祖父が死んだときのこと

作者: はいあか

 祖父が死んだと聞いたとき、真っ先に浮かんだのは、これで仕事が休めるということだった。


 心底薄情なやつだと思うし、そう罵られても仕方がない。だけど遠く離れて暮らしていて、せいぜい年に一度くらいに会う祖父なんてそんなものだ。

 それよりも俺は今の仕事が苦痛で仕方がなかった。新卒で入社して、まだやっと一年が過ぎたあたり。責任の重い仕事も振られてないし、残業だって他に比べたらそれほどだ。頭痛も眩暈も、いずれ慣れると先輩たちに笑われた。

 だけど帰りの電車内で零時を迎えるたび、俺はただ、ぼんやりとした痛みを胸の奥に感じていた。深い澱が体の中に染み渡り、なにをしたかったのかもわからなくなる。感情が麻痺したように、なにをしても動かない。自分の趣味すら、忘れそうになる時がある。

 そんな馬鹿らしいほどに忙しいこの会社も、さすがに親類の死に目に遭っては、数日の休みを取らせてくれた。

 俺はこれをちょっとした冬休みの代わりとして、祖父の住む北海道の田舎へと、半ばバカンスの気持ちで旅立った。


 そんな調子だったから、死に目を見ても納棺をすませても、ちらりとも涙が出なかった。

 鼻が赤くなるほど寒い日。葬儀場で灰になる祖父の煙を見上げながら、俺は白い息を吐いた。スーツのポケットに手を突っ込んで立っていると、隣で母が泣いていた。祖父の妹やら友人やらまでいて、誰も彼もしめやかに泣いている。

 いったいどれほど俺は薄情な人間なのだろう。泣かないといけない気がして、祖父の記憶を辿ってみても、まるでからのバケツをひっくり返すような無駄な努力だった。


 祖父は七十八だった。若い若いと言われながら死んだけど、俺にはこれが若いのかそうでないのかわからない。ただ、最後に会った祖父は呆けてもいなかったし、足腰もしっかりしていたように思う。

 相変わらず気難しそうな顔をして、相変わらず口数が少なく、相変わらず古めかしい人だった。俺はそんな祖父が、生来の小心さゆえか、ずっと怖かった。



 通夜も葬儀も終わると、祖父の家には誰もいなくなった。祖父の友人も親戚もみんな自分の家に帰っていき、残ったのは母と俺だけになった。

 家を片付けないとね、と母が言った。この家を継ぐ人間は誰もいない。祖父は息子に恵まれず、三人いた娘もみんな嫁に行った。祖母は俺が生まれる以前に亡くなっていて、娘がいなくなってからはずっと一人だった。

 一人には広いこの家で、祖父は二十年以上暮らしていた。古い木造の二階建て。昔づくりの急な階段と、裸電球。夜でも絶えることなく焚かれるストーブ。二重の窓には虫が張り付き、そこから路面電車よりも遅く走る、一両編成の電車が見える。かつての国鉄で働いていた祖父は、電車が見えるところがいいと、終の棲家を選んだのだろうか。

 母の片づけを手伝いながら、俺は祖父の暮らしを想像してみた。妻を亡くし、娘たちもいなくなり、しんと静まり返った家。雪の音が沁みる中、一人で食事を作り、一人で片づける。仏間には線香を絶やさず、備えた花の水を毎日毎日取り換える。薄情な孫はほとんど顔を見せもしない。だけど死に際には、たくさんの人が駆けつけた。

 そうしていると、少しくらいは悲しみが差すような気がしたのだ。

 だけど、いくら考えても涙は出ない。




 祖父が嫌いだったのかといえば、別にそういうわけでもない。

 たぶん、祖父を嫌いになるほどよく知らなかったのだと思う。だから、嗚咽の響く葬式の中でも、ただぼんやりと、意外に慕われていたんだなあくらいにしか思わなかった。

 いったいあの気難しそうで言葉少なな祖父の、どこが慕われていたのだろう。世話になったと祖父の友人や国鉄の元後輩たちが口々に言っていたが、なにを世話したのか見当もつかない。


 ○


 柱についた傷を撫で、母は俺を呼んだ。

「弘樹、見てこれ。コウちゃんと背比べした時のだよ」

 言われなくとも、隣で古紙をしばっていた俺は気づいていた。祖父の家の思い出といえば、たまに鉢合わせる従兄弟と遊ぶ楽しさくらいなものだった。コウは俺の半年後に生まれた従兄弟で、今回の葬儀には仕事の都合で来られなかった。

 母は柱の前に立つ俺に、昔の傷を示してみせた。傷は俺の肩くらいまでしかない。

「こんなに小さかったんだねえ」

 しみじみという母に、俺は黙って頷いた。つまり、俺はこの肩くらいまでの頃以降、祖父の家にはほとんど来なくなったのだ。理由が格別あるわけではない。だんだん、なんとなく。俺は家族だけのものではなく、自分の時間を大きくしていっただけだ。


 人気のなくなった祖父の家で、俺は一人で布団を敷く。母と並んで寝るわけにもいかず、二階の使われていない部屋で、北の寒さを身に沁みながら目を閉じた。この二階は、昔から子供部屋だったらしい。子供がいなくなった後は孫の部屋になり、いずれは誰も使わなくなった。

 息を吐くと、暗闇の中に白いもやがたつ。

 明日は土曜日だ。明日は一日中母の片づけを手伝って、明後日の午後の飛行機で本州へ帰る。それでこの休みも終わり。また会社に行くのだと、ぼんやりと考えた。

 夜中の電車の音がする。夜でも休まず、ストーブの燃える音がする。それでも二階を温めるには足りず、頬がしびれるように冷えた。俺は頭から布団をかぶり、体を丸めた。祖父もここで、こんな風に寒さを感じていたのだろうか。想像をしてはみたが、上手く姿が結びつかない。

 ぼんやりとする。頭の中から、感情が失せたみたいに。電車の音が遠くする。静けさが音を立てて迫る。ここは人が死んだ家。俺の祖父が死んだ家。

 泣かないと。泣かないと。泣かないと。

 辛い時は泣かないと。


 ○


 朝の空気は、夜よりもなお冷える気がした。

 母はさすがに、元々北の生まれだけある。早くから雪かきをすませ、玄関から道路までの道を作っていた。そして、なかなか起きてこない俺に文句を言う。

「せっかく男手があるのに、役に立たないわねえ」

 母はこの家の長子だった。結婚して本州に渡ったのは、二十五の時だと聞いた。俺を生んだのはその翌年。親父が死んだのは、さらにその翌年だった。それからは、ずっと男手といえば、俺一人のことを指す。

 晴れて母から役立たずの称号をもらい、俺はまた、部屋の片づけに戻った。古い雑誌や新聞をしばるだけの簡単な作業だ。

 ときどき雑誌をめくり、新聞の日付を確認する。歴史の教科書に載るような古い事件の見出し。白黒の天気予報と将棋の棋譜。あいだにはさまった安いインクのチラシ。それらをまとめて縛り上げると、もう目を向けることはない。なにも考えずにできる作業は、水に浮くように心地よい。



「調子はどうだ」

 祖父の話す言葉の中で、唯一覚えているのがそれだった。口癖みたいに、何度も口にしていたからかもしれない。叱られた記憶も褒められた記憶も遠いのに、これだけは妙に残っている。

 なにをしている時も、祖父はそう聞いてきた。俺はだいたい当たり障りのない答えを返していたはずだ。コウも変わらない。祖父は少し、俺たちには遠すぎた。


「弘樹、見て」

 母が呼んだ。手元に大きめのアルバムがある。またなにか見つけてしまったのだ。

 俺は作業の手を止めて、呼ばれるままに母の元に寄った。そこで少しだけ驚いた。

 母は泣いていた。アルバムには色あせた写真が挟んである。若い祖父と母と、俺に似た男。写真の中でしか知らない親父だった。

「どうしたの?」と俺が尋ねる前に、母は写真の一つを指さした。

「これ、結婚前のお父さん。写真を撮ったのはお祖母ちゃんね」

「ふうん」

「この時のお父さんね、プロポーズしに来たのよ。お祖父ちゃんに、娘さんをくださいって。これはその後の写真。よく撮ったわね、お祖母ちゃん」

 母は涙交じりに笑っていた。母と親父のプロポーズは、実のところ母本人の口から何度も聞いていた。だが、写真まで見たのは初めてだ。祖父は気難しそうに口を曲げ、親父は俺そっくりの小心な顔つきで、居心地悪く写真に写っていた。

「お父さんなんてあんな人だから、お祖父ちゃんは全然認めてくれなかったのよ。それでもほんと、あの人にしては珍しく、諦めもせずこりもせず、何度も何度も通ってね」

 母は写真の表面を優しく撫でた。この写真に写る人間は、もう母を残して全員居なくなってしまったのだ。

「それでお祖父ちゃんも、ついに折れてね。そんなに欲しいなら勝負しろ。俺に勝てたら娘をやってもいいって言って」

「将棋の勝負をしたんだろ?」

「そう。お父さん、他には麻雀くらいしかできなかったしね。でもお祖父ちゃん、地元じゃちょっと有名なくらい強かったのよ。ちょっとかじったお父さんじゃ勝てないくらい」

 目の端を擦り、母は思い出すように顔を上げた。今の母の目に映るのは、この空虚な死者の家ではないのだろう。昔、俺の知らない昔の、祖母と父がいたころの家だ。

「でも、結果はお父さんの勝ち。私はあまりルールを知らないんだけど、いい勝負だったってお祖母ちゃんが言っていたわ。どっちが勝ってもおかしくなかったって。……でもね」

 ふふっ、と母は笑った。肩が震えているのは、泣いているからか笑っているからかわからない。

「ルールがわからないから、私にはわかっちゃったのね。お祖父ちゃん、自分が勝たないように打っていたの。一度置こうとした駒を引っ込めるなんて、だってこれまで絶対にしなかったもの」

 なのにお父さんたら、こんな顔。母はそう言って、ことさら優しく親父に触れた。情けなさそうに眉を下げ、祖父を窺う親父の顔。

「本当に将棋の勝負で良かったのかって、この後しばらく思い悩んでいたわ。馬鹿ね。勝つことが大事じゃなかったのに。素直になれないお祖父ちゃんが、理由作りのためにした勝負だったのよ」

 それから、母は一つ、深い息を吐いた。頬は涙にぬれているのに、幸せなのだとわかった。母はきっと幸福だった。早死にの親父と結婚したことも、この家に祖父がいたことも。

 涙が出るほどに幸福なことなのだ。それはとても素晴らしいことだ。まるで他人事のように、俺は母の横顔を見ていた。

「弘樹も、将棋好きのところはお祖父ちゃんとお父さんに似たのね」

 改めて目を拭うと、母は明るく言った。俺が将棋を指すことを、当たり前のように思っている。なんの疑いもない視線を、俺は何気ない様子で流した。

「……最近は、別に。そんな時間もないし」

「そうなの? まあ、弘樹と指す相手もいないしね。コウちゃんも忙しいみたいだし」

「うん」

 俺は軽い調子で頷いて、また紙を束ねる作業に戻った。母もアルバムを閉じ、押し入れの中を探り始めている。

 古い新聞の端に、棋譜が載っている。片づけをしながら何度も何度も見たのに、少しも興味を抱かないままに縛っていた。

 ぼんやりとした体に、なにか妙な汗がにじむ。風邪をひいたときのようだ。頭が痛むのに、節々が重いのに、それを自分の体のようには思えない。

 俺は、いつから将棋を指していないんだっけ?

 電車の中で、スマフォのアプリをダウンロードした。対人はできないけど、コンピュータ相手でもいいと慰めていた。名人の試合を見ては、コウとなんだかんだと言いあった。年の近い連中に、将棋が趣味の奴なんて少ないから、コウはいつも格好の話し相手だった。

 アプリに触らなくなったのはいつからだ? 名人戦を録画しなくなったのはいつからだ? 浩平とは、いつから会っていないんだっけ?

 ふと、指先に鋭い痛みがあった。紙で指を切ったらしい。棋譜が、俺の血で赤く塗りつぶされる。

 指の痛みはまるで他人のもののようだった。棋譜が汚れても、何も感じない。


 ○


 明日の午後の便で、俺は帰らなければいけない。

 明日で終わりだ。祖父の死は、このたったの数日の間で終わる。

 泣かなければいけない。

 悲しまなければいけない。

 体が震えている。布団の中に潜り込み、俺は子供のように丸くなって目を閉じる。いつまでたっても眠れない。頭の奥が締め付けられるように痛くて、喉の奥が乾いている。なのに、それが自分の体のように思えない。

 明後日からは仕事だ。朝早くに電車に揺られ、日付が変わるころに帰ってくる。だけどこんなことは当たり前で、俺だけじゃない。みんなしていることなんだ。

 祖父のことを考えようとしても、どうしても思い出せない。「調子はどうだ?」その声だけが繰り返される。俺は無難に答える。「まあまあだよ」それで終わりの、感情のない、薄情なやつ。

 遠くで電車の音が聞こえる。電車の音は祖父を思い出させるはずだ。この家に遊びに来るときは、いつも電車の音が聞こえていたはずだ。

 俺は悲しいはずだ。

 だから泣かないといけない。

 泣かないと。

 辛い時は、泣かないと。


 心というものが麻痺したように、俺はなんの感慨も抱かない。

 祖父が死んだ。

 それだけを理解している。


 ○


 午前中まで母を手伝い、午後になったら空港まで、電車とバスを乗り継いでいく。遅めの便を取ったが、それでもこの片田舎から空港までは結構かかる。

 母は少しでも俺に作業をさせようと、あれもこれも押し付けてくる。今日は二階の片づけだ。階段の上がり下がりが面倒だから、俺がいるうちに終わらせてしまいたいのだそうだ。

 俺は素直に母の指示に従った。その方が考えなくてすむ。言われるがままの作業は、なにしろ楽だった。

 押し入れから古い雑貨を取り出して、母が吟味してから捨てるか譲るかを決める。俺は母が取れないような高い場所や、重いものを運ぶ役割だった。紙をしばるよりもずっと力仕事で、親父に似て体力のない俺にはけっこう堪えるものがあった。

「弘樹、弘樹」

 例によって、母が俺を呼ぶ。俺はやはり言われるがまま、漂うように母に近づく。

「昨日話していた将棋。ほら、こんなところにあった」

 母が示したのは将棋盤だった。足の付いた立派なもので、古びてはいるが、よく手入れされている。まるで毎日拭いていたかのように、汚れ一つない。

 どうやら、押し入れから見つけ出したらしい。見つけ出した、というよりも、押し入れの一番手前に入っていたのだと、ほとんど手つかずの押し入れの中を見て気づく。

「駒もちゃんとある。お父さんが使っていたころとおんなじ」

 母が駒の入った木箱を開け、俺に中身を見せた。俺は何気なく、その一つを摘み上げる。その懐かしい手触りに、少しの間息が止まった。

 触り覚えがある。滑らかな木肌。漆の指ざわり。指に感じる重み。

 俺は歩兵を一つ取り、将棋盤に指してみた。懐かしい、乾いた心地のいい音がする。

「そう言えば、弘樹もよく、コウちゃんと指していたもんねえ」

 母が俺の姿に目を細めた。まだ俺が俺の肩くらい小さかったころ、正月に会うコウと、よく向かい合って将棋を指した。横には母とコウの叔母さんがいて、それから祖父がいた。

 祖父は黙って、俺とコウの勝負を見ていた。一手一手をなぞる様に見つめる祖父の目に、俺はひどく緊張をしていたものだ。

「どうしてこんなところにあるのかしらねえ」

 母の呟きを、俺はほとんど聞き流していた。指に触れる駒の感触に集中していたせいだ。気を抜くと取り落しそうになる。そのくせ、手は無意識に駒を握りしめているのだ。なにをしているのか、自分でもわからない。

「お祖父ちゃん、大切にしていたのに。使わない二階に置いておくなんて。弘樹とコウちゃんが将棋する時も、いつも一階のお祖父ちゃんの部屋から持ってきていたでしょう?」

 一階。祖父の部屋。単語を耳に拾い上げる。確か祖父の部屋には、一度だけ入ったことがある。そこで、そう。この将棋盤を見せてもらったのだ。

 それが将棋の始まりだった。一番はじめの、何気ないきっかけ。祖父が俺に将棋盤を見せ、指しながらルールを教えてくれた。俺はわけもわからないままに負かされて、「調子はどうだ?」と聞かれたのだ。

 悔しかった。だから俺はコウを呼んで、覚えたてのルールで今度はコウを負かせたんだ。

「お祖父ちゃんの将棋の相手もいなくなっちゃったからかしら。あんなに大事にしていたのにねえ…………」

 指の間から駒が落ち、俺は慌てて拾い上げた。そのときちょうど指先の傷に触れ、痺れるような痛みが走った。傷が開いて血がにじみ、寒さにあてられて冷え冷えとした。生々しい感触だった。

 窓の外から、電車の走る音がする。空は高く、冬の日差しが雪を照らしていた。俺の腹がぐうと低く空腹を告げる。母が笑って、将棋盤を押し入れに押し戻した。

 腹が減ったと感じたのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。


 ○


 飛行機の時間に、危うく間に合わないところだった。慌てて走って乗り込んで、冬だというのに酷い汗をかいた。空いていたのは幸いだ。隣に人が座っていたら、ずいぶんと白い目で見られただろう。

 窓際に座り一息ついてから、ついつい癖でポケットを漁ったとき、俺は歩兵を一人連れてきてしまったことに気づいた。

 指ではさんでくるくると回しているうちに、飛行機が走り出した。白く凍てついた滑走路を、揺れながら走る。

 俺は歩兵を眺めながら、ぼんやりと、今度こそ本当に祖父のことを思い出す。

 最後に会った祖父は、呆けてもいなかったし足腰もしっかりしていた。俺はそのとき就職したばかりで、たぶん気も強くなっていたのだと思う。ちょっとくらい就職祝いをくすねようかと、小心な俺には珍しい算段していたところだった。

 そんな俺の下心に気づいてか、気づかないでか、祖父は俺に勝負を持ちかけた。まずは一局指そうかと。

 そして二人で将棋盤を睨んでいるとき、祖父はいつものように言ったのだ。

「調子はどうだ?」


 就職をしたよ。

 どんな会社だ。

 まあまあだよ。

 最近は就職も大変なんだろう?

 まあまあね。将棋が好きだって言ったら話が合って、採用してくれた。

 やっていけそうなのか。

 まあまあだよ。

 無理はするな。母さんを悲しませるんじゃない。

 うん。

 辛くなったらここへ来てもいい。将棋くらいは相手をしてやる。

 ……うん。


 あの時の祖父は饒舌だった。物珍しさに驚いたものだ。もしかして、あれが俺との最後の会話になるのだと、悟っていたのかもしれない。

 そう思いかけて、違うと気付く。祖父は二階に将棋盤を置いていた。

 二階は子供部屋だ。俺もコウも、いつもあそこに寝泊まりしていた。そしてあの部屋で、将棋を指していたんだ。

 祖父はもしかして、一番将棋を指しやすい場所に、将棋盤を置いていたのではないか?

 また勝負するために。今度は、俺やコウを相手に。


 もしも祖父が生きていたら、俺はあの部屋で、祖父と将棋を指したのかもしれない。

 もちろん、頭ではそんなことはありえないとわかっている。こんな機会でもない限り、俺が祖父の家に行くことは、きっとなかった。

 将棋を指すこともなかった。祖父は二階に移動した将棋盤を、拭きながら、ありもしない対局を考えていたのだろうか。言葉少なで、素直でない、不器用で、だけど意外に慕われていた男が。


 歩兵を一つつまみ、俺は無意識に指した。見えない盤上に駒が並ぶ。向かいに祖父がいて、相変わらず気難しそうな顔をしている。母が見守り、コウが囃して、祖父はいつものように口を開くのだ。

「調子はどうだ?」


 ほつりと糸がほどけたように、涙があふれ出た。一度溢れると止まらずに、拭っても拭っても流れ続ける。隣に人がいなくて、本当に良かった。


 調子はどうだ?


 聞こえない祖父の声に、俺は答える。

 辛い。辛いよ。泣くことも忘れるくらい辛かった。

 祖父ちゃん、ごめん。祖父ちゃんをダシにして泣こうとしていたんだ。本当は自分のために、泣きたかったんだ。

 将棋がしたい。それすら忘れることが辛かった。

 祖父ちゃん。

 俺は子供だったあの日、祖父ちゃんと指した将棋が、今もずっと好きなままなんだ。