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67. 誇り

 もう随分と長い間、マギサは森の中をさまよっていた。


 時間感覚が麻痺している。


 1時間か、2時間か、それとも一日か……。


 果たしてどれだけの時間をここで過ごしているのだろうか。


 不安にかられる。


 薄暗い森が広がっている。


 だが、奇妙なことに森の中には一切の生物の気配が感じられない。


 気味の悪い空間だった。


 グーっと腹が鳴る。


 この空間に閉じ込めれてから、マギサは何も食べていなかった。


 しかしそれにしても異様なほどの空腹を覚える。


 しばらく歩くと、


「ひっ」


 骨が転がっていた。


 人の骨だ。


 骸骨だ。


 もう何年、何十年も放置されているように見える。


「やっほー、王女サマ!」


「……ッ!?」


 ヘンゼルが笑顔で手を振っていた。


 マギサは警戒する。


 それも当然だ。


 先程、殺されかけたのだから。


「これはあなたの仕業ですか?」


「え? 違うよ。ボクはこんな残虐なことはしないし、できないよ」


 残酷という意味では、ヘンゼルも負けてはいないはずだ。


 しかし、そんなヘンゼルが残酷で表現するほど、この空間は地獄ということだ。


「だったら、誰が――」


「ねえわかってるよね? わざわざ聞かないでよ、めんどくさい。

グレーテルだよ。あの子、力の制御ができないからさ」


 ヘンゼルはあっけらかんした態度だ。


 まるで緊張感がない。


 あーあ、と言いながら地べたに座りこむ。


「この場から出られる方法をご存知でしょうか?」


「え? 何いってんの? 無理だよ」


「え? 出られない?」


「うん。少なくとも中から出られる方法をボクは知らないかな」


「……それは」


「つまり、ボクたちはここで朽ち果てるわけだ。ね? 楽しいでしょ?」


 ヘンゼルは笑顔で言う。


 マギサは絶句した。


「出られる方法を探しましょう」


「えー。無駄だと思うけどなー。だってここから出られた人見たことないしー」


「それなら私達が最初の一人になればいいだけです」


「お姉さん必死だねー」


「あなたはなんでそんな余裕なんですか? このままだと死ぬのですよ?

わかっているのですか?」


 マギサの表情には焦りがある。


 彼女には絶対に死ねない理由がある。


 アークに宣言したばかりなのだ。


 ここで朽ち果てるわけにはいかない。


「どうせ死ぬ命なんだ。どこで朽ちようと変わらないさ。ここで死んでも一緒でしょ」


「そんなことは……」


「お姉さんはさ。王女サマでしょ?」


「え、ええ」


「それならきっと大事な命なんだろうね」


「どの命も平等に、大事です」


 ヘンゼルの瞳が暗く光る。


「それ本気で言ってる?」


 子供とは思えない迫力に、マギサは言葉を失った。


「まさかボクみたい命と王女サマの命が同じだと本気で思ってる? そんなわけないよね?」


 ヘンゼルはマギサに詰め寄る。


「だったら、ボクが人を殺す価値もなくなっちゃうじゃないか」


「……殺す価値?」


「ボクが人を殺すのはね、ボクよりも価値のある生命を奪うのが楽しいからだよ。

どうしようもなく、無意味で無価値なボクが、意味もあって価値のある人の命を奪うんだよ?

この理不尽さがボクは好きなんだ。

そうすることでようやく生きてるって思えるんだ」


「わかりませんね」


「王女サマはきっとボクでは想像できないほど恵まれていて、望まれているんだろうね。ボクたちとは違ってね」


 ヘンゼルからすれば、それは自虐ではない。


 事実だ。


 哀れみもいらない。


 そういうものだと受け入れている。


「ええ。そうですね。これっぽっちもあなたの気持ちなどわかりません」


「わかって欲しいなんて思ってないよ。

あーあ。お腹減ったね。ボク、空腹は嫌いなんだよね。ねえ。王女サマは空腹ってどういうのか知ってる?」


「もちろん」


「うっそだぁ。王女サマが空腹になるはずないもん」


「なりますよ。私だってあなたと同じ人間なんですから」


「さっきからその、ボクと同じみたいに言うのやめてくれない? 虫酸が走るんだけど」


「……」


「まあいいけど。でも王女サマはやっぱり空腹を知らないと思う」


「なぜそう言い切れるのですか?」


「本当の空腹ってのは、死ぬよりも辛いんだよ?

食べるものがない。ただそれだけのことなのにね。なんであんなに辛いんだろうね?

絶望という言葉すら生ぬるい地獄もあるってことだよ。

王女サマにはわからないよね?

苦しくてしんどくて死にたくなるような辛さなんて味わったことないよね?

ずっと恵まれたところから、僕たちを見下ろしてたさ。見下してたんでしょ?

さぞ楽しかっただろうね。僕たちのことなんて知らずに生きてきたんだよね?」


 ヘンゼルがまくしたてるように言う


「同情が欲しいのですか?」


「……そんなのはいらないよ」


「ではどうしてほしいのですか? 辛かった? それはわかりました。

もちろん、私はあなたのことを知りません。境遇もいま初めて知りました。

あなたのいう空腹も知りません。私はさぞ恵まれていたのでしょう」


 マギサは冷たい目をヘンゼルに向けた。


「――だからどうなのです?」


 マギサは善人で善良な人間だ。


 だからといって、すべての人間に対し平等(・・・)に優しいなんてことはない。


「あーあ、むかつくなぁ。やっぱりムカつくよ。

この世界はね、グレーテルの絶望の箱庭なんだ。

ボクたちはここから出ることはできない。ボクたちは強烈な飢餓感を持ったまま死ぬ。

あと数時間もすればボクたちは思考することすらできなくなるだろうね。

食べることしか考えられなくなる。ああ、そのときはボクも王女サマも獣に成り果ててお互いを貪るだろうね。

あ? これ比喩じゃないよ。本当に獣になるのさ」


「私はどんな状況でも人食いなどしません」


 プハッとヘンゼルが吹き出す。


「いつまでそう言ってられるのかな?

王女サマが理性をなくすのをボクは待ち遠しいよ。

だからそれまで、王女サマを殺さないでおいてあげるよ。

特別だよ?」


 ヘンゼルはそういって地面に寝転がった。


◇ ◇ ◇


 マギサは、一人で脱出の方法を探すために足を動かし始めた。


 しかし、どれだけ動いても手がかりが見当たらない。


 そして時間とともに空腹と絶望が増していく。


 人生で一度も経験したことのないほどの空腹だ。


 ヘンゼルがいう”地獄”というのが少しは理解できた。


 最初は体を動かすのも億劫になってきた。


 次に吐き気を覚えた。


 そして、めまいや手足の震えが起こり始めた。


 さらに時間が経つ。


 動く体力がなくなった。


 意識が朦朧としてきた。


 お腹と背中がくっつきそうという表現がある。


 言い得て妙だと思った。


 近くにあった草にかぶりつく。


 「おぅ……えぇ」


 吐いた。


 空腹な状態でも食べられる味ではなかった。


 この空間には、食べるものが存在しないことを思い知らされた。


 さらに時が経つ。


 頭は食べ物のことでいっぱいだった。


 なんでもいい。


 食べられるなら、なんだっていい。


 マギサは己の腕を見る。


 腕でもいい。


 食べられるならなんでもいい。


 空腹で死にそうなはずなのに、肉付きの良い腕だった。


 食べたらさぞ美味しかろう。


「ダメです。私は……マギサ・サクリ・オーディン」


 それは彼女の誇示である。


 死ぬときですら王族としての誇示を示そう。


 そうでなければ釣り合わない。


 認めてくれた、忠誠を誓ってくれたアークに。


 アークの期待に応えるためにも、彼女は正しくあらねばならなかった。


 どんな状況でも正しさを貫く必要があった。


 たとえ誰も見ていなくとも。


 誰にも看取られなくとも。


 マギサは逃げることが許されなかった。


 逃げることはアークへの裏切りとなるのだから。


「あー、やっと見つけたよ。王女サマ。ここは広くてかなわないね」


 ヘンゼルがニコニコした顔で現れた。


 だが先程とはうって代わり、ヘンゼルの目には余裕がないように見えた。


 目が血走っている。


「もう駄目だ。王女サマ。ねえ、王女サマってどんな味がするんだろう?

僕はね、王女サマが食べたいんじゃない。命が食べたいんだ。

きっと美味しいだろうなぁ。極上な味がするだろうなぁ。だって王女サマっていつもいいものばかり食べてるでしょ?

ああ、肉肉しいよ。ほんとに憎々(・・・)しい」


 ヘンゼルがマギサのもとに駆け出す。


 もうマギサは指一本動かす体力すら残っていない。


 だが彼女の目は死んでいなかった。


 なぜなら、


「あなたなら来てくださるだろうと思っておりました」


――絶対零度(アブソリュート・ゼロ)

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