9 黒の位相2
「【奈落】……?」
『まずはご対面を。さあ、宿主様』
ラクシャサが俺の手を引く。
バランスが崩れ、ふらついてしまった。
『あら、失礼いたしました』
素早く俺を抱き留めるラクシャサ。
柔らかな肌や甘い香りに、思わずどきりとしてしまう。
『湖に落ちては大変ですね。宿主様の体力では泳ぐことも難しいでしょうし』
「……確かに、な」
いくら【固定ダメージ】があろうと、湖の底に沈んだら一巻の終わりだ。
『いえ、普通の湖であれば【鎖】を使って沈むことを防げます。ただ、この湖は特別なので……』
「【鎖】?」
『気づいてらっしゃらないのですか? あなたの【闇】が深まったことで、それも具現化を始めているはずです』
ラクシャサは俺から体を離すと、右手をまっすぐ伸ばした。
白くたおやかな手に漆黒の鎖が巻きついている。
『あなたの体にも同じものがあるはずです』
「何?」
俺はそんな鎖を身に着けた覚えはない。
そう思って、自分の体を見下ろすと──、
「なんだ、これは……?」
確かに、ラクシャサと同じく右手に漆黒の鎖が巻きついていた。
こんなものは、今までなかったはずだ。
『それは──いわば絆です』
「絆……?」
『【奈落】との、ね。空中に自分の体を固定したり、任意の敵を捕らえたり──使いようによっては便利だと思いますよ。もっとも、そんなことは副次的なもので、【鎖】の真の使い方は──』
『【端末037】──【
重々しい声が響いた。
湖の、底から。
まさか、これは──。
「【奈落】とやらの声、か?」
『ええ、私たちを──いえ、あなたを呼んでいるようです』
俺はラクシャサとともに湖の縁までやって来た。
【闇】の世界の湖は、どこまでも澄んでいて、底まで見渡せるほど透明度が高い。
「あれは……」
湖の底に、巨大な何かが沈んでいる。
『そう、あれが【奈落】です』
ラクシャサが告げた。
サイズが大きすぎて、その形を把握するのに時間を要してしまった。
おそらく一つの都市くらいの大きさはありそうな、超巨大な球体。
その表面のいたるところに黒い鎖が巻きつき、縛り上げている。
無数の鎖のうちの一本は水面から飛び出し、ラクシャサの手の鎖につながっていた。
──いや、ラクシャサだけじゃない。
よく見ると、俺の体に巻きついた鎖も、【奈落】を縛る鎖とつながっていた。
「なあ、この鎖はなんなんだ?」
『禁呪法『闇の鎖』によって、生け贄は【鎖】に縛られます』
解説するラクシャサ。
『通常なら、その鎖に力も命もすべて絡め取られ、吸い取られ、生け贄は死亡します。ですが、その呪縛をも跳ね除けることができたとき──生け贄は【闇】とつながり、【闇】を得るのです』
「呪縛を跳ね除ける……【闇】とつながる……」
俺はラクシャサの言葉を繰り返した。
同時に、思い出す。
そう、二年前に『闇の鎖』をかけられたときのことを。
──魔力を失い、体が著しく衰え、パーティを追放された俺。
ソードウルフの大群に囲まれ、絶体絶命──というところで、ラクシャサの声を聞いた。
EXスキル【固定ダメージ】を与えるという声に同意したとたん、俺の体を覆っていた黒い鎖ははじけ飛んだ。
そして、力を身に着けた。
「あのときの鎖は……俺を呪縛するものだったのか」
そして解放された俺は、新たな鎖によって──ある意味、別の呪縛を受けたわけだ。
【闇】という名の呪縛を。
『人の子よ、そして我が端末よ』
【奈落】から声が響いた。
『汝は、より強大な『力』を求めているのであろう?』
すでにお見通しのようだ。
質問の手間が省けて助かる。
『答えは極めて単純だ。我とのつながりが強くなれば、より大きな【闇】を得ることができる』
「つながりが強くなれば……?」
『汝が今までやって来たことと、基本的には同じだ。【闇】を育め。怒りを、恨みを、悲しみを、憎しみを、絶望を──あらゆる負の感情を湧き上がらせよ』
と、【奈落】。
『そして、もう一つ──【闇】は他の【闇】とのつながりや【光】とのかかわりで、より大きな【闇】を得る』
「【光】はともかく、他の【闇】というのはなんだ?」
俺以外にも似たような力の持ち主がいるのか?
『極めて少数ですが……あなたのように【闇】の力を得た者もいれば、あの少女のように力を与えられた者もいますよ』
ラクシャサが言った。
『ですが、世界は広い。その者たちと巡り合うのは、容易ではないでしょう。一番簡単なのは、あなたが【闇】を分け与えた存在──あの少女のような者とつながりを深めることですね』
「つながりを深める……か」
『手っ取り早いのは、彼女を恋人にでもすることでしょうか。契りでも交わしてみてはいかがです?』
「っ……!?」
思わず言葉を詰まらせた。
いきなり何を言い出すんだ、この女は。
『あら、意外と初心なところもあるのですね』
楽しげなラクシャサ。
と、
『──嫌な気配がするぞ』
ふいに湖が大きく震えた。
底にいる【奈落】がその超巨体を振動させたのだ。
『【光】の気配を持つ者が『
「【光】の気配だと……?」
俺は【奈落】の言葉を繰り返し、ハッとなった。
まさか。
胸の鼓動が早鐘を打つ。
全身から汗がにじむ。
胸の奥に痛みが、ついで熱い怒りと憎しみが湧き上がる。
そして最後に、強烈な喜悦が湧きたった。
この世界に、いるのか。
あいつが。
【光】の勇者ユーノが──。