直後に却下された。以前から知った仲ならまだしも、今日初めて出会い始めて言葉を交わした程度である。

 心境の変化が起こりうるイベントも特にはなく、ただ普通に冒険をしただけに過ぎない。だからこそ恋心ではないとブラントは明確な自信があった。

 それではなぜだろうか。その理由が分からないブラントの頭の中は、そのような自問自答が繰り広げられていた。

 エンティラに来てたった数日で厳しい態度のエリー、それに続きアリアに対してまで頭を悩ませても仕方がないと、ブラントは一度大きく頭を振る。まずは野宿の準備が先と自分に言い訳をし、再び木の枝を拾い始める。



「これだけあれば大丈夫ですか?」


 ほどなくしてアリアは腕一杯に大小様々な枝を集めた。それに比べてブラントは比較的大きい、枝の根元部分を集めていた。これだけあれば問題はなさそうと大きく頷く。


「はい、大丈夫です。ありがとうございます」


 二人はリュックまで戻り拾ってきた枝を置く。

 まずは火種を作るためにブラントは枯葉を両手いっぱいに集め、こんもりと枯葉を一塊にする。その上にアリアが集めた枝から小枝だけを選別して山なりに置く。後は空気の通り道を作りながら中枝を置き、その上に大枝と重ねれば焚き火となる土台の完成だ。

 ブラントはポケットからマッチを取り出し、枝の隙間から枯葉を燃やす。

 最初は小さな煙が上がり、そこから徐々に枝に燃え移る。そこからは早かった。あっという間に全体が燃え上がり、その上にブラントが集めた太い枝を数本だけ置く。後はその太い枝に火が燃え移れば焚き火の完成となる。

 記憶だけの作業だけに上手くいくか不安だったブラントはホッと一安心する。

 さて、火の問題は解決したが、最大の問題である食料が残っている。

 結局のところ、あの後に食料となる動物と遭遇する事がなかった。そして今は日もだいぶ傾き、辺りは薄暗くなりつつあった。今から探しに行っても時間の無駄であり、モンスターの察知も厳しい。無謀とはこの事である。

 それなら一食ぐらい抜いたところで別に飢える訳ではないし、今のブラント達には空腹をしのぐしか道はなかった。


「……本日の夕食は食べられそうにありません。すいません」

「いえ、もとはと言えば私の責任で……私の方こそごめんなさい。それでお詫びと言いますか、何と言いますか……。料理のできない私でも作れる簡単なスープの食材と、パンを持ってきたので夕食はそれを食べませんか?」

「けどそれはアリアさんの分でしょう? 私は大丈夫です」

「あっ、違います。お詫びとか言いましたけど、本当は二人分ありまして……。言葉が見つからずお詫びとか言っちゃいました。ごめんなさい」

「そうでしたか……。それではお言葉に甘えてご馳走になります。ありがとうございます」


 先ほどまで焚き火を枝で突っつき、焚き火から映るオレンジがかったアリアの表情は気まずそうな、それでいて意を決したような、見方によってはどちらでもない表情をしていた。それでもブラントの言葉に薄っすらと笑みも浮かべる。

 本当に表情がころころ変わる。と、ブラントもつられて口元がほころぶ。


「それでは準備をしますね!」


 嬉しそうにアリアは自分のリュックから鍋を取り出す。食材は全て鍋の中に入っているのか、それ以上は何も取り出さなかった。

 リュックの半分を占めていた鍋を取り出した事により、支えがなくなったリュックはこじんまりする。それで大荷物だったのか、だいぶ前にした質問の答えが今になり分かってブラントの中で合点がいく。


「手伝います。私は何をすればいいですか?」

「そうですね……。それでは鍋を吊るせる木を集めてもらってもいいですか?」

「分かりました。それでは取ってきます」


 再び木の方に近寄るものの、既に手頃な枝は根こそぎ使用済みである。仕方ないと、森の方に向かう。

 太陽は完全に沈み、一歩森に入れば目の前も見えないほど闇に包まれる。その闇と同化しブラントは足先と手だけを頼りに先に進む。

 時折聞こえる虫とフクロウの鳴き声、後はブラントが踏む乾いた枝の音。それ以外は実に静かなもので、言い方を変えれば不気味でもあった。

 来た道を振り返れば木の隙間から見える焚き火の明かり。それだけが隔離された不気味な空間からの助けであり、多少ではあるが不安を取り除く要因だ。

 足先だけを使い辺りを探り、それらしい枝があれば拾って手で形を確認する。それを何度か繰り返す。

 あまりにも非効率な作業で、こんなことなら松明でも作ればよかった。そう後悔の念が押し寄せるが遅い。

 それでも徐々に眼は闇に慣れ始め、はっきりとまではいかないが、それでも薄っすらと辺りを認識できるようになる。

 悪戦苦闘しながらもブラントは無事にY字型の太い枝を二本。それと同等の直線の枝を一本確保し、焚き火の明かりを頼りに来た道を引き返す。


「お待たせしました」

「あっ、おかえりなさい。スープの準備はできていますよ」


 こうやって若い女性に「おかえりなさい」と言われるのは新鮮で、それも悪くないとブラントは密かに思う。

 過去を振り返っても言われた記憶はまるでない。それ以外であるのは老婆のセリスや老人のセバス、後は中年のダマルダが最近の記憶である。

 それより先も似たり寄ったり、そもそもブラントの周りに若い女性なんて今までいない。いたのは酒臭い中年のおじさんがほとんどだ。

 なぜかそこから派生して、新婚生活までブラントの妄想は膨らみつつある。それはいつまで経っても呆然と突っ立ち、怪訝そうに見つめるアリアの視線に気が付くまで続いた。

 危なかった。もう少し気を引き締めないと。そうブラントは自分に言い聞かせ、再び妄想の世界に入るのを耐える。

 取り敢えず、拾ってきたY字型の枝を深く突き刺す。倒れないか確認を取り、直線の枝に鍋の持ち手を潜らせY字型の枝に置いて完成だ。

 二人分のスープのため量はそれほどない。そのため数分ほどでスープから湯気が出始め、それと同時にコンソメ風味の香りが辺りを漂う。それが合図だったのかアリアは何度か鍋を掻きまわし、くぅ~っと可愛らしくお腹を鳴らした。その音は喧騒とは無縁の森ではっきりと聞こえるほどだ。


「むぅ~」


 恥ずかしそうにアリアは唸り声を上げ、頬をほんのりと赤く染めて俯く。

 その事についてブラントは特に何も言わない。むしろお腹が鳴って普通である。湖まで来るのに休憩は何度かしたが、それでも昼食にはありついていない。それに十時間ほども歩けば誰だって空腹にもなる。

 それから直ぐにスープは完成した。最後のおまけに再び可愛らしい音が辺りに響くが、それもまた一興である。鳴らした本人は恥ずかしそうにしているが。


「お、お待たせしました」


 それだけを言うとアリアは唇をぎゅっと絞め、木製のお椀にスープを流し込む。それと一緒にパンを二つブラントに渡す。


「ありがとうございます」


 実に半日ぶりの食事であり、お椀からの香りがブラントの食欲を刺激する。

 味は想像通りのコンソメ風味で、ブラントが今まで食べてきたコンソメスープと差ほど変化はない。それでも長時間歩き、それに加えて何度か戦闘もした。その疲れが普通のコンソメスープの隠し味となり、より一層と美味しく感じる。


「とても美味しいです」


 そのブラントの言葉を待っていたのか、アリアは嬉しそうに頬をほころばせてスープに口をつける。


「うん。美味しい」


 そこからは早かった。空腹の二人には少し物足りない量ではあるが、それでも完食した二人の表情はどこか満足そうだった。



「どうしてブラントさんは冒険者になろうと思ったのですか?」


 食事を終えた後、二人は焚き火の前に並び寝る前の談話に浸っていた。

 そのアリアに質問にブラントは何と答えていいか迷う。ブラントにとってアリアは悪い人ではないと位置づけされているが、それでも正直に話せるような内容ではない。


「……ご飯を食べるため、ですかね」


 頭を悩ませた結果がそれである。確かにブラントの答えはあながち間違ってはいない。間違ってはいないが、正解でもない答えにブラントには後ろめたい気持ちが芽生えた。


「仲間とかはいないのですか?」

「いますよ。魔術師ギルドに二人、戦士ギルドに一人です。今はお互いそれぞれのギルドで頑張っています」

「えっと、どうして別々のギルドに? それって仲間の意味があるようには……」


 またもや痛いところを突かれるブラントであった。確かにアリアの言っている事は正論である。


「ちょっと諸事情がありまして今は別々のギルドですが、それでも私達は仲間でパーティーです。それはどんな事情があっても変わりません」

「そうですか。色々とあるみたいですね」

「ええ。では逆に聞きますが、アリアさんは家の防具屋を継ぐつもりなのですか?」

「私自身はそうしたいのですが、親は反対しています。まぁ確かに私みたいな皮の剥ぎ取りも十分にできない不器用な娘には任せられませんよね」


 そうしてアリアは表情を隠すように視線を下げて体を縮める。

 アリア自身も分かっていた。好きと仕事は全く別物だと。好きな事で安定した生活を送れる人はごくわずかで、そうなりたいのなら努力は必要である。それでも個人の限界を迎えた時、その時に問われるのがセンスだ。どれだけ好きでもセンスが無ければ現実を見なければいけない。残念ながらそれが社会であり世の中である。

 縮まったアリアの姿から慰めは不要と雰囲気が漂い、ブラントもまたそれに気が付く。


「……別に不器用なのは問題ではないと思います」

「どうしてですか?」


 アリアは視線を落としたままボソリと呟く。


「物は考えようです。必ずしも立派な防具を作る必要はないと思います。確かに作れれば防具職人としての知名度は上がりますが、それでも買える人はわずかです。冒険者にしても私のような駆け出しがほとんどであり、冒険者の数にしてもサイクルにしても駆け出しが最も多いです。その駆け出し冒険者専門の防具屋があってもいいと思いませんか? 毎日作るのに追われて大変かもしれませんが、それでも数で防具を売れば利益は必ずプラスになると私は思います」


 それで上手くいくかどうかは別として、センスが無くても好きな仕事ができる唯一の方法がそれともいえる。その代わりに防具職人として評価される事はないだろうし、職人としてのプライド、更には職人の親からどう思われるか。利益とは別の問題が多々あり、それら一つずつ小さな課題が山のようにある。それを踏まえれば話はまた悪い方向に変わってくるかもしれない。

 そこまで考えが至ってないのか、それともブラントの言葉で自身がついたのか。それでも視線を上げたアリアの表情は明るかった。

 ただ一つ。不器用でもセンスが無くても好きな仕事ができる。

 その答えこそがアリアに最も欲しい答えで、今後どのような問題が生じても頑張れる糧となる。


「それって不器用な私でも家を継げるかもしれないって事ですか?」

「私はそう思います。もちろん努力もしないで家を継げるほど甘くはありません。後はアリアさんの努力次第です。なので、明日の剥ぎ取りの練習は少しでもコツを掴めるように頑張らないといけませんね」

「はい! 頑張ります!」


 声を弾ませるアリアに対しブラントは笑みを浮かべる。

 何気なく見上げた夜空には無数の星が輝く。

 光とは無縁のカムイ大樹林ならではの絶景が広がっていた。あまりの光景にブラントは言葉を失い、その光景を更に求めるように寝転がる。

 それから徐々にブラントの瞼が重くなり、消えゆく意識のさなかでアリアが何かを呟いているが、それもまた意識と共に消えてゆく。

 そうして初日の夜は更けてゆく。



*    *



 翌日の早朝。先に目を覚ましたのはブラントであった。

 辺りは薄っすらと霧がかかり肌寒く、それでも木々の隙間から漏れる朝日はどこか幻想的である。空には雲一つない晴天で、本日は狩り日和とも言えよう。

 ただ不意に聞こえるモンスターの叫び声だけが危機感を仰ぐ。

 ここ最近はもっぱらベッドで寝ているブラントである。そのため久しぶりに固い地面で寝たため、目覚めと同時に腰に痛みが走り眉をしかめた。

 その痛みをこらえ、取り敢えず完全に目を覚ますために座る。そこでようやく自分自身に毛布がかけられているのに気が付くが、その毛布に見覚えがなく首をかしげる。

 ぼやけた頭のまま、隣で寝袋にくるまって寝息を立てているアリアを見て合点がいく。

 ブラントが買ったのは寝袋で、それはミノムシのように寝袋の中に入らないといけない。だが前日の夜はブラントが先に寝てしまったため、どうしようもないアリアは仕方なしに寝具を交換したのであった。

 その優しさに小さく消えそうな声でお礼を言い、起こさない様に毛布をそっとアリアにかける。

 温もりを失った体は早朝の肌寒さに震え、暖を取るために余っていた枝で焚き火を作る。

 前日は過去の記憶を掘り起こして作った焚き火だが、今回は慣れた手つきで完成し、マッチで火を付けた。

 早朝の朝露で湿った枝では火が燃え移るか心配だったブラントだが、芯まで完全に湿っておらず、ゆっくりと枝に火が燃え移る。

 何度かパキッと炭になった枝が折れる音が響き、それからブラントの体に熱が伝わる。

 ほどなくして十分に体が温まり、まずは顔を洗うために湖に近寄る。前日は寝床の準備に終れて湖の状況を見ることはできず、湖自体が綺麗なのか判断するためだ。


「わぁ……」


 目と鼻の先にある湖を見た途端、ブラントの口から声が漏れる。湖の水面には木々が映り込み、更にうっすらと霧が漂い、そよ風から緩い波が立つ。

 その光景が今まで見た事もなく、ここにモンスターが生息するカムイ大樹林だと思わせなかった。

 その光景に目を奪われたブラントは大きく深呼吸をする。肺に冷たい空気が流れ込み、それがまた心地よい。これだけでもここに来た甲斐があったと思わせる環境だ。

 そして湖自体も不純物がほとんどなく、透き通った色をして実に綺麗である。それもその通りであり、この湖に訪れるのは冒険者ぐらいで、その冒険者も貴重で野宿に最適な湖を決して汚さない。それが暗黙の了解となり、今のようにあるべき姿の綺麗な湖が維持され続けている。

 ブラントは湖の水を一口含む。その水は泥臭くもなく、これといって異常な味はしない。

 飲み水としても適していると判断したブラントは軽く頷き、両手いっぱいに水をすくい上げ顔を洗う。あまりにも冷たく後悔の念が押し寄せるが、それ以上に爽快感がこみ上げる。

 服の袖で滴る水滴を拭き、アリアの元に戻ると丁度目が覚めたのか「うぅ……」と何度かうめき声を上げ、両目を頻りに擦り体を起こした。


「おはようございます」


 そう言ってブラントはアリアの隣に腰を下ろす。


「……おは……よう」


 寝起きから覚醒しきれていないアリアは、頭をメトロノームのように緩く振り、掠れた声で呟く。

 それも最初だけで、寝起きがいい方のアリアは直ぐに意識をしっかりと持つ。


「湖の水は綺麗なので、顔を洗う時はそちらを使うといいですよ」


 そのブラントの言葉よりも、寝起きの顔を見られた方が恥ずかしいのか、アリアは隠れるように毛布で口元を覆う。


「おはようございます」


 再び朝の挨拶を口にするアリアの表情は分からないが、それでも声音からは恥ずかしそうにしているのがブラントにも感じ取れた。



 まだまだ早朝とも言える時間帯だが、二人は焚き火の後始末と身支度を整え、足早に湖を後にしていた。目指す場所はブラックファングが生息し、湖に通じる川の中流。

 二人が出発前に打ち合わせた本日の計画はこうだ。

 よっぽどの理由がない限り目的地から三時間で打ち切り、適度に休憩を入れて日没前にはカムイ大樹林を抜ける、である。

 日が沈み切ったカムイ大樹林を突っ切るのは非常に危険が伴い、たかだか三時間程度しか狩りを出来ないが、それでも危険を冒すほどの依頼でもないため仕方がない。そのため二人は今まで以上に足早で目的地に向かうのであった。

 その甲斐あってか、数キロに続く川の下流を小一時間ほど歩き、徐々に川辺に小さな石が増え始める。ここら辺が下流と中流の境目であるのがブラントにも理解でき、より一層に周辺に注意を配る。

 その時であった。

 微かに草を踏み鳴らす音が聞こえ、それが徐々に近づいてくるのをブラントは感じ取る。数までは把握できないものの、異常なまでの速さで近づくため、十中八九目的のブラックファングだと悟る。


「ブラックファングです。アリアさんは後方で待機して下さい」


 それだけを言い、ブラントの意識は音のする方に集中し、腰にある剣をゆっくりと引き抜く。そして非戦闘員のアリアはコクリと頷き、一歩、また一歩と下がる。

 その数秒後。踏み鳴らす音がアリアまで聞き取れた時だった。


「グルルルルゥ!」


 威嚇音を上げて、草むらから飛び出したのは――吊り上がった口から覗く黒い牙、全身を覆う黒い体毛。その姿はまぎれもなくブラックファングであった。体長にして一四十センチを超えており、立派な雄の貫禄がある。

 それ続き、立て続けに二頭のブラックファングが同様に草むらから飛び出す。後から現れたブラックファングは一回り小さく、それでも体長にして一二十センチほどの雌である。

 三頭のブラックファングは頻りに威嚇音を上げながら、ブラントを中心に囲むようにグルリと移動する。

 獲物を警戒するようにゆっくりと数周し、一際大きく威嚇音を上げた後、最初に飛び出したのはブラントの背後にいた雄のブラックファングであった。

 その奇襲ともいえる攻撃を、ブラントは数歩体を横に移動して回避する。

 もしこれが気配を消しての攻撃なら、今頃ブラントの背中には爪痕が残っていただろう。だがモンスターより野獣に近いのがブラックファングである。気配を消すどころか、攻撃前に一際大きな威嚇音を上げれば、相手がブラントでなくても回避するのは容易である。それも含めての見習い冒険者からの依頼とも言えよう。

 本来なら通り過ぎるブラックファングの背中に一太刀を入れるのが普通だが、今回だけはそういかない。第一にブラックファングの収入源である皮を傷つかせないため、第二に今回の依頼に同行したアリアが剥ぎ取りの練習をするため。以上の事から、極力は背中や額に傷を付けず、理想は腹部に一太刀か口内を貫き絶命させるのが望ましい。

 事前に戦い方を頭の中でシミュレーションしたブラントだが、やはり頭の中と実践では全く別物で、どのように腹部に剣を滑り込ませるか悩ませる。その悩みから数秒だけ上の空になった隙にブラックファングは再び攻撃に回り、今度は雌のブラックファングが正面から大口を開けて飛びつく。

 丁度集中が途切れた時だけあり、喉の手前まで出かけた悲鳴を飲み込む。そのまま反射のように剣を下から突き上げ――そのままブラックファングの腹部に吸い込まれる。何度も苦しそうに暴れて甲高い鳴き声を上げるが、徐々に力が抜けて、剣が胴体を貫いたまま雌のブラックファングは絶命する。

 仲間の一頭がやられた事が分かったのか、残りの二頭は威嚇音をより一層と強め、今すぐにでも襲い掛かろうと体制を低くする。すぐさまブラントは剣を引き抜き、一瞥した刹那。二頭のブラックファングが駆け出した。一頭は右手から、もう一頭は後方から。

 焦ることなくブラントは、ひらりと二頭の攻撃を回避し、真横を通り過ぎる一頭のブラックファングの背中に上下逆に持ち替えた剣を突き刺す。地面に剣の先が当たり、甲高い音を響かせる。そして剣には一頭のブラックファングが串刺し状態で吊るされた。


「残り一頭」


 ブラントは独り言を呟き、素早く剣を引き抜く。

 二頭の仲間がやられても退く様子はなく、最後に残った雄のブラックファングは勇敢にも攻めの姿勢を崩さない。回避された攻撃が空を切るが、着地地点で野生の筋力をフルに使い、迅速に体制を立て直し立て続けに駆け出した。

 左右に揺さぶるフェイントを入れ、ブラントの正面から攻める雄のブラックファングは口を最大限に開けて噛みつこうとする。が、それに対してブラントは正面から対抗し、そのまま剣を突き出す。

 剣先はブラックファングの口内を通り、食道を突き進み、肉を切り、内臓を破壊する。口から串刺し状態になったブラックファングは、そのまま苦しむことなく絶命し、初戦の戦闘は幕を下ろした。


「アリアさん、お待たせしました」


 少し離れた位置で固唾を飲んで見守るアリアは、突然に話しかけられてビクッと体を震わせ、いそいそとブラントの近くまで近寄る。


「お、お疲れ様でした!」

「お疲れ様です。それでは、次はアリアさんの番ですね」


 アリアさんの番。つまりアリアの目的である皮を剥ぎ取る練習であり、表坐作にはしてないものの、ブラントにとって無知に等しい剥ぎ取りの知識を得る場でもある。


「は、はい! 頑張ります!」


 遂に順番が回ってきた事に緊張しているのか、アリアの背筋は伸び、少し声が裏返る。

 その事を気にする様子――気が付いてないアリアは準備を始める。と言っても、二人で三頭のブラックファングを仰向けに並べ、腰に装備している愛用のナイフを取り出すだけなのだが。

 一つ大きな深呼吸をし、「よしっ!」とアリアは自分自身に気合を入れ、ブラックファングの首元からお尻にかけてナイフを入れる。

 後は皮を傷つけないのと肉から切らない様に気を付け、皮を引っ張りながら隙間にナイフを滑らす。確かに本人の言っている通り不器用で、所々で皮からナイフの先端が飛び出しては声にならない悲鳴を上げる。

 それを繰り返すこと十分ほど。ようやく一頭の皮剥ぎが終わった。

 その剥ぎ取った皮をアリアは持ち上げ確認をする。一見は綺麗なのだが太陽の日に当てた途端、無数の光が通り抜け、毛皮で出来た地面の影に映り込む。


「中々上手くいきません……」


 両膝を地面につけ、アリアはしょんぼりと肩を落とす。その背中にブラントはそっと手を添え、隣に同じように両膝を付ける。


「だからこそ練習をするために来たのでしょう? 上手くいかない事を嘆いても仕方がありません。それよりも今回の失敗を認め、次に繋げましょう。……それと、私には剥ぎ取りの知識がありませんが、とても上手に剥ぎとれていると思います。もう少し自分自身に自信を持って下さい」


 その言葉にアリアの口はギュッと締まり、最後に「はい!」と元気に答え、残った二頭の剥ぎ取りに取り掛かる。

 その頃には真剣な眼差しになり、その姿に安心したブラントはそっと場を離れた。



「終わりました!」


 周囲を警戒すること二十分弱。額に薄っすらと汗をにじませ、アリアは嬉しそうに声を上げる。

 アリアの足元には皮を剥がれた三頭のブラックファングと、その剥ぎ取った皮が並ぶ。その痛ましい光景にブラントの胸はギュッと締め付けられるが、これもまた生きていく上では仕方のない事。


「お疲れ様です。それでは次に行きましょうか」

「はい!」


 最後に部位証明である右の黒い牙を引き抜き、これで全ての作業は終了となる。皮を剥がれたブラックファングは、他のモンスターの食事となるため放置である。

 かなりの悪臭――元々の獣臭さに加え、付着した血の臭いが鼻を刺す。その悪臭に多少の吐き気を感じるが、ぐっと耐えてブラントは受け取った皮をマジックポーチに入れる。

 直後に中に入れてあるリュックに臭いが付着しないか不安に思うが、悪臭を嗅ぎながら移動する事を考えれば、リュックに多少の臭いがついても我慢もできる。

 川沿いを更に上流に向かって歩き出す。上流に向かえば向かうほど、カムイ大樹林と思わせない光景が徐々に広がる。

 その理由として挙げられるのが岩である。この付近はあまり草木が生えておらず、川の両脇は背の高い岩が所々にあり、それに加えてたまに岩を重ねて出来たような小さな洞窟が見られる。その洞窟がエリーの言っていた「ブラックファングの巣」だとブラントは納得する。


「もしかしたらブラックファングの巣かもしれません。警戒してください」

「わ、分かりました」


 もし本当にブラックファングの巣であるなら、誘き出せば探す手間が省ける。そう思い手頃な石を手に取り、離れた場所から洞窟に向かって投げ入れる。狙い通り巣の中に石が入り、何度かぶつかり合う音が響く。が、それだけで反応はない。


「……いないみたいですね。この調子で洞窟があったら石を投げていきます。アリアさんも洞窟を見かけたら教えて下さい」

「はい、分かりました」


 二人はきょろきょろと移動しながら洞窟を探し、発見しては石を投げ入れる。それを三度ほど繰り返し行っても、帰ってくるのはどれも石のぶつかり合う音のみ。

 もしかしたら日中はいないのかも。そうブラントは思い、最後にもう一度だけと、駄目もとで洞窟に石を投げ入れる。が、やはり特に反応はない。


「駄目ですね。これからは普通に探しましょうか」


 そう切り出した時だった。先ほど石を投げ入れた洞窟の奥から「グルルルルゥ」と威嚇音が岩を反射して響き渡る。あまりにも突然の事に二人はビクッと体を震わせ、ブラントは剣を引き抜く。


「アリアさんは下がってください」


 徐々に大きくなる威嚇音。それに合わせてアリアはゆっくりと後退し、逆にブラントはゆっくりと洞窟に前進する。

 小さな洞窟のため、ブラックファングが中から姿を現したのは直ぐのことだった。初めに出てきたのは黒い体毛の一五十センチほどの雄。それに続いて一回り小さい雌が二頭。

 それだけを確認してブラントは飛び出した。

 まだ中にいるかもしれないが、複数で囲まれるのも面白くはないのと、囲まれている間にアリアに対して牙をむけば助けようがない。それなら陣形を取られる前に先手を打つ。それが理由である。

 まずは最も近い雄のブラックファングを目掛け剣を突く。

 あまりにも不意な攻撃にブラックファングは為す術がなく、そのまま額に剣が突き刺さり絶命する。

 ここまで接近してしまえば攻めあるのみ。そう思ったブラントは素早く剣を抜き取ると、立て続けに雌の背中に剣を振り下ろして串刺し、残ったもう一頭の攻撃を盾で受け止め、剣は手放して腰の投げナイフを額に突き刺す。

 あっという間に三頭のブラックファングはその場で崩れ落ち絶命した。


「す、すごいです!」


 興奮気味に近寄ってくるアリアを「まだです!」と、停止させてブラントは洞窟を凝視する。洞窟からは全く気配を感じ取れないが、それでもブラントはブラックファングに突き刺さった剣を引き抜き近寄る。

 洞窟の目の前で盾を構え、盾の隙間から中を覗き込む。


「……私達は恵まれているようです」


 ブラントがそう呟いた理由。

 それは視線の奥に二頭のブラックファングが威嚇することなくブラントを見つめていた。その体毛は、薄暗い洞窟内でも分かるほど白かった。

 そう、洞窟内のブラックファングは二頭とも希少種であった。その毛皮の金額は通常の数十倍。まさに貧乏冒険者にはお宝のような存在だ。

 かといって洞窟の奥で縮こまる二頭を引きずり出すのが難儀である。剣を伸ばして突き立ててもギリギリ届くか届かないか、その時に隙間から腕に噛みつかれでもしたら大変である。かといって、見逃せるほどブラントに財布は重くない。なんたってブラントの全財産はたったの銀貨一枚しかないのだから。

 こうなれば背に腹は代えられない。そう思ったブラントは投げナイフを手に取る。もし狙いが外れて、岩にでも当たればナイフは折れてしまうだろう。そうならない為にもブラントは呼吸を整え、自分のリズムを整える。

 リズムが出来た所でナイフを耳元まで上げ、そのまま力まないように目標を定めて投げる。今回は目標までの距離が比較的に短いため、幸運にも手前にいる希少種の眉間に吸い込まれた。安心する前に残った希少種に目掛けて再びナイフを投げる。

 二頭の希少種が絶命したのを確認し、そこでようやくブラントはホッと胸を撫で下ろす。


「アリアさんこちらに」


 まだ希少種の存在を知らないアリアは不思議そうに近寄り、ブラントの指さす方に視線を送る。


「ブ、ブラントさん! あれってもしかして……」

「ええ、希少種です」

「初めて見ました! 凄いです! 凄すぎます!」


 大興奮であった。そのままブラントの首に腕を回して抱きつき、自分の事のように大喜びをする。

 あまりにも顔が近く、希少種に対して興奮しているアリアとは裏腹に、ブラントの心臓は全く別の意味でドキドキする。ただ残念な事に、アリアの防具は完璧であるがゆえに、伝わるのは固い防具の感触のみ。年頃のブラントには少し残念であった。

 そうとは知らず、多少興奮から覚めたのかアリアは作業に取り掛かろうとする。残念な気はするブラントではあるが、そう言っている暇はない。先ほどは一頭を剥ぎ取るのに十分はかかっており、現在討伐したのは五頭である。単純計算で五十分から小一時間は最低でもかかるだろう。あまり時間がない二人には迅速な行動が必要とされる。

 取り敢えずアリアが一頭の剥ぎ取りに取り掛かり、その間にブラントが残りのブラックファングを並べ、少しでも時間の短縮を図る。

 本当はブラントも練習を兼ねて剥ぎ取りをすれば多少は時間の短縮になるのだが、剥ぎ取りと周囲の警戒を同時にこなせるほど器用ではない。そのためブラントはチラチラと剥ぎ取り方を学びながら、周囲を警戒する。

 が、ブラントは暇を持て余していた。先に部位証明の牙を引き抜くが、それにかかる時間は微々たるもの。試しに近くの洞窟に石を投げ入れても無反応。他にも色々と試すブラントであったが、これ以上は何もないと諦め、長い時間を待つのみであった。



 アリアが作業に取り掛かること小一時間。「終わりました!」その声と共にアリアの作業が終了する。首を長くして待っていたブラントは「お疲れさまです」と告げ、剥ぎ取った皮をマジックアイテムの中にしまう。

 さすがに小一時間も休憩なしで作業に没頭していたため、アリアの表情に疲れが映る。


「ここで休憩を入れましょうか」


 と、アリアの疲れを読み取り、再び休憩を余儀なくされたブラントであった。


「はい」


 ただ皮を剥がれたブラックファングの隣で休憩するのは落ち着かず、二人は少し離れた場所に移動し腰を下ろす。


「お水です」


 そう言って、ブラントは都市エンティラで買った水をマジックポーチから取り出し、アリアに渡す。

 アリアは軽くお礼を言い、だいぶ喉が渇いていたようで一気に飲み干した。最後に「ぷはぁ~」とアリアは一気に息を吐き、その表情は満足そうである。その姿は仕事終わりの中年男性が麦酒を一気に流し込むようで、ブラントは悟られない様に鼻で笑う。


「どうですか? 少しはコツを掴めてきましたか?」

「ん~、そうですね。……ほんの少しは上達したと思います。これも全部ブラントさんのおかげです」

「いえ、私はなにも。こちらこそアリアさんが同行してくれたおかげで、スムーズに進みます。お礼を言うのは私の方です」


 お礼に対してお礼で返され、そのせいで「ブライトさんが――」と再びアリアが褒めだし、「いえ、アリアさんの方こそ――」それに対してブラントも褒めだす。そのお互いを褒めたたえる言い合いが少し続いた。そんな時。

 川の上流の方から一組のパーティーが、血相を変えて全力で走っている姿をブラントが目にする。重装備をした男性が二人、ローブを被った魔法使いの女性が一人、軽装備と弓を装備したアーチャーと思われる男性が一人。その防具品から上級者の冒険者なのだとブラントにも理解できる。

 先頭を走るアーチャーと思われる男性は、ブラント達を見るや否や、声を張り上げて叫ぶ。だが、その叫びは二人に届くことはない。


「何かあったのでしょうか?」


 あまり危機感がないアリアは不思議そうに首を傾げる。


「……不味いかもしれません。私達も逃げましょう」


 理由はどうあれ、何か問題があったのは血相を変えて走る冒険者を見れば誰にでもわかる。それならまずは逃げた方が賢明と判断し、ブラントは急いでアリアを立たせて手を引くように走り出す。

 突然の事にアリアは「えっ? えっ?」と、疑問を口にするが、それをブラントは全て無視する。

 ブラントはアリアのペースに合わせて走るが、やはり一般人のアリアは走るスピードが遅く、後方を走る冒険者との距離が徐々に縮まる。


「……ワーウルフ」


 そんな時だった。何気なく後方を見たアリアが呟く。


「えっ?」


 あまりにもボソリと呟くため、その声はブラントの耳には届かなかった。


「ワーウルフです! 後ろからワーウルフが追いかけてきます!」


 そこでようやくブラントは冒険者が血相を変えて逃げる意味が分かった。今のブラントにはあまりにも強大な敵で、勝てる見込みは皆無である。仮に片腕を無くすほどの深手だったとしても結果は同じだろう。

 ブラントは絶望的な結果に、歯が欠けそうなほど食いしばり、走るペースを速める。それでもジリ貧なのには変わりない。冒険者と、ワーウルフと、その差は徐々に縮まる。冒険者との距離にしておおよそ三百メートル、ワーウルフとの距離にしておおよそ六百メートル。

 いつしか川の下流に差し掛かり、そこで恐れていた事態が起こる。

 体力の限界を迎えたアリアの足がもつれて転倒した。特に怪我はないが、それでも肩息をつき、その姿からこれ以上は走れそうにない。

 もしここで見捨てれば、きっと自分だけは……。起き上がれないアリアを見下ろし、ブラントはそんな事を思ってしまう。が、そんな事が許されるはずがない。きっとパーティーの皆は許してくれるだろう。仕方がない、と。それでも後悔が呪いのように生涯苦しめる。だからこそ、だからこそ見捨てる訳にはいかない。

 アリアにとっても、自分自身にとっても。そう思うブラントは強引にアリアを立たせる。

 剣を引き抜きブラントはゆっくりとワーウルフに向かって歩き出した。

 目の前まで追いついた冒険者パーティーは目を丸くする。通り過ぎる直前に、その中で最も大柄の重装備をした男性の腕を掴み引き留める。


「私が時間を稼ぎます。代わりにその子をエンティラまでお願いします」


 一人が犠牲になって多数を助ける。ブラントにはこれしかなかった。本来ならワーウルフを引き連れた、この冒険者パーティーがその役割をするのが当たり前だが、それを言い争うほど時間の猶予はない。

 もちろんブラントの申し出を断る事はなく、大柄の冒険者は「す、すまねぇ。あんたも死ぬなよ!」それだけを告げてアリアを肩に担いで走り出した。後ろから頻りに「ブラントさん!」と、アリアの悲痛な叫びが何度も聞こえるが、それに返事を返さず前だけを見つめる。


「みんなごめんね……」


 絶望的な状況で最後に出た言葉がそれだ。

 三メートルは優にあろうワーウルフが二足歩行で走り、その脚力から一歩地面に足をつけば、周辺には小石が尋常じゃないスピードで拡散され飛び散る。

 そんなワーウルフとの距離が百メートルまで接近した時、ブラントはワーウルフに向かって走り出した。

ここまで見ていただきありがとうございました。そして長文にお疲れ様です。

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