春の雨
雨。夕刻から振り出した雨は雨足を強めながら次第に激しさを増していた。男はカウンター越しに開け放たれた引き戸の向こう側の路面を叩く雨を静かに眺めていた。時折、夜風に小さくたなびく暖簾。それを潜り抜けて店を訪れる客はまだいない。駅前から細い路地を入った奥まった一角にある小さな料理屋。路地を行き交う人影もまばらな一帯には、こじんまりとした酒場が寄り添うように軒を並べる。酔い客の交わす賑やかな会話が時折店の前を通り過ぎて行くと、静けさの向こうから雨音が小さく響いた。この店を開けて二年。弟分がどこかの伝手で用意した古びた小料理屋。商売を始めるつもりもなく、引き戸を開けて板場の中で男はただ待っていた。そして二年。待ち続ける間に馴染みの客が訪れる様になり、男は無口にそれを迎えていた。男は作務衣の襟元を直すと雪駄履きの足を引きずり板場の端の一升瓶を取り出してコップに注いだ。鍋の中から付き出しの煮物を小鉢に移し、摘んで口に運ぶ。料理人の経験などない。気の向くままに作る素朴な酒の肴はいつの間にか好評だった。コップ酒を片手に通りに眼を向ける。暖簾の向こうに雨に抱かれる紺のスーツ姿があった。
「いらっしゃい。」
男の声に表情はない。気が付くといつの間にかこうなっていた。抑制の効いた静かな声。暖簾に隠され、路上に立つ男の顔は見て取れないが男にはその顔が分かっていた。
「待ってたぜ。」
スーツ姿の男の靴元が戸惑うように小さく動いた。暖簾の隙間に差し込まれた日に焼けた手でゆっくりと暖簾を持ち上げると、色黒の大柄な男がゆっくりと店の敷居を跨いだ。歳格好は三十半ば。日に焼けた顔に曇った眼が静かに男を見つめていた。 雨に濡れたスーツの肩を軽く手ではたく。ビニール傘を入口に無造作に立てかけると小さな椅子を引いて黙って腰掛けた。男は自分と同じように一升瓶からコップに冷酒を 注ぐと黙ってスーツの男の前に差し出した。沈黙。静かな時間の向こう側に雨音だけが響く。スーツ姿の男はおもむろにコップ酒に手を伸ばすと、口に含むようにして酒を呑んだ。
「何で逃げなかったんですか。北へ逃げれば迎える舎弟はいくらでもいる。」
見上げる視線。相変わらず曇った視線で男を見つめて言った。
一端の筋者になった。切れ味の鋭い刃物がしっかりと鞘に収まる。 そんな身のこなしがすっかり堂に入っている。臭いを消し、いつでもまたそれを漂わせる事ができる器量をいつの間にか身に着けていた。ギラギラとした時期を連れ歩き、面倒を見たのは男だった。
「待っていたからな。お前が遅すぎた。」
「理由を知りゃしません。叔父貴の事だ。訳はある。ただ親父を殺っちまう事はなかったんだ。」
スーツ姿の男はカウンターに眼を落としながら噛み締めるように静かに言った。
「殺っちまったのさ。昔話をしても仕方ねえ。」
男は手元のコップ酒をぐびりと飲み干した。首元の手拭を外すと、まな板の上から刺身包丁を取り上げてその柄にしっかりと巻きつける。カウンター越しに身を乗り出すとスーツ姿の男の前に置いた。組を継いだのはスーツ姿のこの男だった。男がここに居る事を知らなかったはずはない。知らない振りをしていた。それだけの事だ。
「ここで事になりゃ迷惑になる奴がいる。そいつを呑んだら表に出ろよ。」
コップ酒に視線を向けるスーツ姿の男の肩が小さく揺れた。男はカウンターの跳ね上げ板を持ち上げると雪駄を引き摺りながら暖簾を潜った。春の雨が男を濡らした。