妻を殺してもバレない確率
息抜きに書きました。
一気に書き上げたのでつたないかもですが、どうぞご容赦ください。
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【2017.10.22更新】
何の運命のいたずらか、本作が第五回ネット小説大賞のグランプリを受賞し、宝島社様より書籍化いたしました。
本作と書き下ろし6編を詰め合わせたオムニバス作品となっております。
本屋で見かけた際にはよろしくお願いいたします^^
これも皆様の応援あってのことです。本当にありがとうございました!
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「0.061%」
僕の朝はいつも眼鏡型のPCを起動して、ある未来予測をチェックするところから始まる。
「まぁ、当たり前か」
ここのところ、この数字が1%以上になったところを僕は見ていない。
『妻を殺してもバレない確率』
僕が設定した未来予測の条件だ。
条件を入力すれば自宅のパソコンで簡単な未来予測が出来るようになったのはもう15年も前の話。様々な用途で使用されるソレを僕も例外もなく使わせてもらっていた。
妻とは所謂、政略結婚だった。僕の祖父が経営する会社に資金援助することを条件に妻の父、今の義父に当たる人が僕に政略結婚を迫った。見た目も普通、何か特別出来ることがあるわけでもない僕を望んだのは、ひとえに彼女が会った事もない写真の僕を気に入ったからだった。
「貴女を愛せるとは思えませんが、それでも良ければ」
そう彼女に言ってのけたのが10年前だ。そして僕らは結婚した。別に恋人がいたわけじゃない。彼女の見た目だって悪い方じゃない。祖父の会社は潰れるのを免れて、僕は義父の会社の次期社長だ。何もかも万々歳。世間的には、一般論的にはそうだろう。だけど僕はそうは思えなかった。
金で買われたという思いが強いからか、僕は彼女をそっと恨んだぐらいだ。
嫌なら首を横に振ればよかったのだろうが、状況的にはそうも言ってられなかった。祖父の会社はあと幾日も持たないだろうというところまで来ていたし、もし倒産なんて事になった場合、頑固一徹で責任感ばかり強い祖父が自らの命をお金に換える選択をしないわけがないとどこか確信していた。命と莫大な借金が僕の身一つで救えるのだと言われたのだから、僕はそれを許容するしかなかったのだ。
「君を殺して僕が君の受け継ぐ莫大なお金を独り占めするかもしれない。それでもいいかい?」
結婚したての時、何気なく彼女に言った言葉だ。彼女は一瞬驚いた顔をして、そして微笑みながら首肯した。
「いいわ。それまでに私が貴方を陥落させればいいだけの話でしょ?」
挑戦的に言ってのける彼女がどこか勇ましい戦士のように見えて、一瞬目を見張った。そして、その日のうちに『妻を殺してもバレない確率』とメガネ型PCに入力した。簡単な質問に答えた後、ウェアラブル端末が状況を的確に把握して、確率を出す。最初に出た数字が『38.235%』だった。意外にも高い数字にびっくりして固まる。4割近く出るなんて! と思ったが、明日から確か妻は旅行だと思い出した。それも一人っきりの旅行だ。旅行に行ったと見せかけて殺すなんてのはアリかもしれない。
「旅行に行くと見せかけて、君を殺そうか? 4割ぐらいは成功するらしい」
「そう、頑張って。お土産は何が良いかしら?」
飄々と言ってのける彼女が面白くて、「殺せないと思ってる?」と聞くと、「いいえ、もし殺されたらそれは私の努力が足りなかった所為だわ」と凛とした瞳で返された。
彼女を見送って、僕はまた一つの未来予測をした。
『半年後、妻の事を愛している確率』
『0.001%』
そうだろうな、と一人納得した。面白い女だとは思っても、彼女に対してあまりいい感情を持ってないことは事実だ。半年ぐらいでそれが変わるとも思えない。
数日後、旅行から帰ってきた彼女にそのことを告げた。少し反応が楽しみで、期待していると、「そう」と返しただけだった。正直拍子抜けした。
「君は僕の事を憎からず思ってるのだと思ってた」
結婚相手に望むぐらいだから愛してはいなくとも、いい感情は持ってるのではないかと思ってた。しかし彼女はどうでもよさそうに一言発しただけだ。泣いてくれとまでは言わないが、せめて悔しがる顔を見たかった。
「……次は私をどうやって殺す予定か聞いてもいいかしら?」
「は?」
「貴方、旅行に行く前に『旅行に行くと見せかけて、君を殺そうか?』って言っていたじゃない? 待っていたのに。来てくれたらきっといい新婚旅行になったわ」
「殺されたいのかい?」
「できれば貴方に愛されたいわ」
意味が分からない女だと思った。彼女の前でメガネ型PCのスイッチを付けてもう一度未来予測をする。
『妻を殺してもバレない確率』
『12.253%』
10回に1回はバレないのか。結構な確率だ。
夜中に部屋で二人っきりだと大体このぐらいか。そう頭に留める。
「今は12%ぐらいだからね。やめとこうかな。もし殺すなら、旅行から帰ってこなかったって事にして、死体はどこか近くの道路に置いておくよ。通り魔にでもあったと思うだろう」
「それなら、近くの公園が良いと思うわ。あそこ不審者が出るって有名だから」
「……君が何を考えてるのかわからない」
「私はあなたに愛されたくて必死なだけよ」
そんな彼女に剣呑な目を向ければ、彼女は薄く笑ってお土産だと包み箱を渡してきた。
「捨てるぞ」
「貴方にあげた物だから自由にして構わないわ」
そういう彼女に一矢報いたくて、僕は勢いよく箱をゴミ箱に放った。そして、得意げに彼女の顔を見て、少し後悔した。悲しそうに眉を寄せてその箱を見つめる彼女。その瞳を見たくなくて、僕は慌ててあてがわれた部屋に帰った。
結婚はしていたけれど、勿論部屋は別々だった。彼女を抱く事は無いと思っていたし、彼女もそんな僕に抱かれたいわけがないと思っていたからだ。
そんな殺伐とした生活も半年が過ぎた。僕は朝が始まると布団から出るよりまず先に『妻を殺してもバレない確率』を調べる。そして、布団から出て身支度を整えて、リビングに行くのだ。
「今朝は15%だった」
「あら、じゃぁ安心してもいいのかしら?」
「わからないぞ。もしかしたらその珈琲に僕が毒を仕込んだのかもしれない」
「私がさっき淹れたばかりなのに?」
「昨日のうちに仕込んでおけば可能だよ」
「じゃぁ、心中しましょう。はい、貴方の分」
「どうも」
勿論、毒など入っていないその珈琲を手に取って僕は席に着く。そうして彼女が作った朝食を食べるまでがいつもの流れだ。
それ以外にまともな会話をしない日もあるが、僕はそれに多少の居心地の良さを感じ始めていた。不干渉なところがいい。勝手に出てくる朝食も、夕食も魅力的だ。だけどそれは愛とは別の感覚で、『愛しているのか?』と問われれば答えは確実にNOだった。
そしてそのまま2年が経った。夫婦としては壊れているかもしれないが、家族としては機能してきたと思えた矢先。彼女は僕とデートに行きたいと言ってきた。
「僕は行きたくない」
「私は行きたいわ。今日は水族館にしましょう!」
「僕は君を愛していない。好きでも何でもない」
「でも、私はあなたを愛しているわ」
だからどうしたと思った。どうして今更普通の夫婦のようになれると思っているのだろうか。苛立たし気に無言で彼女を見つめていると、ゆったりとほほ笑むのが見て取れた。
「貴方いいのかしら? せっかくのチャンスをふいにするつもり?」
「何のことだ?」
「今私の誘いに乗ったら、私を殺せるかもしれないって事よ」
「僕はただ君を殺したいんじゃない。バレずに殺したいんだ。捕まったら意味がない」
「だからよ! 貴方今朝の確率覚えてる?」
「5.7…ぐらいだったか?」
「そう、最近下がってきてるんじゃない? いいのそんな事で? 私と出かけたらどこかで確率が跳ね上がるかもしれないわよ! もし、私が人ごみの中で貴方に背中を刺されてしまって、その犯人が貴方だと確定できる要素が無かったら貴方は捕まらない。けれどその為には人ごみに行く必要があるわ」
「君を殺す話をしているのに愉快そうだな」
「今日は一日愉快な気分でいたいのよ。大丈夫、背中は貴方に預けるわ」
「刺されるためにか?」
「あら、抱きしめてくれてもいいのよ?」
クスリと笑う彼女につられて笑みを作る。結局、そのまま押し切られるようにして、僕と彼女は初めてデートをした。結婚をして3年になろうかという時だった。
楽しかったか、楽しくなかったか、の二択ならば、きっと僕は楽しかった。久しぶりの水族館という事もあり、年甲斐もなくはしゃいだ気がする。確率なんて調べる余裕もないぐらいに心が躍った日だった。隣で微笑む彼女に対してその時ばかりは感謝したくなったのも覚えている。
夜になって、夕食はいつも通りに家で食べることにした。いつもより少し豪華で、好物ばかりが並ぶ食卓を見渡して、そこでようやくカレンダーを見た。
「僕の誕生日か?」
「あら、忘れてたのね。毎年、一応祝っているつもりだったのだけど」
思い返してみれば、一年に一回少し豪華で好物ばかりが並ぶ日があった気がする。何の気まぐれなのかとその時は気にしなかったが、誕生日だったのだと今更ながらに気が付いた。
「ありがとうは言わないぞ」
「今言ってもらったので十分だわ」
「君の誕生日を祝う気もない」
「私がしたかっただけだから気にしないで」
「……」
「生まれてきてくれてありがとう」
「どういたしまして」
今考えると、ただ気恥ずかしかっただけなのだと分かるが、その時の僕は混乱していて、この女大丈夫か? と思っただけだった。
それからやっぱり僕の態度は変わらないし、彼女の態度も変わらなかった。
ただ月に一回程度は一緒に出掛けるようになった。
僕は彼女を殺すために。彼女は僕とデートするために。
殺す気があったのか? と聞かれれば、最初からなかったと答えるしかない。
彼女にいい感情を持ってなかったのも本当だし、彼女が死んでくれれば…と思わなかったこともないのだが、殺すなんてリスクが高い事、小心者の僕には選択肢として用意できなかった。
ただ、一応夫婦となった彼女との話題としてちょうどよかっただけなのだ。
それを恐らく彼女も知っている。知っていて、掛け合いに出してくる。そしてその事をすべて了承済みで、僕はその掛け合いに乗っている。
どうしてなのか。それは何となくわかりかけていたけれど、僕は慌てて蓋をした。だってもう、今更だ。
それからまた2年の月日が経って、僕らは結婚して5年になった。
「今日は2.564%だったよ。最悪だ。低すぎる」
「私の平穏はまだ続きそうで安心したわ」
「君はいつも変わらないじゃないか。平穏そのものだ」
「そうでもないわよ。今日の魚は焼きすぎちゃってね、丸焦げよ」
「僕のは普通みたいだけど」
「貴方のは慌てて焼き直したの。ほら見て、丸焦げ」
そう言って自分の皿の魚を指して苦笑いを浮かべる彼女。そんな彼女の皿と自分の皿を交換して僕は朝食を始めた。
「いいの? そっちは丸焦げよ?」
「君こそいいのかい? 僕はその皿に毒を仕込んだかもしれないよ?」
「貴方が仕込んだ毒なら食べてみたいわ」
「じゃぁ、どうぞ」
「いただきます」
いつものように朝食を食べながら、僕は時計を見る。そこには時刻の他に日付が表示されている。
もう5年たった。
正直、潮時かなと思ったのだ。
朝食をしている彼女を目の前にいつもの未来予測をする。メガネのレンズに映る数字を見て溜息をついた。
『1.524%』
やっぱりだ。低い。先ほど彼女に言ったのは1%増やした数字だった。今朝見た確率は『1.564%』。ちなみにその増やした1%は取るに足らない意地の結晶だ。
以前この未来予測システムに詳しい友人に自分がしている未来予測と、僕たち夫婦の事を話したことがある。年々低くなっていくこの未来予測の確率が気になったからだ。
馬鹿だなお前、と呆れられた後、彼は懇切丁寧に説明してくれた。
彼が言うには、『妻を殺してもバレない確率』なんていうのは、そもそも条件を設定した本人が『殺す』なんて選択をするのかどうかというところから計算に入るらしい。つまり、年々確率が減っているというというのは、僕の気持ちが変化しているからだろうと言うのだ。
そんな馬鹿な。そう思った後に、もしそうだとして今更どうしろというのだ。と苦しくなった。彼女に酷い事ばかり言っておいて、女とも扱わずに、記念日なんてものは無視して、彼女から与えられる物だけをただ甘受してきたのだ。
5年間だ。5年間。
今更どの面下げて君を大切に思っているなんて言えるのだろうか?
結局僕はその後も、君の想いを甘受するだけの日々を選択した。
でももう、終わりにしよう。潮時だ。愛しているかなんてわからないが、僕はきっと君の事を大切に思ってる。そのことを伝えようと思う。
今日は君の生まれた日だ。
僕は朝食を終え、いつものように仕事に出かける為に身支度を整えた。彼女はいつものように玄関まで送ってくれる。薄く唇を開いて、僕は消え去りそうな声を出した。
「いってきます」
「……はい。行ってらっしゃい」
彼女が泣きそうな顔で微笑むものだから、なんだかうれしくなって、もう一度いってきますと口にした。先ほどよりも少しはっきりした声で告げると、彼女が今にも泣きそうだったから慌てて去るように家を出た。
此処が帰る場所、そう思いたくなくてずっと言ってなかった『いってきます』という言葉。あんなに喜ぶなら、もっと早く言ってやればよかったと会社に行きすがら思った。
やりなおそう。
そう素直に思えた。花束でも買って帰ろう。ケーキはもう予約してある。今まで祝えなかった分ちゃんと祝ってやろう。プレゼントは何が喜ぶかわからなかったから一緒に買いに行こうと思ってる。まずはそこからだ。僕は彼女の好みも何も知らない。彼女は何も言わない僕の好みを完全に把握しているのに、恥ずかしい限りだ。でも、これから知っていこう。たくさん時間はある。僕らは夫婦だ。
会社に居る時間があんなに長いと今日初めて知った。
営業先に挨拶をして、今日はそのまま直帰の予定なのでその足で花屋に寄った。
何色の花が好きなのかわからないから定番のバラをチョイスして包んでもらう。本数を聞かれたので適当に100本と言うととてつもない量になった。それでも今日用意してる分しかないからと、70本に減ったのにも関わらずだ。
バラの花束を受け取ると、顔に当たってメガネがカランと音を立てて落ちた。衝撃で今朝の履歴から未来予測がすぐに起動する。
『25.283%』
そこに映った数字に目を見開く。慌ててメガネをかけ直すと一秒ごとに数字が変わるのが目に映る。
『32.154%』
『38.259%』
『42.985%』
数字は目くるめく間に上昇し、とうとう50%を超えた。
『妻を殺してもバレない確率 52.385%』
僕はそれを見た瞬間、弾かれるように走り出した。
以前、夫婦の事を相談した友人が言っていた言葉を思い出す。
「お前がもし奥さんの事を大事にしたいと思って、その気持ちの上で確率が50%を超えることがあったら注意しろよ。お前がどうしたいかにも関わらず、そう出来得る状況になったって事だ」
どういうことだ? と尋ねた僕に友人はさあなと笑うだけだった。
そう出来得る状況? なんだそれは。そう思いながらも僕の足は家路を目指す。彼女の顔を思い浮かべて、冷や汗が流れた。
商店街を抜け、電気屋の前で僕は足を止めた。そこで流れるニュースに妻が映っていたからだ。
『交通事故 ダンプカー 衝突 重体』
必死で流れてくる情報を整理する。最後のトドメにもう一度彼女の写真がアップになる。僕はそこで膝を折った。
そこから先はあまり覚えていない。けたたましく鳴り響く携帯電話の奥で義父が何かを叫んでいるように聞こえたが、僕に届く事は無かった。
君は眠っていた。病院のベットでたくさんの機械を取り付けられながら。
沢山の包帯が痛々しくて目を逸らしたいけど、初めて見た君の眠る顔があまりにも綺麗だったから逸らせなかった。
「誕生日おめでとう」
最初に出た言葉がそれで、
「今まで本当にごめん」
次に出た言葉が謝罪だった。
幸い部屋の中には自分と彼女の二人っきりしかいなくて、僕は彼女の隣に座りながらまた未来予測をした。
『妻を殺してもバレない確率 99.274%』
そうだろうな、と思った。感情なんか介入する暇もなく目の前のボタンのどれか一つでも押してしまえば彼女は死ぬだろう。それで足が付くと言うのなら、彼女の首をそっと絞めればいい。
以前友人が言っていた『設定した本人が『殺す』なんて選択をするのかどうかというところから計算に入る』というのは。言うなれば躊躇なのだ。殺すという段階に入って途中で足を踏みとどまるか、ということ。
今の彼女は躊躇する前に死んでしまう存在なのだ。たった少しでも僕がそうしようとすれば彼女は死んでしまう。
「ねぇ、今日の確率は0%だったよ。低いどころの騒ぎじゃないね」
僕はいつものように彼女にそう言った。だって確率は0%なんだ。メガネのレンズに表示されてるのは『99.358%』だったけれど、僕は彼女に生きていてほしかったから確率は0%。僕が彼女を殺すなんてありえない。
「今日の君の平穏は約束されたよ。いつまでもそこで寝てないで、お弁当でも持って一緒に公園へ行こう。言った事は無かったけれど、僕は君の作るあの甘い卵焼きが大好きなんだ。君が作ってくれた唐揚げも美味しかった。一生懸命作ってくれたお弁当をいつも僕は無言で食べていたね。それでも君が嬉しそうに笑うから、僕はそのままでいいと思い込んでしまっていたんだ」
ゆっくりと温めるように冷たくなりそうな頬を撫でる。そこにいつも通りの朱が指すことを願いながら。
「今日初めて知ったんだ、君が『行ってきます』と僕に言ってほしかったこと。僕は変な意地で今まで言わなかっただけで、もうとっくにあそこは僕の帰る家になってたのに。君を泣かせてしまったね。僕が居ないところでも泣いていたんじゃないかと思うのは、僕の自惚れかな? もう君を泣かせないよ。本当だ。誓うよ」
嗚咽が喉の奥までせりあがる。鼻の奥がツンと痛み、僕は堪えきれず涙を流した。
「本当にごめん。今まで待ってくれてありがとう。今君の声が聞きたい。猛烈に」
彼女の掌が白むぐらい強く握ってしゃくりあげた。うまく言葉にできたか自信がない。それでも、これだけは伝えないといけない気がしたんだ。
「愛してるんだ。帰ってきてくれ、由梨…」
結婚6年目の記念日、僕らは病室で過ごした。
結婚記念日と由梨の誕生日は近かったので彼女が寝たきりになってから一年が経とうとしていた。由梨は世間一般で言うところの植物状態になってしまった。僕としては植物状態なんて気持ちが悪い単語を彼女に使いたくはなかったのだが、彼女の説明をするときにどうしても必要に駆られて使ってしまう。この辺の語彙は磨かなくっちゃいけないな、と彼女に言うと今日は一段と綺麗に笑ってくれた気がした。
僕はいつも由梨が僕にそうしてくれていたように、毎日部屋の花を変え、他愛もない事を話しかける。身体を拭いて、天気が良ければ窓を開けて一緒に日向ぼっこをした。食事は目下のところ練習中で、目覚めたら一番に食べてもらおうと只今躍起になっているところだ。
「ねぇ由梨、今日の確率も0%だ。君の平穏は今日も無事だよ」
『96.783%』
一年で3%しか下がらなかった数字を見て、僕は少し微笑んだ。大丈夫、まだ待てる。いつまでも待てる。だからゆっくり帰っておいでと。
先日、先生から『生命維持蔵置を止めるのも視野に入れといてください』と言われた。回復の見込みは薄いそうだ。僕は声を荒げながら彼を殴り飛ばしたが、今ではちゃんと反省してる。だから由梨、目が覚めても怒らないでくれよ。
それから半年、義父も諦めたようだった。
でも、僕は諦めなかった。諦めそうになるのを必死でこらえて、応えない君に必死に話しかけた。
そしてもう半年、僕らは結婚して7年目だ。
話しかけても応えない由梨を見ながら、僕の彼女に応えない5年間を想った。
こんな感じだったのだろうか、応えない僕を相手にするのは…。こんな虚無感を由梨に味わせていたのだろうか。
今日は彼女の誕生日だというのに目の前が霞んでどうしようもない。頬を流れる涙を拭うことなく、僕は由梨に話しかけた。
「誕生日おめでとう。あの時君に送れなかったバラの花束を買ってきたよ。今度はちゃんと100本だ。すごいだろう? プレゼントは目が覚めたら買いに行こう。7回分だ何を願ってもいいよ。君が何を欲しいか僕は全く知らないからね。今度じっくり教えてくれ」
「ねぇ、今日の確率も0%だったんだ。君はどうしてそこで寝ているの?」
『92.693%』
「君は何色が好きなんだ? どういう趣味を持ってるんだ?」
『85.696%』
「僕がいない間何をしていたんだ? 何の花が好きなんだ?」
『68.258%』
「今度子供のころの写真も見せてくれ、君はどこの高校を出たんだ?」
『51.258%』
そこまで来て、はっとした。数字が下がっている事に気が付かなかった。数字はどんどん下がる。僕の心拍数は反比例のようにどんどん上がっていく。
まさか まさか まさか
『32.258%』
『20.258%』
『12.258%』
『3.178%』
『0.001%』
「おはよう。今日はずいぶんとお寝坊さんだったね」
酸素マスクの向こうで形の良い唇がそっと笑う。大きな瞳が僕を映して小さく揺れた。
「おはよう。昌弘さん」
声は出なかったけれど、そう動いた唇の形に僕は泣き崩れた。
そして僕はまだあの習慣を続けている。
『0.061%』
それが今日の結果だ。
ベットから起き上がり隣にいる由梨を撫でると、その奥の小さな命が今日も元気に泣き出した。