時計の幽霊

作者: 餅々百道

僕の部屋の壁には、スタイリッシュな箱型の時計が固定されている。もともとそこは祖父の部屋であり、いまだ現役じみた元気な祖父をリビングに追い出すような形で自分の部屋としたものだった。その時計は、部屋のスイッチの一つを押せば内から淡いオレンジ色に光る粋なもので、照明としては結構な存在なのだが、時を告げるという役割を全く果たせていない(おそらく祖父が使っていただいぶ前から)。電池を変えることも出来なさそうだし、何しろ、カチカチ……と小さな音を立てているにもかかわらず、人前では一向に動かないで(ポンコツ!)、デタラメなところを指しつづけている。ちなみに、それは建物の一部らしく、壁から突き出たそれは、取ることも叶わない。せいぜい、ただのインテリアだ。勉強をしていて、大きく見上げた先に、その邪魔なインテリアが大事な一角を占めて存在するのだ。


その日、彼は帰るなり布団に潜った。発表でペアになった女子の成績を、上がり症の彼は下げてしまったそうだ。そこで話す内容は全て覚えていたはずなのに、いざその場に来ると頭がひやりとし、冒頭の言葉すら忘れてしまったのだ。そこにいる全ての人が、苦笑いに耐えているようだった。……彼の成績だけかもしれないが、本来、二人で協力しなければいけないものを、分担して作ったそれが良いものであるはずがない。彼女が他の人に文句を言っていたのを聞いて、彼はひどく落ち込んだ。けれど、彼女が怒るのは仕方のないことだろう。


……おそらく自分という人間は、人の重荷にしかならないようなものだろう。運動部の先輩にすら、いつも申し訳ないほどに気を遣かわせてしまう。ありがたいことだけど、優しくしてもらいたいんじゃない、周りの人と同じように扱ってほしいんだ。ーーけれど


……独り、心中で呟いていても無駄だった。布団という安らぎの場で瞳を閉じ、自分や他人を恨むことに時を浪費するのは非常に虚しい。


じんじんとする頭と疲労した身体を起こして、彼は他教科の復習をすることにした。


彼は、半ば作為的に「倫理」の参考書を取り出した。その本の帯には、「他人のためになるとは」と書かれている。彼は人を不快にさせたくなかった。つまり、「人と関わってはいけない」。


けれど、独りでいると、傷つくことはないが、非常に退屈なのだ。


涙は留まろうと必死だったが、やはり彼の教科書を濡らしてしまう。けれど、ぼとっ、と零れたそれを見れば、何だかしょっぱい思いがした。いろいろな感情が「過去のもの」という凡庸な結晶になった時だった。泣くと案外すっきりすることを彼はよく知っていた。よくよく考えれば、このようなことは結構起こるのだ。ーーそう、変わりもせずに、彼は許してきた。後は遅れて垂れてきたこの一筋を丁寧に拭いとるだけだった。


ティッシュを取った彼は上を向いた。そして、目に入った時計は12時ちょうどを指していた。


そのまま鼻をかんで見逃しそうになるも、ぴたりと重なる針を見て、さすがに、えっ……と彼は驚いた。置物であるとはいえ、時たま、ものの背景として彼の目には入っていたが、明らかに12時は指していなかったはずだ、と。


……確か、いつ見ても、まぬけに手を広げているような格好をしていたはずだ……どこを向いていたかは忘れたけれど……ーー動いていたんだろうか?


とうの昔に迷子になり、人知れず壊れてしまったはずの時計を、彼はまじまじと見つめた。ーーカシャン、カシャン……と、秒針の無い時計の音は、数刻の間、とても大袈裟に聞こえるようだった。


……そういえば、この音だけは何で途絶えなかったんだろうーーまるで、心臓がとくとくと鼓動し、刹那でも休めば「おわり」がやってくるものであるかのように、そして、死んだと思っていたものが、あたかもまだ……


『他人を何だと思っている』


突如、少女らしき声が静かに彼の脳裏に響き、そして、ピシッと針が一刻みした。


★ ★ ★


『【子】は生という芽が萌えいづることをいう。物事のはじまりだ。けれど、もうすぐお化けが出る時間でもある。だから、早く寝なさい』


祖父が昔、言っていたことだ。そう、お化けがそろそろ出始めそうな時間帯が子の刻。……なんとなく、さっきすごく可愛い声が聞こえてきた気がするけれど、何だろう……こじつけや妄想も甚だしいな。


しばらく惚けていた彼は、かくんと首を垂れ、机に目を落とした。読みすすめるも、胸のざわめきが止まらないことを恨めしく思い、馬鹿め、と頭を押さえた。そんな彼に


『そこにある、幸福追求権って知っているか?』


と、再び少女の声が聞こえた。


つい、彼は真剣に答えてしまった。


『憲法13条、すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』


すると、少女は、感心するように言った。


『ちゃんと学びなさい』


彼は頭を抱えた。


とりあえず、時計の妖怪……もしくはお化けだから、計子って呼んでいいか?と彼が言えば、溜息をついて「ときお」と呼べ、と言った。


おそらく「時のはじまり」と書いて「時緒」だろうーーそう、彼は思った。


★ ★ ★


僕は知っている。


『ーー君、好きな人とかいる?』


覗きこむように、彼女は首を傾げて聞いた。ぐるぐるに巻かれたストールの裾が風になびく。彼女のやや茶色を帯びた髪もふわりと流れた。


『……えっ、えーと何でですか?……いません』


僕は思わずドキマギしたが、それが彼女の「お節介」という天然物の性分から来るものだと知っているから、あー、と内心、遅れて許諾した。


『そうなんだ』


はい。


……


彼女の横顔を見るに……


まどろっこしい想いとは無縁なようだ。


淡いパステルカラーの曇天の中、ふと容赦ない木枯らしが通れば、僕は反射的に唸り声を上げた。しかし、彼女がいることを思い出し、あまりにマヌケだったその声に引きつった表情をしていると、それを見ていたのか彼女はくすりと笑った。


それからの刹那は、木枯らしの役に立たない刺客のような冷たい微風が来るばかりだった。けれど、いつ親玉が来るとも知れぬストレスは大きいものだ。かじかむ手を擦っていた僕に、『寒いね』と間をつなげてくれるように彼女は一言を呟いた。


けれど、また長い沈黙がおりてしまった。


……本当に何故、彼女は今、そう聞いたのだろう


まさにさっき、その彼女のことを素敵な人だなと思っていたところなのに……


こんな様でも、彼女は、自分のような人間とでも二人でいるのが苦痛でないかのように思えてしまう。


けれど、自分に騙されてはいけない


彼女は、僕が思っている以上にとても気を遣っているのだから……


……本当に。


……しかも、この状況、ありえないよな


『そのとおりだ。起きてくれ』


……あ、と彼は現実に帰ってきた。


これが彼の「今日」という1日の初めである。毎朝毎朝、恥ずかしい夢を見られて、ようやく慣れてきた今日この頃なのだそうだ。


★ ★ ★


時緒は、時折の声でしか判断出来ないが、とても優しい人だと思った。


あの日以来、どこに行こうと一緒にいて、僕の【言う】ことに何らかの言葉を返してくれた。ずっと僕のことだけを見てくれた。ーーそして、見捨てて、いなくなっていることはなかった。


それは、心が躍るような時間だった。朝が来て、夢を見ていると半ば意識出来るようになると、「おはよう」と、(少し殺生に)起こしてくれる。それからは、眠るまで。そんな日々を送る中で、僕は、もし、姿を見せることが出来るのならば見せてほしいと何度か言った。すると、


『いいさ。後ろを向いてみろ』


と、彼女は言った。


馬鹿げていると思いつつも、僕はゆっくりと振り返った。けれど、また何も見えないのであった。


『見せられる訳がないだろう。全く』


何故なら、幽霊は見えないから幽霊だから?のように僕は妙に納得した。


けれど、そんな時々が彼にとっては幸せだったようだ。


込み上げてくる笑いを一人、部屋にこもり、溢れさせていたのだ。


★ ★ ★


彼は家族と食事をしていた。彼曰く、「他人」がいて、無言でも許されるのが、この時間なのだそうだ。


今日はチキン南蛮と味噌汁とご飯。タルタルソースといい、やはり、料理本を見て作ったものは美味しい。


『このチキン南蛮、美味しいんだよ』


彼はやや姿勢悪く肉に噛みつきながら言った。


『そうか』


時緒は、いかにも眠そうに返事する。……そういえば、寝なくてもいいのだろうか、幽霊は。


思えば、と彼は思い返した。無言だったことすらなかったから、昼寝は当然のようにしなかっただろう。


少し、身体を心配すれば、ああと気づいた。彼女は幽霊だった。


そもそも、寝るという行為が、疲れた身体と脳みそを休ませるためのものであると言うのならば、「そういうものだ」と納得出来なくもない。それとも、他に何らかの事情があるのかもしれない。


『まあな。……にしても』


じとーと睨む、または妬むようなそんな感じの思いが感じられる。何だろう……と思ったが、刹那の間を経て、言いたいことがわかった。


僕は、チキン南蛮にかぶりつく度に、少し甘酸っぱいそれを心の中で大絶賛していた。


『……あー、幽霊には味覚ないよね。ごめん』


『……そうでもない。だが、嘘をついているな』


……


『……嘘ではないけど』


『けど?』


しかし、ふつふつとばつが悪い気持ちが湧き上がってくる。


そして、ややあって降参した。


『……ごめん、やっぱり知ってた』


……閻魔大王様に心を見透かされるのってこんな感じなのだろうか。


『お前、性格悪いな……』


『ははは……』


……ああ、何となく清々しい


「あんた……」


母の声に、やや刹那を経てああと気づき、「何?」と顔を上げた。母は呆然と口を開けていた。


「どうしたん」


「……何が?」


「……元気やなぁ」


「まあ……」


★ ★ ★


時緒はどんな容姿なのだろう、と思って時々、頭の中で妄想せざるを得なかった。むげなことに、ほわんと浮かんだそれらは、逐一本人に見られてしまう。何故か、あどけない少女らしい笑顔を少々抑えようとした表情の彼女を想像してしまっていて、ハッと気がついた時には、彼女は額に手を当てて押し黙ってでもいたらしい。


『……そんな容姿ではないと言っておこう』


と、本人も非常に溜息まじりだ。


そもそも、人のような容姿だとは限らないだろう?と説得力のあることを言われた(そして、なんで髪型がゆるく癖っ毛のショートなんだとも)。


『第一、お前は……人の容姿でない私は見たくないのか』


あ……すごくいじらしい


『……いじらしいとは何だ』


また、へらへらと笑っていた彼だが、ふと気がつかなくていいことに気づいてしまい、衝撃を受けた。……そういえば、こんな声色だからそうだと思っているけれど、時緒が女性だとは限らないよな……第一、男っぽ


『……阿呆』


彼女はまた溜息をついた。


このような生活は、しばし続いた。


その感覚は、あたかも自分が「独り」ではないかのようだった。けれど、それが幻であるのならーー彼女が本当の意味で幻であるのならーー辻褄の合わないことはたくさん起こっているはずだ。


★ ★ ★


その概念の存在は、母の本棚を見て気づいた。


『統合失調症の息子との付き合い方』


ふと、彼はそれを手に取った。


そのタイトルを持つ本は、ずいぶん読み返されているようで、小説ではなく、精神科医によって書かれたものだった。


子供は僕、一人だ。……もしかして、僕がこの病気だとでも言うのだろうか。


読もうと思い、気づいたが、時緒は刹那の間、何も言わなかった。


『呼んだか?』


……ああ、どこにも行かなかったんだね


彼は気を取り直して、その本を読んだ。


統合失調症とは、精神病の一種であるそうだ。症状は、幻覚・幻聴・妄想・無為(何もしなくなる)・自閉(人を避け、一人閉じこもる)といったものが起こるらしい。僕は、数ページを読んだだけで本を閉じ、この病気を知った気になった。


……つまり、母は、引きこもりがちな僕を心配したんだな、と思った。


それ以上は知る気にならなかったけれど、自閉など、幾つか症状に思い当たるところがあるゆえに、「この本には克服方法も書いてあるのだろうか」と軽く読みすすめることにした。


彼がこの本を読んでいる時、時緒がまたもや黙っていたことに気づくのには数日かかった。


ーーある項目まで読んだ彼は目を見開き、本を乱暴に閉じた。そして、あたかも他人を前にしたかの如く、頭が熱で真っ白になり、何かを失いそうで焦った。


克服方法はおそらくこの先に載っているはずだが、様々な統計を面倒にとばしとばし読み、その調子で次の項目である症状の具体的な内容などを見ているうちに、本来の目的などあっけなく忘れた。


幻聴ーー頭の中で、他人のような声が聞こえる。本人はそれが自分から沸き起こる声だとは思えない


妄想ーー自分の中だけでの事実。しかし、現実とはかけ離れている妄想であることが多い


徐々に混沌とした疑いが湧いた。しかし、深く考えるのは避けた。けれど、自閉・幻聴と続き、【本当の意味で現実と夢の区別がつかなくなる】妄想の項目を読み終わり、僕がおそらくこの病気であると悟った時には、恐れていたとおり、その疑いは言葉に変換された。


【時緒という幽霊は僕の脳が作った存在なのではないか】


甚だしく無機質で、ぎょっとするようなものである。呼吸が乱れ、恋煩いをしたかのように胸が苦しい。


独りではないと信じて、あの時からは幾日が過ぎたのであろうか。


僕はそう考えれば矛盾するようなことを必死で考えた。


けれどーー


『私を消すつもりなのか』


ああ……そうなのか……


僕は妙に頭の中が冴え渡るのを感じた。


寂しそうに言う時緒


あんなにも僕が馬鹿を言って、1日に何度も失礼な感情を抱いても、いつでもそばにいて


何故なら貴女は、

僕が考える理想の女性であるのだから


君が僕の夢を覗けるのは、僕自身であるから

一言逃さず応えてくれる可愛いその声は幻に過ぎないんだろう?


『いいんだ』


違う、僕だって本当はまだ信じていたい


けれど、僕は

貴女の言ったことに、驚いたことがないんだ。


『3つ数えたら後ろを向くよ』


僕は君が好きだけれど……


★ ★ ★


妄想だ、という考えを持てば、彼女の応えが苦しげに聞こえてくる。彼女を他人に出来る根拠は何一つ見つからなかった。


幽霊なんていない


「たましい」など無いのだろう。感覚は脳によって作られたもの。見てきたものや環境などによって人格という脳の産物は作られたんだ。死んだら、終わりだ。


けれど、僕はそもそも何故、こんな妄想に囚われたんだろうか。


彼は心機一転と題して部屋を隅々まで掃除することにした。


布団は布団専用の掃除機でガーっと念入りにダニを吸い取り、本棚のめったやたらの埃は雑巾で拭いた。無意味にとってある他サークル勧誘のビラは一気に捨てた。


掃除機を全てかけ、他に綺麗にするものはないか?と見渡すと、事の発端の時計が目に入った。やはり、やる気が無さそうにとんでもない所を指している。


皮肉、という感情を全面に出して、とりあえず埃が溜まってそうな箱の上面を拭くことにした。


行儀悪く勉強机の上に乗り、拭いてやろうと時計に手をかけると、何か柔らかいものがあたった。


取ってみると、それは、地元の神社の名が刻まれた古びれたお守りだった。


『他人を何だと思っている』


ああ、そんなことが聞こえてきたんだったな……と、彼は苦笑いした。


では、僕は他人を何だと思っているんだろう


『信ずべき存在だ。

神は信じなくていい。幽霊もだ。

君が乾いた人間でなかったように

彼らは、君が思っているほど、乾いた人ではない

君が気を許しさえすれば』


そう、男のような声が聞こえた。


僕のこの言葉は、信ずべきものなんだろうか……


★ ★ ★


変わる、ということは精神的疲労を甚大にもたらすらしい。


あの先輩に声をかけてみた。


この日のために、彼女の好きな平成ジャンプの曲を全て網羅した。


僕は勇気を出して、○○かっこいいですよネ!とはしゃいでみた。すると、「そうなんだよー!!」と、僕の勝手なお淑やかなイメージが崩れるほどに、○○について随分長いこと聞かされた。ぶっちゃけ、何故そこまで○○に熱くなれるかがわからない。


けれど、僕にもそんな風に話してくれて嬉しかった。


楽観的になるままに、僕はふと思った。もしかすれば、一番初めの言葉は神のものかもしれない。しかし、その時は対人関係に悩んでおり、そうと決定付けられる証拠はもちろんなかった。


けれど、僕は変われるかもしれない。


とりあえず、土下座でもしてあの子に許してもらいにいけるかな?