彼女のナイフ
「待ちなさいよ。」
凛とした声。落ち着き払ったその声の中にある背中を突き刺す棘に男は思わず立ち止まった。
「あんたね。」
見慣れない女。空きスペースの目立つ地下駐車場の壁に響く声は、明らかに男に向けられていた。
「誰だい。」
女はヒールの音は響かせながら二、三歩、男に近寄った。黒いカットソーに濃紺のジーンズ。ラフな格好の長身の女。栗毛色のストレートの髪を長く靡かせ、化粧気のない顔に爛々と輝く鋭い視線が男に向けられていた。スタイルの良い女。化粧をすれば振り返らない男はいないだろう。ただ、その鋭い眼光が全てを台無しにしていた。
「あんたが殺したのね。」
問い詰めるような棘のある口調。女は硬い表情をしたまま男を見つめて言った。背後に回していた女の右手が意思を持って腰に当てられている。ナイフ。薄暗い駐車場の照明に鈍く光る刃先が上向きに男の胸元を目指していた。
「似合わないぜ。」
男はシャツの胸のポケットから取り出した煙草を口に咥えると、取り出したオイルライターを両手で包み
込むようにして火を点けた。薄明かりの中に浮かぶ男の悲しげな眼が女を見つめていた。眉間に刻まれた深い皺。口元にある横に引かれた古い傷跡が男の印象を暗く重いものにしている。女は身動ぎせずに男を見つめていた。女の言葉で男は女が誰なのか既に理解していた。一月程前に一人で組事務所に殴りこんだ男の婚約者。殴りこんだ男はその半年前に小指一本と札束一つを差出し、それと引換えに筋者から足を洗っていた。この女の説得と新しい生活への希望。それが目の前にあったのに男は二度と訪れる必要の無いはずの事務所に単身で乗り込み、二人の組員を刺し殺して自らも命を落とした。筋を通す男気のある男。ヤクザと言うより筋者。刑事として男に接しながら何処か認める自分がいたのは事実だ。事件の知らせを聞いて動揺を抑えきれない自分に驚き、それに慌てた。
「綺麗なあんたに刃物は似合わねえ。」
「あんたが殺したのね。」
「そうかもな。」
沈黙。男は煙草の煙をゆっくり吐き出した。薄紫の煙が薄明かりのなかを漂い、消えて行った。足を洗ってはいたが裏社会に精通する有力な情報源として付き合いは続いていた。男と男の付き合い。仕事上の付き合いのつもりでは無かったが男は自分に協力的だった。裏社会から完全に足を洗わせず、片足を残させたのは自分だったかも知れない。そして男が動くきっかけを掴ませたのも結果的には自分だ。
「何で止めてくれなかったのよ。」
「俺にはその資格は無いのさ。」
「デカの癖に。」
「そうだな。だがな、その前に男なのさ。」
男に止められた訳はない。知らないうちの出来事だった。あの男が決めた事。訳はそれ相応だったはずだ。知ったところで筋物の血がまだ生きていた男を止められた自信は男には無かった。女は腰にナイフを抱いたまま男へ向かって走り寄った。男は身動ぎせずに女のナイフを素手で握った。女がためらいを感じながら力なく突き出したナイフは男の手の中にあった。駐車場の床にゆっくりと落ちる血の滴に構う事なく男はナイフを折り畳み、女に差し出した。
「良い女には似合わない。あいつにお似合いの良い女だぜ。」
「あの人を返してよ。」
女の声から消えた棘。先ほどまで射す様だった瞳から大粒の涙が転げ落ちた。
「帰れよ。家へ帰るんだ。奴があんたを待ってるぜ。」
女の手から落ちたナイフがコンクリートの上を跳ねた。
「奴はそこであんたと平凡に暮らしたがってた。本気だったぜ。血が許さなかったけどな。」
男は静かにそう呟くと何事も無かったように夜の闇へと歩き出した。